2. 序 ―中川忠順と研究所の蔵書―
中川文庫は、明治から昭和にかけて活躍した美術史家中川忠順旧蔵の図書で、膨大な研究所の蔵書の約1割を現在も占める。研究所には、登録台帳と図書に捺された中川の蔵書印を除いて、中川文庫に関する記録はない。開所前夜の研究所は、すでに「研究資料ノ蒐集ハ事業ノ基本タルヲ以テ、絶エズ之ガ拡充ト整理トニ努メ研究調査ノ上ニ遺憾ナカラシメントス」を方針にかかげ、資料の収集活動を開始していた。当時の所員白畑よし氏の回顧談によれば、昭和3年3月22日の中川没後まもなく、中国書籍を扱っていた文求堂主人田中慶太郎の仲介で、昭和3年から4年にかけ、数回に分けて中川の蔵書の大半を購入したという。未だ美術史研究者が少数精鋭の時代にあって、中川の蔵書は、美術だけでなく歴史、文学、宗教等の幅広い分野を網羅し、しかも良質の稀覯本や漢籍を含んでいた。まさしく研究所の蔵書の母胎とするに相応しい内容であった。
中川忠順(ただより)は明治6年2月、金沢に生まれた。号は濳光。明治32年東京帝国大学国史学科を卒業後、33年内務省に入り、終生、古社寺保存会の仕事に従事した。古社寺保存会は、明治29年に設置され、明治30年の古社寺保存法公布にともなって内務省に移管され、長らく国宝及び特別保護建造物の調査、指定の中核となった組織である。保存会の組織は課長、技師、技手、嘱託という順に職掌がわかれ、中川は技師であった(『文化財保護の歩み』 目録番号 2887 )。
明治40年、中川は、第一回文展の日本画審査委員を委嘱された。ちなみに日本画審査員には、岡倉天心、正木直彦(東京美術学校)、中沢岩太(京都高等工芸学校)、松井直吉(東京帝国大学)、高嶺秀夫(東京美術学校)、塚本靖(東京工科大学)、大塚保治(東京帝国大学)、藤岡作太郎(東京帝国大学)、今泉雄作(東京帝室博物館)等がいた。委員を辞した後も、文展やその他の美術展の展評を数多く雑誌に掲載しており、当代の現代美術にも大きな影響力をもっていた。
中川と師である岡倉天心との出会いは不明であるが、古社寺保存会の活動をとおして両者は密接に関係していた。天心の中川宛書簡はかなり残っており、明治33年7月2日付内務省宗務局中川宛のものが最も早い。明治44年にはボストン美術館東洋部監査顧問の嘱託を中川へ依頼している。中川は大正4年になって渡米し、ボストン美術館で東洋部所蔵の絵画を整理した。ボストン美術館における活動は、日本美術協会(大正4年10月16日)と東京美術学校(同年11月20日)の2回の講演記録等に詳しい。天心の中川への深い信頼ぶりは、明治43年4月19日から東京帝国大学で「泰東工藝史」の講義を行っていた天心がほどなく講師を辞し、中川を後任の文学部講師として推薦したことに現れている。中川の講座内容について、丸尾彰三郎は「宋元墨画の伝来」、石澤正男( 1903-1987 )は「絵巻物」を受講したと述べている。「宋元墨画の伝来」の講義には、団伊能、上野直昭、田中豊蔵、福井利吉郎、藤懸静也、奥田誠一、春山武松などが聴講していた。
晩年の中川は、美術史界の碩学として認知され、尊敬を集めていた。大正13年10月18日に東京美術学校で開催された東京帝室博物館の講演会では、博物館員の高橋健自と東京帝国大学教授で古社寺保存会の委員でもあった瀧精一と共に中川が講師であった(速記録 『東京帝室博物館講演集第1冊』 目録番号 610 )。昭和元年、日本美術協会が個人蔵貴重美術品調査事業を開始すると、委員長は平山成信、委員は正木直彦や今泉雄作等と共に中川が任命されている(『貴重美術品報告大正15年度』 目録番号 2163 )。丸尾彰三郎は、瀧と中川が美術史界の両横綱だったと回想し、また弟子たちはいずれも「濳光先生」と尊敬をこめて呼んでいる。
当時の中川は、美術研究所誕生のきっかけを作った黒田清輝との接点もあった。大正8年2月15日、新海竹太郎が東京帝国大学山上御殿で行った細谷風翁と米山の作品展観には中川の他に中沢岩太、黒田清輝、正木直彦らが来館している。その後、新海が刊行した『風翁遺墨』(目録番号 6527 )には中川への謝辞があり、中川が展覧会の開催に尽力した事情がわかる。また大正10年12月26日の黒田清輝の日記には「午後五時會舘招待會 木彫史関係者中川忠順氏」との記載があり、当時、黒田と中川は華族会館における会合で面識があったことがわかる。古社寺保存会の技師としての公務多忙の中、昭和3年3月22日、56歳で病没。古社寺保存法に代わる国宝保存法の公布は、翌年であった。
研究所にとって岡倉天心にもつながる中川忠順の蔵書を購入できたことは極めて有意義であった。さらに中川の薫陶を受けた脇本樂之軒( 1883-1963 )、田中豊蔵( 1881-1948 )、熊谷宣夫( 1900-1972 )らは後に研究所の所員となって活躍している。蔵書と人材をとおして中川は研究所を育てた人物であった。中川忠順没後の昭和9年、子息の千咲氏が研究所の所員となり二代にわたる縁もあった。
中川は、黒田清輝の日記では木彫史関係者、上野直昭の文中では絵巻物の研究者とされている。しかし、その活動は、ひろく日本東洋の美術全般に及んでいる。中川は、数々の国宝指定を実現し、また美術史学の碩学として数多くの人材を育て、当代の現代美術にも信念をもっていた。今日からふりかえるとき、それは、誕生したばかりの日本美術史の体系に、具体的かつ緻密な研究の道筋をつけるものであった。中川本人の著作がなく、また没後に遺稿集の計画があったものの実現しなかったことは、重ねて不運なことであった。この小文がわずかでも中川忠順の顕彰となれば幸いである。 (情報調整室)
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中川文庫の中から執筆者あるいは編者として関わった重要な刊行物を紹介する。
『国宝帖』(『特別保護建造物及国宝帖』 目録番号 2834 )。 日本美術の紹介を目的とし、明治43年の日英博覧会の際に刊行され、大正4年のサンフランシスコ・パナマ万国博覧会に際して再版された。天心をはじめ、中川、伊東忠太、関野貞、平子鐸嶺( 1877-1911 )ら古社寺保存会のメンバーが執筆した。
遺稿集『仏教芸術の研究』(目録番号 676 )。古社寺保存会同僚平子鐸嶺の没後刊行の遺稿集で、中川、黒板勝美、稲葉君山三者の共編。文庫中の『安政新造内裏御絵様録』(目録番号 4745 )には「平子印」の捺印があり、平子の没後に形見として中川へ贈られたものと考えられる。
中川文庫には、中川と親交のあった新海竹太郎、脇本樂之軒、平子鐸嶺、文求堂主人田中慶太郎や、雑誌『新仏教』を創刊した高島米峰、東洋史学者の稲葉君山、仏教学者の島地大等、歴史学者沼田頼輔らの著作が多い。中川の私邸では、町名からとった原町会と称する会合があり、しばしば学者が集って談論風発であったと言われている。中川を囲む原町会のなごりである。
主な参考文献
上野直昭「中川忠順先生追憶」『大和文華』21(昭和31年10月)、 「古社寺保存会の想い出-伊東忠太博士を囲む座談会-」『史蹟名勝天然紀念物』17 - 11(昭和17年11月)、『脇本樂之軒の小伝と追憶』(風濤社 昭和46年8月)、丸尾彰三郎「中川忠順」『月刊文化財』114(昭和48年3月)、『岡倉天心全集月報』4(平凡社 昭和55年6月) |