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白馬会関係新聞記事 第6回白馬会展

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黒田清輝氏(くろだきよてるし)の裸体画談(らたいぐわだん)
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| 酢楳 | 報知新聞 | 1901(明治34)/10/25 | 1頁 | 雑 |
△今度(こんど)が三度目(どめ)で、是迄(これまで)の難関(なんくわん)は何(ど)うにか斯(か)うにか切抜(きりぬ)けたが、今度(こんど)はとうとう幕(まく)を張(は)られました、僕(ぼく)は今更其筋(いまさらそのすぢ)へ向(むか)つて時代後(じだいおく)れの不平(ふへい)は溢(こぼ)さぬが、これを学術上(がくじゆつじやう)から繰返(くりかへ)し見(み)るの必要(ひつえう)を感(かん)ずる@△元来裸体画(ぐわんらいらたいぐわ)は絵画(くわいぐわ)に取(と)り最(もつと)も高尚(かうしやう)に属(ぞく)するものであるが、世(よ)の分(わか)らず屋(や)には未(いま)だに解釈(かいしやく)が出来(でき)なくて困(こま)る@△早(はや)い話(はな)しが純潔(じゆんけつ)で高尚優美(かうしやういうび)なものは之(これ)を神仙(しんせん)に求(もと)めねばならぬ、即(すなは)ち人目(ひとめ)に触(ふ)れぬ無形(むけい)な空(くう)なものを形(かたち)に現(あら)はすには神(かみ)である底(そこ)で其神体(そのしんたい)を描出(べうしゆつ)するには人間界(にんげんかい)の完全無欠(くわんぜんむけつ)なる人体(じんたい)に拠(よ)るより外(ほか)はない@△されば欧洲(をうしう)の美術家(びじゆつか)で高尚(かうしやう)を以(もつ)て技術上(ぎじゆつじやう)の極美(ごくび)とするものは皆無形(みなむけい)より有形(いうけい)を暎出(えいしゆつ)するを眼目(がんもく)とするが、草木(さうもく)や獣類(じうるゐ)では神聖(しんせい)なる物体(ぶつたい)を代表(だいへう)する訳(わけ)にも行(ゆ)かず、化物(ばけもの)は人間(にんげん)と動物(どうぶつ)とによりて形造(かたちづく)られ、鬼(おに)が角(つの)を生(は)やすに極(き)まり居(を)るを見(み)ても分(わか)る@△神聖侵(しんせいおか)かすべからざるものは神(かみ)で、此神(このかみ)の神髄(しんずゐ)を現(あら)はすは、人間(にんげん)を模(も)するより外(ほか)はない、人間(にんげん)を模(も)するにナゼ裸体(らたい)でなければならぬかと云(い)ふに、衣服(いふく)を着(つ)けては神(かみ)にならぬ、衣服(いふく)を着(つ)けると時代(じだい)が現(あら)はれ又国体(またこくたい)が分(わか)る、時代(じだい)が現(あら)はれ国体(こくたい)が分(わか)つては之(これ)を世界(せかい)の神(かみ)と尊信(そんしん)することが出来(でき)ぬ、故(ゆえ)に時代(じだい)や国体(こくたい)の分(わか)らぬものを無形(むけい)にして神聖(しんせい)とする次第(しだい)である@△で、仮令人体(たとへにんたい)を蔽(おほ)ふとするも、僅(わづ)かに巾片(きぬきれ)を纏(まと)はしめ、其襞(そのひだ)の隙(すき)より人体(じんたい)を窺(うかゞ)ふに妨(さまた)げぬ注意(ちうい)をする、巾片(きぬきれ)を纏(まと)はしむるのは画面(ぐわめん)の上(うへ)に於(おい)て着色(ちやくしよく)と調子(てうし)を取(と)るの必要(ひつえう)より迫(せま)られる訳(わけ)である@△今度幕(こんどまく)を張(は)られたコラン氏(し)は僕(ぼく)が七年間(ねんかん)も就(つ)いた先生(せんせい)で、年(とし)は五十前後(ぜんご)だが、巴里(ぱりー)の博覧会(はくらんくわい)などでは必(かなら)ず審査官(しんさくわん)となる人(ひと)だ@△其画(そのゑ)は仏国政府(ふつこくせいふ)の注文(ちうもん)によりオデオンてふ芝居(しばゐ)の天井(てんじやう)に掲(かゝ)げられた下絵(したゑ)で、図(づ)は技芸(ぎけい)の旧時代去(きうじだいさ)つて新時代(しんじだい)の曙光(しよくゝわう)を放(はな)つ意匠(いしやう)に成(な)り、新時代(しんじだい)の女神(めがみ)が名誉(めいよ)の花(はな)を左手(ひだりで)に揚(あ)げ、其下(そのした)に男性(だんしやう)が後向(うしろむき)になつて幕(まく)を明(あ)けて居(を)るのであるが、女神(めがみ)の方(はう)は兎(と)に角此男性(かくこのだんしやう)の臀部(でんぶ)に迄幕(までまく)を張(は)るとはチト注意(ちうい)が行届(ゆきとゞ)き過(す)ぎたやうだ@△僕(ぼく)のヤラレタ絵(ゑ)は、実(じつ)は昨年巴里(さくねんぱりー)で此(この)コラン先生(せんせい)に見(み)て貰(もら)ひ、先生(せんせい)にナゼ之(これ)を博覧会(はくらんくわい)へ出(だ)さなかつたかと言(い)はれた位(くらゐ)で、自(みづ)から言(い)ふは嗚呼箇間敷(おこがましい)が、最(もつと)も困難(こんなん)で最(もつと)も巧拙(こうせつ)の分(わか)るゝ所(ところ)の腰部(えうぶ)の間節(くわんせつ)に力(ちから)を用(もち)ゐた積(つも)りであるが其肝腎(そのかんじん)な所(ところ)へ幕(まく)を張(は)られた訳(わけ)だ@△絵画(くわいが)も詩歌文章(しかぶんしやう)と同(おな)じで、有形以外(いうけいゝぐわい)の想像(さうざう)より来(き)つたものを現(あら)はすに価値(かちよく)があるので有(あり)のまゝを写実(しやじつ)するに於(おい)ては此程没趣味(これほどぼつしゆみ)なものはない@而(し)かも滔々(たうたう)たる世上(せじやう)の画工(ぐわこう)が茲(こゝ)に志(こゝろ)ざゝぬのは哀(あは)れむべきである、型許(かたちばか)りなら模様(もやう)に過(す)ぎぬが、絵画(くわいぐわ)は考(かんが)ひを形(かたち)に現(あら)はすもの形(かたち)より想像(さうざう)されたものである@△或(あるひ)は人間(にんげん)の形(かたち)を藉(か)りたのでは神(かみ)でない、神(かみ)でなければ高尚(かうしやう)でないと唱(とな)ふる俗人(ぞくじん)もあるこれは上面(うはつら)を見(み)た浅薄(あさはか)な説(せつ)で、殆(ほと)んど神前(しんぜん)に於(お)ける御幣(ごへい)を以(もつ)て紙切(かみきれ)と称(しよう)し、神霊(しんれい)に供(きよう)さるゝ鏡(かゞみ)を以(もつ)て金(かね)に過(す)ぎずと云(い)ふに均(ひと)し此(こゝ)に至(いた)いつてはモー優美(いうび)とか高尚(かうしやう)とかの問題(もんだい)ではない@黒田清輝氏@氏、多年仏国に在て洋画を修む、帰朝後同志と共に白馬会を組織し、浅井忠氏の明治美術会に対抗して、盛んに新派の画風を鼓吹す、先年裸体画を京都の第四回博覧会に出品し、一世の耳目を驚かしたるは人の知る処だが、此肖像は社員の請を容れ、門生をして親しく描かしめたるもの

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