黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎コラン先生追憶

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 十一月十五日(大正五年)は山本芳翠の十年忌に当るので、吾々友人は例年の通り泉岳寺に集まつて法要を営みそれから三田の今福で会食しました。其時偶然芳翠の死んだのは五十七歳であつたが、コラン先生と同齢であつたから、先生はもう六十七歳になられたといふやうな話が出ました。そうして宅へ帰ると、岩村透君から電話で、コラン先生が先月二十一日に遠逝せられたことが、近着の米国の美術雑誌に出て居ると云つて知らせて呉れました。私は茫然として真とは信じられない様な気がしました。先生は容貌も魁偉で、体格も強健で、遂先頃まで私共の所へ書信があつて、戦争の悲惨な事などを書かれて居ました、併し一昨年は大病に罹られたと云ふ事でありますから、或はそれが原因になつたのかも知れません。
 コラン先生は、芸術の上は勿論、常に世の中を見るのに哲理的であつて、美術家たる適当の性格を有つて居られましたから、吾々に対しても決して外国人であるといふやうな素振をせられないのみならず、非常に親しくして下されたのですから、俄に此訃音に接して、親を失つた様な感じがして、今後は画を描くにも張り合が無いやうに思はれてなりません。
 よく、コラン先生は大家であつたらうかと訊く人があるが、私は思ふ、画家には生存の当時に持て囃やされる人と、後になつてから大家として尊重せられる人と二通りある。当時に持て囃やされる中には、真の大家もありそうでないものもある。後の時代に尊重せられるのこそ真の大家である。コラン先生は画風からも、性質からも、--画風は性質の反映であるから--引込み勝ちの人で、野心もなく、虚栄心もなく、交際が嫌いで、世間へ顔を出すことを好まれなかつた。そう云ふ人の常として、しんみりした美術は出来るが、世間からは持て囃やされない。私共はコラン先生の弟子であつたから、能く先生の性質を熟知して居るし、今は仏蘭西の画界から遠ざかつて見て居るから、却て公平な観察が出来ると思ふ。コラン先生の画は仏蘭西で余り持て囃やされぬ内に、夙く亜米利加で非常に賞鑒されたのも、離れて見るから却てコラン先生の佳いところが判つたのではないか。雑沓してざわざわした群集の中で、如何に美い声でも微妙なものは聞き取られ悪くい、音楽でも其通りで、余り雑沓の中では、激しい、謂はゞ下劣な様な音のみ耳に立つて本統の趣味のある、清らかな音は聞き取られないと云ふやうなものじやないかと思ふ。それで、人に尋れば、コラン先生と云へば、仏蘭西人でも素人は、そんな名前は聞いた事もある位に云ふものもある、世間的に有名な人とは云はれぬ。之は日本から仏蘭西へ留学した人でも、私共のコラン先生を褒めるのは門弟だからだ、ナニあれ程の人は沢山あると云ふ様に云ふ人もある、併し仏蘭西の眼のあいた側の人々からの観察は、先生をアカデミー・インスチユ(学士会)の会員にまで推薦したのを見ても、仏蘭西の識者達は見落しては居ない、智識階級には認められて居る、公衆には知られぬ、低級の専門家では、雑音の中に立つて居ては、先生の様な真実の味ひのある美術家は、恰も濃まやかな音の様なもので、判り兼ねて居ると思はれる。
 それで、絵画の上の先生の功績といふか、先生の歴史的に不朽な点は、外光派と云ひませうか、外光の明るい色を用ゆると云ふことは、バスチヤン・ルパアジュが率先して遣つたのであるが、此人は第一短命であつた、それで率先者であつても、外光を完成させた人ではない、バスチヤン・ルパアジュに依つて始められた外光は印象派に依て非常に研究されることになり、印象派が又後期印象派などを生み出して居る、遂に外光と云ふことが、一般の画に影響して、室内と戸外との区別なく、総て画と云ふものが明るいものとなつた。コラン先生は印象派の中に入られずに、その外にあつて、バスチヤン・ルパアジュから来つた外光の研究を、まづ完成させられたものといはねばならぬ。無論一人でやられたわけでなく、いろいろ周囲の影響を蒙つて居るのではあるけれど、印象派の取つた色の分析と云ふことなどは、先生は、あれは却つて真の印象を描き現はすのでなくて、印象派の画の印象は、印象派としての印象であつて、自然の真の印象を現はし得ないものである。自分は自然の印象を画くのであつて、自然の印象に近いものを、描き現はして居るのだと信じて居られた。つまり、画を明るくすると云ふこと、明るい鮮やかな画を作るといふことに就て先生の最貴いところは、兎角明るければ色が強くなる、明るいとか鮮やかとか云ふことは色を濃く出すと云ふ弊がある、そして自然の研究は兎角写実に流れ易い。それに反対で、穏かな、落着いた色を出すことは、兎角陰鬱になり易く、又印象を主にすれば兎角崩れ易いのは形であるのであるが、其崩れ易い形を矯め様とすれば、クラシツクに偏し易い、其総ての点の弊を避けて、最困難なるところを先生は取られた、色から云ふと柔かい、穏やかな、そして明るい、そして柔かい中にも強みのある色を用ゐられて、形の方はクラシツクに偏せずして、優美な、線の簡単な、正しい形を描かれた。そう云ふ風に、バスチヤン・ルパアジュには、まだ用ゆる絵具などの選みが、旧い慣習を充分脱することが出来なかつたが、コラン先生はそれを脱して、又印象派の人々の様に、形式に偏つた方法を取らず、又印象と云ふ上から、形を無視すると云ふことがあるですが、そう云ふ悪習に流れず、つまり、飽く迄も仏蘭西の美術に最特種な特長のある優美といふことを離れずに、外光派を完成させられたと謂はなければならぬ。
 先生は天性装飾的の感じに優れた方でありましたが、其傾向の著しく現はれたのは、私の知つて居る処では、ソルボンヌ大学の壁画を描かれた頃であつたと思ひます、古い作で装飾的とも見られるのはフランス座の壁に俳優の肖像があります、それはたしか金地になつて居たと思ひます。先生は絵画の上に於ける外光の完成者であると同時に、外光を装飾的に見て、其効談を画の上に現はされたところが、印象派などゝは全然異つた先生の特長であります。
 其外に先生は実際の物、即ち朝晩に常に見るところの物を画題とすることは卑しいことゝしてやられなかつた。始終詩的冥想の中に居られて、自然中の自然の美を喜ばれた、多く画題にせられたのは詩とか歌とか、又春とか夏とか云ふ様なものを、裸体の女を借りて之を主題として、それに適はしい風景を添えて画かれた。斯う云ふ理想的の点はバスチヤン・ルパアジュよりも、一層立ち超へたものと思ふ、バスチヤン・ルパアジュは主に風俗歴史と云ふ点に止まつて、実際のものを外光で画く位より到つて居ない。それで仏蘭西の現代から云ひますと、盛んに鐘太鼓で叩き廻つて居る様な美術が騒いで居る為に、先生の様に穏雅なる美術は掩はれて居るのは事実である、今から百年も経つたら、コラン先生の画は、仏蘭西の最誇りとするものになるであらう。
 日本の浮世絵に就ては色の調和、或は端正な線の味わいと云ふ様なことを賞美されて居ました、けれども日本画の直接の影響と云ふ様なものは先生の美術には現はれて居ませんでした。
 コラン先生は一八五〇年に巴里で生れ、高等学校を出てから、美術学校に入られて、アレキサンドル・カバネル教授の指導を受けられたが、十七八歳の時、既に立派な画を作られた、二十二三歳の頃、サロンに出品して二等賞を得て、永久無鑑査の栄誉を担ふて、一躍して大家の列に入られた。所謂天才であつて、技術は非常に早く熟達せられたものであります。
 コラン先生の初期の画は、カバネル流の正しいデツサンで、使はれた絵具はまだ旧式の物で、褐色及び黒色を多く使つて居られたやうです、併し肉色は非常に鮮やかでありました、又幾らか伊太利亜の古画を学んだ所もあるやうでした。それから少し後になつて次第に色が変化して、多く外光の色になつて来ました。柔かい調子で、緑の青白い感じを巧みに現はされました、之は先生の特長でありませう。此時代の代表作は、ルクサンブール美術館にある「フロレアル」で、花時といふやうな感じを描かれたものです、それは湖水の辺りの美しい草原に、裸体の女が草の葉を銜へて臥てゐる図で、有名なものです、裸体の柔かい外光の肉色を描くことの巧妙なことは、先生を以て現代の第一人と推さねばなりません。
 私がコラン先生を知つたのは、一八八五年に藤雅三が、ルクサンブール美術館に陳列してある先生の画を見て、深く感心して先生の門に弟子入したが、言葉を知らないので、先生の言はれることが解らないで困るから一緒に来て呉れと頼まれた、其頃私は法律を勉強して居たのですが、画は好きでしたから、藤と一緒に先生の所へ往つて通弁をして遣つたのです。それが縁となつて私も先生の門に入ることゝなつた。私の先生に師事したのは一八八六年から一八九三年まで足掛け八年間と、一九一六年から其翌年に亘る一年間とで、初めは先生はまだ三十七八歳でした。私が先生の門下に居た初めの八年の間には、随分先生は画風を変へられましたし、又大作もせられました。ソルボンヌ大学の壁画や、オデオン座の天井の装飾画も描かれました。「運命」といふ題で、井の傍に鏡を持つて居る女、又希臘の古代を想像して牧羊者の男と女とを描かれたのも、かなり大作でした。私共の一番感心したのは、草原に立つて居る、或貴婦人の肖像で、それは田舎で描かれたのでしたが、非常に色の上から優美で、何とも言ひ様の無い程好い感じの画で、純仏蘭西の画で、十八世紀の仏蘭西の大家を想はせるものでした。
 先づ比較的近いところでは先生は、一九〇〇年の大博覧会にも名誉賞を得られ、一九〇二三年頃には学士会員に推選せられ、其後仏国高等美術会議員に挙げられて最高名誉を受けられました。それから一九〇二年頃、日本政府から、先生が、世界博覧会の時審査官として日本美術部の為に尽力せられた功労に対してでありませうか、勲三等旭日中綬章を受けられました。
 先生は露西亜の小説を愛読して居られましたが、トルストイは面白いから読めと私に勧められたことがあります、又哲学の書物を読めと頻りに勧めて居られました。宗教に就ては、「自分では絵が何よりの宗教だ」と云つて居られました。併し性質は無邪気な方でした。ワトウ系統の純仏蘭西気質の人でした。
 先生は非常に花が好きでした。巴里から極近い郊外で、フホントネー・オーローズと云ふ所に別荘がありまして、其所には立派な花壇があつて、私共も度々其処に遊びに行きました。其為に私達も非常に野趣を好む様になつた、之は先生の感化が多いことだらうと思ひます。併し先生は至つて自由を重んずる方で、弟子であるから必ず自分の画風に従へといふやうなことは一切ありませんでした。ですから弟子達も皆自分の思ふ道を辿つて、決して先生から画風の束縛を受けるやうなことはありませんでした。
 画室の建てられてあつた所は、巴里の場末で、ボージラールと云ふ通りで、東京でいふと、青山の三丁目か四丁目といふやうな所でした。画室の広さは五間に六間位のもので、入つて正面に置ストーブがあり、そのストーブの後の壁に、今岩崎男の所へ来てゐるマンドリンを弾いて居る女の画が掛けてあつて、其下に日本の鎧が置いてありました。之は画が外づされてからは無論変りましたが、久しい間前に述べた姿でありました。右手の壁の高い処に先生の御父さんの肖像と其左に先生が学校時代に描かれた女の裸の画が一枚、左手の壁にはゴブランの織物が下つて居て、其前に大きな硝子戸棚があつて、いろいろ日本の陶磁器のやうな物が入つてゐました。其右手の南側に一つの大きな戸棚があつて日本の錦絵の類が沢山入つてゐました。入口は恰度北側の西寄りの所で、その右は日本画を描いた屏風で囲つてありました、此外記臆に存して居る主もなものは、タナグラ人形の入つて居る飾棚と光琳風の銀地の屏風と、棕櫚の植木鉢、之等が画室内の主もな装飾品でありました。先生は大に日本の美術品を愛好せられて、いろいろ沢山蒐集して居られて、深く精通して居られました。
 先生の家庭は極淋しい家庭で、私共の行つた頃は両親と妹さんが一人居られました。御父さんの逝かれたのは明治三十二三年頃だつたと思ひます、御母さんは八十二歳位までも長寿を保たれて、亡くなられたのは明治三十五六年頃と思ひます。妹さんは今六十に近いでせう、先生は大変愛して居られました。先生も妹さんも独身でありました。私は早速久米、岡田、和田等先生の旧門下と相談して、妹さんに弔電を発し、又先生の墓前へ花環を手向けて貰ふ事にしました、東京では築地の加特力の教会で、近日追悼会を執行したいと思つて居ますが、之は正式の通知を待つて後に計画します。(談、校閲了)
  (「美術」1-2  大正5年12月)
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