黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎日本に来遊した外国の画家

戻る
 今回の特別陳列に遺作「漁夫の顔」を出してあるフオンタネージは、伊太利亜のトリノの人で、風景画に名のある人で、トリノでは一流の画家であつた、トリノの博物館に作品が陳列されて居る位であるから。日本に来たのは明治の初年で、工部の画学校の教師であつた、小山正太郎、浅井忠などの諸氏は此人に就て学んだのである。日本にも風景画は少くとも二、三枚は残つて居るであらうと思ふ。
 ワグマンは人の知る通り、英国人で、新聞の通信記者として日本に来て居たのであつた。
 ビゴーは仏蘭西人でポンチ絵を以て有名であつた。ポンチの雑誌を発行して居たこともある、竹内久一氏が其雑誌を持つて居たと聞いて居る。よく其頃渡米した外国人をポンチに描いたので、喜ぶものもあつたが、中には不興に感じたものもあつたさうである。日本人の骨格などは巧みに其特徴を描くので面白かつた。私は仏蘭西に行く前、十八か九の時分からビゴーを知つて居た、其頃松波正信と云ふ人が仏蘭西語の塾を牛込に開いて居て仏蘭西人が教授に来ると云ふので、私は其塾へ行つた、其前私は寺尾壽博士に仏蘭西語を習つて居たのであつた、松波の塾に私は行つたけれども此塾は不思議な塾で、生徒が僅二、三人だけで、松波と云ふ人の態度は授業といふより、生徒と共に研究すると云ふ風で、話沢山であつた。ビゴーも来たが別に何を教授すると云ふ程のことはなかつた。其頃ビゴーは二十二、三位の青年であつた。いつの事か知らぬが、司法省の法律学校の語学の教師にもなつたことがあるが間もなく止めたと云ふことである、元来画家であるから、語学教師としては適任でなかつたらしい。私は偶然巴里で、ビゴーの友人で、日本に来るまでのことを知つて居る人に会つた、其人は石版屋の画工であつた。その話に依ると、ビゴーは頗る有望な青年画家であつたが、日本が大変好きになつて、それで殆んど何の目的か知らんが、二十歳前後に飄然出懸けて行つたと云ふことであつた。
 私は仏蘭西から帰つた後、ビゴーと交際した、其交際の初は明治二十七年の十月頃日清戦争の時、広島で会つた、私の宿の隣に居た、英吉利の「グラフイツク」の依頼を受けて従軍記者として画を描きに来て居たので、朝鮮などに旅行して帰つて来て広島に居たのであつた。私はそれから別れて従軍した。それから一二年後、汽車の中で偶然逢つたことがある。伊豆の三津に行くところだと云つて居た。広島で同棲して居た日本の女を女房にして居た。其後たしか明治三十二年頃稲毛の海気館の裏に画室の付いた家を建てゝ居た頃に逢つたことがある、五歳位の子供が居た、女房は離縁したと云つて居た。間もなく仏蘭西人で知名の画家ヂユムーランが、其汽船会社の依頼で、世界一週のパノラマを画く為に来遊した。其画家と懇意になつて、其材料を大分描いたらしい、そのパノラマは、三十三年の巴里の大博覧会で見たが、五月の幟の立つた絵などが日本の部に出た居た。其画家と契約が出来たものか、ビゴーは日本を去つて、巴里の或印刷会社の画工とか工場監督とかになつたと云ふことを聞いた。
 ヂユムウランの画で、私共が見て最面白いと思つたのは、いつかのサロンに出たもので、アルサスローレン州を代表した建物、それはプラスドコンコールドにあるあの建物に黒い喪章の付いたのを描いて、上の方に仏蘭西の凱旋の有様といつた様な幻が描いてあつてアルサスローレン州の回復を希望して、いつかは取還へすぞと云ふことを諷した様な図で、或は其州の魂が仏蘭西へ飛んで帰るところを画いたのであつたかも知れぬ。色もよく絵もよかつた、此頃は仏蘭西では珍重される画であらう。其絵で私は此画家を記臆して居る。
 仏蘭西の画家で日本に来たのではレガメーと云ふのがあつた、ギメーと云ふ人が宗教的方面の美術品、仏画などを蒐集する為に来たのに付いて来た。後ちに巴里にギメー博物館と云ふのが建てられたが、そこにはレガメーの描いた剳青をした人足や、惺々狂斎の画像があつた。巴里の前の日本公使館にレガメーの描いた九鬼男の肖像があつたのを記臆して居る、横顔を描いてあつたが能く似て居た。三十三年に六十以上の老爺であつて間もなく死んだ。巴里市の図画教育の視学官をして居た、日仏協会の副会頭であつた、日仏協会の徽章は三十三年にレガメーが意匠をした図案で出来たものである。牡鶏と太陽と桜とを組み合せた図案である。牡鶏は仏蘭西の徽章で、コツクゴオーロワ(ゴールの鶏)と云つて、昔から仏蘭西の徽章に使はれて居る。仏蘭西の古い寺の風見の上に此鶏の徽章が付いて居る、それから器物の模様などにもよく使はれて居る。仏蘭西に日仏協会の支部を設立するに就て、レガメーは非常に尽力した、其当時私共書生の団体に入会のことを交渉して来たのはレガメーで、私などが取次役であつたが、書生の団体からも副会頭を置く様にすれば入ると云ふことを申込んで、そして其副会頭に田中遜君を推薦した。
 レガメーは日本通を以て任じて居た、日本に滞在したことは短かつたから、深く精通して居たとは思はれないが、其住居などは頻りに日本のものを用ゐて得意らしかつた。たとへば据風呂を置いてそれに入るのだと言つて居た、又緒の太い藁草履を室の壁に打ち付けて状差しにして居た、概ね此類であつた。
 レガメーは日本への旅行記の挿絵を画いたことがあつたと記臆する、日本趣味の広告絵などを頼まれて描いて居た、私は帰朝の後、サロンのカタログで見たのであるが、まあ不動の滝と云ふ様な処で女が拝んで居る様な図があつた。
 レガメーの兄弟に上手な画家があつた、たしか戦争画家であつた、其人の画が一枚レガメーの画室に懸けてあつた、其画家が有名であつたので、レガメーも人に知られて居た。(談)
  (「美術月報」1-8  大正9年3月)
©独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所