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白馬会関係新聞記事 第6回白馬会展

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白馬会展覧会所見(一)
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| 時事新報 | 1901/10/29 | 11頁 | 展評 |
先づ会場(くわいぢやう)を見渡(みわた)した所で、大体(だいたい)に付いて、かずかず言(い)ひたいこともあるが、暫(しばら)く後に譲(ゆづ)つて、是れから個人(こじん)の製作(せいさく)に付いて、所見を記(しる)すことにする@△出口清三郎筆『百度詣(どまいり)』 歳若(としわか)き婦人が、なにか願掛(ぐわんかけ)でもあつて、お百度(ど)を踏(ふ)むで居るといふ、ちよつと思付(おもひつき)の画材(ぐわざい)。作者に取つては随分出精(ずゐぶんしゆつせい)の作であるらしいが、全体(ぜんたい)の上から見て、何(ど)うも感服(かんぷく)とはいはれない。欠点(けつてん)の重(おも)なるものをいへば、婦人自身(ふじんじしん)の感想(かんさう)が十分表現(へうげん)されて居ないことで、何(な)ンだかのつそり立つて居て、菊(きく)の花(はな)でも弄(いぢく)つて居るかのやうに思はれる。敬虔(けいけん)の念、立願(りつぐわん)の熱誠(ねつせい)、自己を没却(ぼつきやく)する底(てい)の境涯(きやうがい)。自分はこれらの要状(えうじやう)を、斯(か)ういふ画面(ぐわめん)には、幾分か深(ふか)めに表現(へうげん)して見たいと思ふのである。作者の考(かんがへ)は何(ど)うであらうか。婦人の着て居る中形(ちうがた)の浴衣(ゆかた)は、瀬戸物其侭(せとものそづくし)。顔や手足(てあし)もまだまだといふの外(ほか)はない@△岡吉枝筆『水辺(すゐへん)の家屋(かをく)』 同氏の作品(さくひん)の中では、先づ是れが佳作(かさく)。位置や描法(べうはふ)なども、ちよつと面白(おもしろ)く感(かん)じられないでもないが、何ンだか色の遣方(つかひかた)が足らないかと思ふ。殊(こと)に日の映(あた)つて居る赤い黄い色が、変化(へんくわ)に乏しい。比較的(ひかくてき)には、是れよりも今一ツの砂原(すなはら)に松の二三本ある画(ゑ)の方(はう)が、あつさりと出来(でき)てをる@△赤松麟作筆『夜汽車(よぎしや)』 画材(ぐわざい)の大きい点からいへば、場内(ぢやうない)第一の作(さく)である。巧拙(かうせつ)は暫く措(お)いて、兎も角も斯(か)ういふ大作に指(ゆび)を染(そ)められた作者の勇気(ゆうき)には、敬服(けいふく)の外はない。画題(ぐわだい)の選択(せんたく)からいつても、疾(と)く人の心付いて居りながら、未だ筆に上(のぼ)せたことのない汽車の中の光景(くわうけい)。複雑(ふくざつ)なる個々の情態(じやうたい)を写して見やうといふ着想(ちやくさう)は、頗る斬新奇警(ざんしんきけい)で、殊に自分の同意(どうい)を表(へう)する所である。一般の注意(ちうい)も先づは行届(ゆきとゞ)いて、描法や、布置(ふち)や、明暗や、着色(ちやくしよく)や、孰れも苦心(くしん)の跡が歴々(れきれき)として見えて居る。併(しか)しもし自分をして仔細(しさい)に評せしむれば、第一車室(しやしつ)の大いさと、車中の人物(じんぶつ)との比較上(ひかくじやう)、余(あま)り甚だしく釣合(つりあひ)を失(しつ)して居るのが欠点。例(たと)へば彼(あ)の低い窓からは、到底頭(とうていかしら)を出し得るものが、一人もなからうと思はれて、附合(つけあは)せの痕(あと)の明かに見え透(す)くのは、いかにも残念(ざんねん)である。次ぎは人物の孰(いづ)れを見ても、皆腰部(えうぶ)以下が短(みじか)いやうに思はれるのが欠点。就中前面(ぜんめん)の向(むか)つて左の婦人の如きは、胴(どう)から上許(うへばか)りの人らしく見えて、何(ど)うも物足(ものた)らない心地(こゝち)がする。畢竟如上(ひつきやうによじやう)の欠点は、自分の想像(さうざう)する所に拠(よ)れば、各人物(かくじんぶつ)の調子(てうし)の善く取(と)れて居ないものと画面(ぐわめん)に取掛(とりかゝ)るまでの手順(てじゆん)が備(そな)はつて居なかつたのと、夫れに時(とき)といふ点に、少(すくな)なからぬ関係(くわんけい)を持つて居るのではなからうかと思ふ。今一ツは、色の研究(けんきう)がまだ旨(うま)く行かない。見た眼が墨画(すみゑ)のやうで、何ンだか噴火山(ふんくわざん)の焼土(やけつち)でも、振掛(ふりか)けたかのやうな感じがして堪(たま)らない。併(しか)し是れはあかりの故(ゆえ)だと弁解(べんかい)もあるだらうが、夫れにしても今少しく変(かは)つた色と、透(とほ)つた調子(てうし)を附けて貰(もら)ひたい。所詮(しよせん)はこの工合(ぐあひ)で、今一際(きは)の慎重(しんちよう)なる注意と、的確(てきかく)なる総ての調子(てうし)とを深(ふか)からしめて欲(ほ)しいのである。とはいへ、前にも言ふ通(とほ)り、この画は場内(ぢやうない)唯一の大作(たいさく)でもあり、又作者(さくしや)の筆としても従来にない大作であるのだから、経営苦心(けいえいくしん)の程は誠に称賛(しやうさん)に値(あたひ)するであらうと思ふ。自分が特に長い評言(ひやうげん)を費(ついや)すのも是れが為めである

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