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白馬会関係新聞記事 第2回白馬会展

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黒田氏の裸体画(上)
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| 時事新報 | 1897(明治30)/11/11 | 4頁 | 雑 |
評判 白馬会(はくばくわい)の展覧場(てんらんぢやう)に懸けたる裸体画(らたいぐわ)はこの頃評判物(ひやうばんもの)となつて見に行(ゆ)く人(ひと)がなかなか多(おほ)い、白馬会はまだ新来(しんらい)の客(かく)と云ふので会員の勉強(べんきやう)も一入(ひとしほ)だから昨秋以来(さくしういらい)目に見えて腕(うで)を上げたものもある、けれども亦心(またしん)のつまッた草木(くさき)のやうに舒(の)びも縮(ちぢ)みもしない始終居据(しじういすわり)の姿で画(ゑ)よりも恥(はぢ)の方(はう)をかいてるものもある、結局差引勘定(つまりさしひきかんぢやう)なしとして評判(ひやうばん)の高いのは裸体画(らたいぐわ)の為めであると云ふことがますます明白である@皮肉 裸体画(らたいぐわ)を見に行く人は多(おほ)いがね、その御志(おんこゝろざし)のほどは人の前(まへ)で云へないわいわい連(れん)が多(おほ)いのだよ、新作文庫(しんさくぶんこ)といふ雑誌(ざつし)が売れるのでも分(わか)るだらう、ナニ画(ゑ)を見に行(ゆ)く人が多(おほ)いものか@紹介者 この裸体画(らたいぐわ)は黒田氏が長(なが)い間熱心(ねつしん)に描(か)いたものでまだ出来(でき)ない内から評判(ひやうばん)のあつたものだ、都合(つがう)三面(めん)で智感情(ちかんじやう)といふ画題(ぐわだい)が附てある、三面共(めんとも)に形は普通(ふつう)の人よりも大(おほ)きく夫れを剥出(むきだ)しに描(か)いてあるから主客(しゆかく)の関係上(かんけいじやう)より面白味(おもしろみ)を感(かん)じさせると云ふこともない、真(しん)の形(かたち)のみで人の美感(びかん)に訴へやうとするのだから画家(ぐわか)に取りては大膽(だいたん)な計画(けいくわく)だと云ふても宜(よろ)しからう、黒田氏は先年京都(きやうと)の博覧会(はくらんくわい)へ浴後之美人(よくごのびじん)といふのを出(だ)して議論(ぎろn)は随分八釜(ずゐぶんやかま)しかつたが力量(りきりやう)の程は疾(と)く世間(せけん)に知られた、けれども彼(か)れは仏蘭西(フランス)に居て仏蘭西の人間(にんげん)を描(か)いたのだが是れは日本(にほん)に帰(かへ)つて日本の人間を描いたのだ、それだから此画には二様(やう)の見地(けんち)がある、黒田氏一人の側(がは)から云へば外国(ぐわいこく)の人間に慣(な)れたる筆(ふで)を初めて郷国(きやうこく)の人間に移(うつ)し用ひたので洋画家全体(やうぐわかぜんたい)の側から云へば日本人(にほんじん)にして初(はじ)めて日本人の裸体画(らたいぐわ)を描(か)いたものとなる、何(いづ)れにしても将来洋画(しやうらいやうぐわ)の歴史上に関係(くわんけい)あることだから十分注意(ぶんちうい)するの価値(かち)があらうと思(おも)はれる@崇拝に近い人 僕は裸体画賛成(らたいぐわさんせひ)の一人だがこの画は実(じつ)に善く出来(でき)て居る、下手(へた)な取合(とりあは)せもせず唯形のみを剥出(むきだ)しに描(か)いてイヤな感情(かんじやう)が少しも起(おこ)らない、これで黒田君が清浄無垢(しやうじやうむく)に描(か)いたと云ふことも分(わか)る、先年矢鱈(やたら)に裸体画対風俗壊乱論(たいふうぞくくわいらんろん)を擔廻(かつぎまわ)つた人達は論より証拠(しようこ)だこの画を見るが善(い)い、卑(いや)しい感情(かんじやう)は少しも起(おこ)るまいが、イヤナニ流石(さすが)は新派の頭領(とうりやう)子爵家の若殿(わかとの)黒田清輝公だワイワイワイ@真面目な人 大体無難(だいたいぶなん)の出来です、三面共(めんとも)に同じやうに力(ちから)が這入(はい)つて居て何(ど)れを何(ど)うといふ優劣(いうれつ)も見えません、姿勢(しせい)も別々にすれば如何(いかゞ)はしい所もあらうが三面併(めんあは)せて見れば聯絡(れんらく)あり配合(はいがふ)ありで総て穏當(おんたう)に出来て居(を)ります、當今此位(たうこんこのくらゐ)に裸体画を遣(やつ)て除(の)ける人は外(ほか)にありますまい@理屈家 サウ頭(あたま)から褒(ほめ)るばかりでは二の句(く)が出(で)ない、僕は何処(どこ)までも理屈家(りくつか)で行(ゆ)かう、第一気(き)に喰(く)はないのが画題(ぐわだい)だ、智感情(ちかんじやう)と三ツに別(わ)けてあるが那辺(どこ)にソンナ意味(いみ)が含蓄(がんちく)されてあるのか些(ちつ)とも分(わか)らない、まづ身体(からだ)の向(む)きから頭付(かしらつき)、目元、口元(くちもと)、それから手足(てあし)の塩梅(あんばい)に至るまで満遍(まんべん)なく眺(なが)めた所で何(ど)うもサウ云ふ感(かん)じが起らない、して見れば此区別(このくべつ)は真人間(まにんげん)には分らないのかも知れぬ、一体画家(たいゑかき)が自分でソンな題(だい)を附けるのが愚(ぐ)なはなしだ、何(ど)う見やうと見者(みて)の勝手気侭(かつてきまゝ)に任せて其器次第(そのうつはしだい)に感じさせるのが善(い)いではないか、この位(くらゐ)のことが分(わか)らない黒田氏でもあるまいに何(ど)う踏外(ふみはづ)したのか知(し)らん、一番聞(ばんき)きものだね@わる口 ソリヤ分(わか)らないのが本當だ、分るのはお手前一人(てまへひとり)なんだらう、わるい洒落(しやれ)だ

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