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白馬会関係新聞記事 第7回白馬会展

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上野の各展覧会 白馬会(一)
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| 国民新聞 | 1902(明治35)/09/30 | 5頁 | 展評 |
油絵水彩画(あぶらゑすゐさいぐわ)とも取交(とりま)ぜ約(やく)四百点(てん)を陳列(ちんれつ)し他(た)に広告図案(くわうこくづあん)、海外印刷物(かいぐわいいんさつぶつ)の参考品等(さんかうひんとう)いづれか此秋(このしう)の上野(うへの)を賑(にぎ)はさゞるべき春(はる)の会(くわい)に比(ひ)しては大作比較的(たいさくひかくてき)に少(すく)なしと雖(いへど)も新(あら)たに美術学校(びじゆつがくかう)を出(い)でたる諸氏(しよし)の精励(せいれい)になりしも亦(ま)た少(すく)なからず@場中最(ぢやうちうもつと)も多(おほ)く出品(しゆつぴん)したる岡田(おかだ)三郎助氏(ろうすけし)の二十三点(てん)と和田英作氏(わだえいさくし)の十三点(てん)とは仏国(ふつこく)に在(あ)りし間及(あひだおよ)び現(げん)に仏国(ふつこく)に在(あ)りて描(えが)かれしものにして人物(じんぶつ)も風景(ふうけい)も悉(ことごと)く材(ざい)を彼方(かなた)に取(と)れり@一巡(じゆん)して最(もつと)も画面(ぐわめん)の大(だい)なるは小林萬吾氏(し)の『水難救済(すゐなんきうさい)』と磯部吉雄氏(し)の『李鴻章(りこうしやう)』とす前者(ぜんしや)は殆(ほと)んど廿に余(あま)る人物(じんぶつ)を描(えが)きていづれも救済(きうさい)に忙(せ)はしき裸男(はだかおとこ)なり暗雲空(あんうんそら)を覆(おほ)ふて濁浪岸(だくらうきし)を噛(か)み難破船(なんぱせん)の檣(ほばしら)のみ右方(うはう)に見(み)えて船体(せんたい)は人(ひと)と波(なみ)とに匿(かく)れたり今(いま)しも救助縄(きうじよなわ)に伝(つた)はらしめて一老翁(らうをう)の半死半生(はんしはんせう)なるを岸(きし)に齎(もた)らしたるもの擔荷(たんか)にして運去(はこびさ)らんとするもの地上(ちじやう)に伏(ふ)して起(お)きも得(え)あがらざるを労(いた)はりて他(た)に伴(ともな)はんとするもの救命砲(きうめいほう)を放(はな)つに急(きう)なるもの一様(やう)に黯(くろ)みたる絵(ゑ)のさらで暗澹(あんたん)たるに雨(あめ)なるべきか人(ひと)は肩(かた)を狭(せば)めて物(もの)と云(い)ふ物(もの)は悉(ことごと)く湿(ぬ)れそぼちたり未成作(みせいさく)なれば兎角(とかく)の難(なん)は被(かふむ)るべきも見(み)る人(ひと)は渾(すべ)て恐(おそ)ろしき気色(けしき)よと云(い)ふ後者(こうしや)は鉛筆(えんぴつ)なるか墨炭(ぼくたん)なるか定(さだ)かに見分(みわ)けざりしも李鴻章(りこうしやう)は左眼(さがん)の下(した)に薬紙(やくし)を貼(てう)して椅子(ゐす)に寄(よ)り後(うし)ろには従者(じしや)二人前(にんまひ)には佐藤博士(さとうはくし)なるべし軍服著(ぐんぷくつけ)たる医師(いし)を従(したが)へて立(た)つ其當時(そのたうじ)を写(うつ)さんとしたるものなるべきも果(はた)して何(なん)の意(い)を存(そん)するかを知(し)らず李鴻章(りこうしやう)も齢(よわひ)には応(ふさ)はしからず@岡野栄氏(し)の『読経(どくけう)』は入口(いりぐち)より見来(みきた)りて第(だい)一に眼(め)に触(ふ)るゝ大幅(たいふく)なり緋衣(ひのころも)を纏(まと)ひたる僧(そう)一人壇(にんだん)に向(むか)つて読経(どくけう)す衣(ころも)の袖(そで)の皺粗(しわそ)にして木綿(もめん)と見(み)れば周囲(しうゐ)のあしらひに叶(かな)はず右(みぎ)に明(あか)るき障子亦(しやうじま)た余(あま)りに近(ちか)くして堂(たう)の広(ひろ)さを怪(あや)しむ僧其人(そうそのひと)の風装将(ふうしは)た緋衣(ひころも)を著(つ)くるが程(ほど)の高位(かうゐ)なりとも思(おも)ほえず

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