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◎文展製作に就きての注意

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 今まで文展も数重なつて開会されたが、私共は初めから今日まで審査員を命ぜられて来て居る。今までは鑑査審査に就いては公平なる鑑査審査をする事を年々承つたが、今年は始めて鑑査審査の方針とも云ふべきものが定められて、文部大臣から吾々に下げられた。其方針と云ふのは先に新聞紙で発表されて既に世間周知の事と察する夫れである。此方針は摘んで言へば、ぞんざいな作品とか新しい試みにして所謂世評もないし一流派とも認め難い試験的作品とかは文展に陳列さるる資格はないと云ふ様な事で、誠に簡単なことであるけれども、之は鑑査審査の上からは真に大切な事である。今迄は唯漫然と少し面白いとか、出来の上から一寸小器用に出来たと云ふ様なのを採る様な次第であつたが、之等のものは仔細に研究すれば多くは素養の足ない未製の品である。
 それで今年は既に第十一回ともなつて来たので、洋画に志したものも最早多少の熟練を経て来て居るので、何時迄も唯だ見取り図とか、スケツチ程度のもので満足して居る可きではない。どうしても一体に作品らしい作品をこしらへなくてはならぬ。又こしらへる丈けの技量を備へて来たと思はれるので、本年の鑑査審査に当つては前述の方針によつて断然多少努力したものを選ぶ事になつた。
 偖て其結果に就いて見ると多くは未だ仲々スケツチ程度を脱しない。幾分矢張軽薄の気味を免れぬ。此一口に軽薄と言つては充分私の意志を現はす事は難いが、つまり場当りと云ふ事もあるし、軽々に或る人の主張を自分の物顔に吹聴して居るのもあり、忠実に自然を研究する事を無意義に解釈して居るのもあり、之等の総てが軽薄であると言はれなければならぬ。
 夫れでこれから以後人にも勧め、自分も勉めなければならぬのは、今少しく真面目に真に自分から出た考をハツキリ、そして充分に説明する事に勉めることである。元来油絵其物は外国のものであるところから、兎角外国の作品に似た様に出来た風なのがよい作品に見られたがるが、これが、或点まで誤りを来すのではなからうか。外国人が極めて無邪気な作品をこしらへたと思ふのも、吾吾が見ると決して無邪気でない。無邪気を力めたかの様に見えると云ふ様なのもあり、忠実に自然を写したと云ふのには、唯だ陰影の法に依つて物体の写実を試みたと云ふばかりでなく、その写実にもある理想境を表はした点で見る可きに係らず、唯だ外国の作品の皮相ばかりを見て之を模倣するのも又考無い事であらう。
 要するにクラシックにしろポスト・アムプレッションにしろ、吾々の学ぶ可き点はどちらにも含まれて居るけれども形式の上からはどちらも絶対に感服する筈のものではない。殊に外国で興るところの各種の流派には自ら理論が添ふて居る。夫れ等の理論は如何にも、何れを見ても敬服すべきものであるけれども、夫れ等理論其侭を吾々の製作の憲法として仰ぐ可きものではなからう。
 兎に角豪そうな事を云ふ様ではあるが、吾々は何にも縛られずに自由な天地に棲息しなくてはならぬ。夫れが日本に生れて居る賜である。又日本の洋画家の仕合である。
 文展の出品者、特に青年諸氏に一言述べて置きたいのは、文展に出品すると云ふ事を目的として製作をする人が多い様に見受けるから、之は少し気を附けなくてはならぬ。
 今少しく寛い考をもつて、「製作するために製作する、出品と云ふ事は製作の目的ではない」斯うあつたならば自然に忠実な作品が出来る事であらう。極く解り易い例を挙げて見ると、始終人の注文絵を描いて生活して居る人がある。之等の作品は一通り出来のいゝものにしても、何所となく卑しい感がある。世間で云ふ銅臭と云ふ事を免れない。之と同じ様に作品には其人の気分が自然に乗り移るものであるから、文展だけを当にして描く絵は矢張り、そう云ふ一種の出品臭がある。故に誠実を旨としてやらなければならぬ。よく人が個人性と云ふ事を唱導して言つて居る。その個人性らしくやつたものは真の個人性が一向表はれなく、矢張り或る人の唱導した個人性が附き纏ふて居るから、個人性どころでなく、拙なる模倣と云ふより仕方のないものである。
 審査の結果に就いて大分疑義を挟む人がある様に思はれるから一寸説明をして置く。
 推薦には経歴、技術、人格、此三つのものを含めて審議したものであつて、其三つの一、二、三、の順序で軽重が自ら含まれて居ると云ふ事を思はなくてはならぬ。
 特選は自らその順序が違つて居る。之には技術を重く見てあつて経歴が之に亜ぐものである。技術といつても単に技巧とのみ思つてはならない。勿論技巧と云ふことは芸術家には最も必要なものであるけれども、之まで技巧の名のもとには前に述べた銅臭的技巧を専ら云ふので卑しめる意味に用ひられるけれど、審査をする上に吾々の見る技巧は此卑しむ可き技巧の範囲でない事は敢て言つて置きたい。それで技術本位と言へば唯だ描きこなしの上手なものと云ふだけに帰する様であるが、これだけが必ずしも特選唯一の条件となる可きものでは勿論ない。何れにしても技術上の審査は箇条に依つて当填めると云ふやうな手軽なものではないから、一つの画に対しては構図又は色調、其人の主張のあるところなどをよく鑑査し、更に之等を適当に説明し得るところの技術で纏めをとつて居る所などをよくよく考へて審査したのである。要するに推薦に比べては特選には先づ経歴は次として技術を先にしたと言はなくてはならぬ。
 今年、特選に就きて色々変つた主張をもつて居る人が混ぢつて居る。故に世間からこれを判断する時には一の主張に同意を表する人は其反対の主張をもつものに対し下劣に思ふと云ふのが人情であるが、お互に甲のものには賛成するが乙のものが如何にして這入つたらうかと疑ふのは最もである。然し審査員の立場はそう狭いものでない。広く各種の見解をよく洞察して事を行ふ可きであるから、技術を第一位に於て審査する時には上述の世間の意見と必ずしも一致すると云ふ訳にはゆかない。これに反して推薦の如きは経歴を第一に置くのであるから、これは人も吾も稍々感じを同じくする事が出来ると信ずる。
 文展の鑑査に依つて日本の洋画界の大勢を見る事が出来たが、技術の上から年々著しき進歩をなせるは事実である。昨年抔に比較して今年は素人絵の出品が余程減じて居るのは美術思想が一般に普及したものと言はねばならぬ。然し未だ随分未熟な作品が多く持ち出される。先づ全出品の約半数、今年は千三百点以上の出品の中七八百点は余程未熟の者と言つてよい。之等の人は今少しく技術の練習を要する。其他の稍々技術の出来てるものには、今少しく誠実に製作せねばならぬと云ふ事を切に勧告する、真面目に仕事をすると云ふ事が一般に欠けて居るかに思はれる。(校閲済)
  (「美術新報」17-1  大正6年11月27日)
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