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白馬会関係新聞記事 第13回白馬会展

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白馬会画評(はくばくわいぐわひやう)(一)
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| 丹青子 | 国民新聞 | 1910(明治43)/05/22 | 6頁 | 展評 |
全体(ぜんたい)が六百五十七枚(まい)。小(ちひ)さな作品(さくひん)が無暗(むやみ)に多(おほ)いので一寸(ちよつと)まごつく。それに画(か)き振(ぶり)が大抵同(たいていおな)じで、おまけに大家(たいか)がちつとも骨(ほね)を折(を)つた物(もの)を出(だ)して居(を)らぬ。が之(これ)には大(おほい)に理由(りいう)があるだらう。其(それ)は即(すなは)ち秋(あき)の文部省展覧会(もんぶしやうてんらんくわい)に於(おい)て大(おほい)にやる心算(つもり)で此処(こゝ)の処(ところ)は一寸(ちよつと)したスケツチ位(ぐらゐ)で間(ま)に合(あは)せる考(かんがへ)だらう。併(しか)し其間(そのかん)にも我々(われわれ)は西洋画家(せいやうぐわか)の仕事(しごと)は極(ご)く真面目(まじめ)で方針(はうしん)が一定(てい)してる事(こと)を発見(はつけん)する。骨(ほね)さへ折(を)ればよい物(もの)が出来(でき)る。で文部省(もんぶしやう)には全力(ぜんりよく)を盡(つく)すが其他(そのた)の展覧会(てんらんくわい)には自然慰半分又(しぜんなぐさみはんぶんまた)は研究的(けんきうてき)の物(もの)を出(だ)すに過(す)ぎぬ有様(ありさま)となる。日本画家(にほんぐわか)はどれにも一様(やう)の力(ちから)を用(もち)ゐる。が本統(ほんとう)に骨(ほね)を折(を)る可(べ)き筋道(すぢみち)を心得(こゝろえ)て居(を)らぬと思(おも)ふ。例(たと)へば百の能力(のうりよく)があれば其(それ)を五分(ぶん)して二十づつの仕事(しごと)をして五ケ所(しよ)に出(だ)すのが日本画家(にほんぐわか)で、西洋画家(せいやうぐわか)は百の力(ちから)を散(ち)らさずに百用(もち)ゐる事(こと)を心得(こゝろえ)てるらしい。だから其他(そのた)はゼロの力(ちから)で行動(かうどう)せねばならぬ訳(わけ)だから文部省(もんぶしやう)に比(くら)べてあれ丈(だけ)の差(さ)は止(や)むを得(え)ぬ事(こと)だらう。@併(しか)し其(それ)は兎(と)もあれ今度(こんど)の白馬会(はくばくわい)の出品(しゆつぴん)の多数(たすう)にして画家(ぐわか)の勢力充溢(せいりよくじういつ)せるは大(おほい)に面白(おもし)い事(こと)である。見渡(みわた)す処文部省(ところもんぶしやう)の受賞連中(じゆしやうれんちう)は矢張(やは)りよい仕事(しごと)をやつてる。老大家連(らうたいかれん)は―名(な)を惜(をし)む爲(ため)のみでもあるまいが―骨(ほね)の折(を)れた作品(さくひん)が少(すくな)い。全然出品(ぜんぜんしゆつぴん)してない人(ひと)もある。我々(われわれ)は斯(こ)んな会(くわい)では骨折(ほねを)らねば折(を)らぬなりに天真爛漫(てんしんらんまん)の作品(さくひん)を沢山見(たくさんみ)せて貰(もら)ひ度(た)い希望(きばう)を有(も)つてる。数(すう)は七百点(てん)に近(ちか)いが調子(てうし)が同(おな)じに行(いつ)てるのは物足(ものた)らぬ。たゞ湯浅君(ゆあさくん)と藤島君(ふぢしまくん)の二つが違(ちが)つた画風(ぐわふう)で其(そ)れのみ新(あたら)しい感(かん)じがする。@先(ま)づ第(だい)一室(しつ)から順序(じゆんじよ)を追(お)うて短評(たんぴやう)を試(こゝろ)みよう。三十五(犬吠岬の夕)は中央(ちうおう)の燈台(とうだい)の辺(へん)がよい出来(でき)である。併(しか)し全体(ぜんたい)の調和(てうわ)が破(やぶ)れてゐるのが不可(いかぬ)。殊(こと)に雲(くも)が固過(かたす)ぎて石(いし)を空(そら)に釣(つ)り上(あ)げてる様(やう)に見(み)える。前景(ぜんけい)の草(くさ)は色(いろ)が生(なま)で砂原(すなはら)に田植(たうゑ)をしたやうだ。五十一の肖像画(せうざうぐわ)(イーストレーキ嬢(ぢやう))は高低(かうてい)もよく色(いろ)もよく併(しか)し乾燥(かんさう)して生気(せいき)に乏(とぼ)しい。六十八の青山熊治君(あをやまくまぢくん)の大幅(たいふく)はアイヌが爐辺(ろへん)で酒宴(しゆえん)をしてる処之(ところこれ)は場中第(ぢやうちうだい)一苦心(くしん)の作(さく)であらう。人間(にんげん)の組合(くみあはせ)にも骨(ほね)を折(を)つた迹(あと)が見(み)える。主眼(しゆがん)になつてる白髯(はくぜん)の老人(らうじん)なぞは仲々(なかなか)よく肉(にく)の表(あらは)し方(かた)も面白(おもしろ)い併(しか)し悪口(わるくち)を云(い)へば由來(ゆらい)する処和田(ところわだ)三造氏(ざうし)の▲燻(ゐくん)あたりから来(き)たらしい部分々々(ぶゞんぶゞん)は仲々(なかなか)よいが全体(ぜんたい)が怪(あやし)い人間(にんげん)に就(つい)ても此弊(このへい)がある。八十九の熊谷守(くまがいもり)一君(くん)の轢死人(れきしにん)の図(づ)は曾(かつ)て文部省(もんぶしやう)で落選(らくせん)した。此人(このひと)は和田(わだ)三造氏(ざうし)と同期卒業(どうきそつげふ)で成績(せいせき)は和田氏(わだし)よりも良(よ)かつたと聞(きい)てゐる。此画(このゑ)は余(あま)り暗過(くらす)ぎて何(なん)だか分(わか)らぬ。批評(ひゝやう)にも一寸困(ちよつとこま)る。九十七の産毛(うぶげ)の児(こ)(斎藤五百枝君(さいとういほゑくん))は小(ちひ)さい画(ゑ)で筆(ふで)の使方(つかひかた)がさらりとして肉(にく)の表(あらは)し方(かた)も面白(おもしろ)く一寸(ちよつと)よく出来(でき)てゐるが乾燥(かんさう)してゐる。色(いろ)も悪(わる)くはないが我々(われわれ)は今少(こんすこ)し円熟(てな)れた色(いろ)を希望(きばう)する。

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