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◎寺崎広業追悼-寺崎君と私

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 寺崎君とは同じ学校に同じ頃から奉職したので知り合ひになつた。日露戦争の時には寺崎君は従軍されて戦地から画ハガキをよこされた。そのハガキには寺崎君が軍艦の画を描かれ、当時私の仏蘭西以来の友達で通訳官になつて居た者が文句を書いたのであつた。
 寺崎君とは同じ学校に居ても科が違ふために、極くたまに教員会議や懇親会などで会ふばかりであつた。然し只一回修学旅行で一緒になつたことがある。それは確か明治三十九年の秋であつたと思ふ。伊香保から榛名へ廻つて妙義山に出たのであつた。その旅行へ出懸ける時には上野駅前の雑貨店で手拭や何かを入れるヅツクの袋を買つて肩から下げて行つたのであつたがこの旅行中に記念として同行の者数名が、これに名前などを書き、又行く先々では宿屋の仕切判をも捺した。その時寺崎君はその片隅に松の木が二三本岩山の角に立つてゐる図を書いて呉れられた。
 平生は往復しなかつたから同君についての細かい話は何も出来ない。然し、始終会はないでも常に懇意であるやうな感じを持つてゐた。無論言葉は君僕でやつてゐた。其実さほど親密な間柄でもないのに、かう云ふ親しい感じで是までやつて来た。それ故、今回亡くなられたのは非常な親友を失つたやうに感ずる。此親しみは長年の間の知り合ひであつたことゝ、相互の性質の出会ひ具合に因るのでもあらうが、又此外に寺崎君とは同年であると云ふ一寸した妙なものが介在して居ると思ふ。兎角同郷とか同年とか云ふことは不思議な勢力を持つてゐるものゝやうに考へられる。
 私が最後に寺崎君に会つたのは昨年の文展鑑査中で、其時非常な云ふに云はれぬ悲痛を感じた。寺崎君の病気は全く癌であつて、到底よくはならないと云ふことを私は疾に聞いて居り、丁度此の文展の会場へ出て来られた頃には大分病勢も進んでゐて、其れを推して来られたのであつた。然し寺崎君自身は未だ癌だと云ふことを知らないで居られたのか、癌とは云はずに咽喉を悪くしたと云つて居られたが、大分苦痛の様子であつた。眼もうるみ音声も低く一々唾を呑んで苦しさうに病状を話して居られた。其時二三人と私とお大事にと云つて並みの挨拶で別れたが、私は再び此会場で会へぬと知つてゐたから、涙の落ちんばかりで実に苦しい思ひをした。  寺崎君は前にも述べた通りに私には同僚であり更らに同年の人でもあつたから、私がその死を哀しむのは無理ではなからう。その上にあの人は尚ほより以上にやれる身であつて現代に最も必要な人であつたから我が美術界では誰も惜しまぬ者は無からう。
 寺崎君は少しも作つた処のない極くサツパリとした人であつたと思ふ。だから、私との交際は至つて平凡でありながら、非常に親密な感じがしてゐたのである。
(「中央美術」5-4  大正8年4月)
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