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白馬会関係新聞記事 第6回白馬会展

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白馬会展覧会所見(四)
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| 時事新報 | 1901/11/03 | 10頁 | 展評 |
△湯浅一郎筆『裸体画(らたいぐわ)』 是れは作者(さくしや)の修業画(しゆげふぐわ)で、兎も角も斯ういふものが、出来(でき)たといふ所を示(しめ)すのであらう。敢(あへ)て公衆(こうしう)の前に懸(か)けて、是非の批判(ひはん)を聴(き)かうといふのではあるまい。さう思(おも)へば青年画家(せいねんぐわか)で、裸体画(らたいぐわ)の作品を、公開(こうかい)の場に陳列(ちんれつ)したものは、何時(いつ)ぞやの明治美術会に、不同舎(ふどうしや)の舎員(しやいん)が描いたものと、この画(ゑ)とより外に、自分はまだ見(み)ないのである。わが青年画家が、斯(かゝ)るむづかしい境(さかひ)にも、着々(ちやくちやく)歩を進(すゝ)めて居るといふことが分(わか)つて、頼(たの)もしい。画面は例(れい)の腰巻(こしまき)一件で、仔細(しさい)に全面を窺(うかゞ)ひ知ることが出来ないが、その上下(うへした)に現はれた所で見れば、遺憾(ゐかん)ながら裸体画に主(しゆ)として現出(げんしゆつ)すべき肉体(にくたい)の美は、毫末(がうまつ)も認(みと)められない。どうかといへば、一見不快(けんふくわい)の感を生ずることを禁(きん)じられない。今自分が如何(いかゞ)はしいと思(おも)ふ所を挙(あ)げれば、銅色(あかゞねいろ)に燻(くすぶ)つた羅漢の申児ともいふべき婦人(ふじん)、だらしなき形(かたち)、その近辺(きんぺん)に画工の道具(だうぐ)か、何(なに)かと散(ち)らかされて居る工合(ぐあひ)。総ての色が不調和(ふてうわ)で、物体の配置(はいち)や遠近(ゑんきん)なども、首肯(しゆかう)し難い所がある。そこで画面(ぐわめん)の調子が、何(な)ンだかせゝつこましい、窮屈(きゆうくつ)の感(かん)を生ずるのである。又背後(はいご)の壁(かべ)に掛けてある石膏(せきかう)の首(くび)。人物よりも前の方に、飛出(とびだ)して居るかのやうに思(おも)はれて、感服(かんぷく)し難い。これは是等(これら)の物が、比較的(ひかくてき)に精巧(せいかう)を極めて居るからでもあらう。尚ほ自分が最後(さいご)の希望(きばう)をいへば、人物の形其物(かたちそのもの)で、彼(あ)の様(やう)にしやちこばらずに今少(すこ)しく女らしい、ふくよかな相(さう)を表現(へうげん)して貰(もら)ひたいのである。この侭(まゝ)では、何等(なんら)の美感(びかん)をも生ぜしむることが出来ない。以上は自分の思(おも)ふ所を、歯(は)に衣着(きぬき)せず述べたのである。若し自分の想像通(さうざうとほ)り、この画が作者(さくしや)の修業画(しゆげふぐわ)であるとすれば、少しく酷(こく)に失(しつ)するの嫌(きら)ひはあるが、至難(しなん)の画材をこの位(くらゐ)に仕上(しあ)げた作者の敏腕(びんわん)も、無論認(みと)められないではない@△同氏筆『風景画(ふうけいぐわ)』 画面の数(かず)は豊富(ほうふ)。この夏(なつ)九州地方へ、写生(しやせい)に出掛(でか)けたといふことであるが、流石(さすが)に佳作(かさく)も少なくない。就中上(うへ)より願望(がんばう)したるが如(ごと)き藍色(らんしよく)に富みたる村落(そんらく)の図。自然の景状(けいじやう)が、髣髴(はうふつ)の間に現はれて、快(くわい)言ふべからず。風景画中(ふうけいぐわちう)、傑出(けつしゆつ)したものである@△小林萬吾筆『樹陰(じゆいん)の少女(をとめ)』 樹陰に読書(どくしよ)する少女(をとめ)。着想(ちやくさう)は悪(わる)くもないが、少女の姿勢(しせい)に至つては、斯る場合に自然(しぜん)に現はるべき、風貌(ふうばう)とは受取(うけと)れない。倚掛(よりかゝ)つて居る切株(きりかぶ)だか、石だかも、少しく曖昧(あいまい)ではなからうか。文人画(ぶんじんぐわ)によくある、張子(はりこ)の岩(いは)のやうにも見受けられる。人物は頭(あたま)の辺(あたり)は、至極善(しごくよ)いが、全体から見て活発活発(くわつぱつくわつぱつ)の生気(せいき)が満(み)ちて居るとは思(おも)はれない。そこで画面(ぐわめん)が、薄(うす)ツぺらになる。作者の真(しん)の技倆(ぎりやう)からいへば、成効(せいかう)したものではなからう。岩の前の萩(はぎ)らしい秋草(あきくさ)も、ちよつと気障(きざ)なるを免かれない@中村勝次郎筆『林間(りんかん)』 うす暗(くら)い陰気(いんき)な地面に、落ち葉(おちば)の堆積(たいせき)したる景色。地面(ぢめん)には湿(しめ)ツぽい心持(こゝろもち)が、入念(にうねん)に描き了(こな)されて、善い出来である。前面の雑草(ざつさう)や、土地の高低(かうてい)なども、遺憾(ゐかん)はない。但し遠景(ゑんけい)の樹(き)の色には、申分があるらしい@△小代為重筆『景色画(けしきぐわ)』 外国行中(ぐわいこくゆきちう)に描いたものと覚(おぼ)しき数面。小品(せうひん)ではあるが、意気(いき)で、垢抜(あかぬ)けのした出来、他の同氏の作(さく)に比して、一際(ひときわ)色合の違つて見えるのは、外国(ぐわいこく)の風物(ふうぶつ)を写(うつ)したからでもあらうか@山本森之助筆『琉球(りうきふ)の風景(ふうけい)』 着実なる描法(べうはふ)。運筆(うんぴつ)の善き、色彩(しきさい)の調和、暑苦(あつくる)しき雲の掩(おほう)たる。何(いづ)れも整うて、琉球風土(りうきふふうど)の感情を起(おこ)さしむるに足る。景色画として場中(ぢやうちう)一二に算(かぞ)へて善い。

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