黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎美術瑣話

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▼近頃は洋画も一般に進んで来た。展覧会などでも、無名の青年作家が描いた物の中に、相当な知名の人よりも立派なものが幾らもある。これは日本には真正の大家と云ふものがないからでもある。即ち所謂大家と見做されてゐるやうな人と普通の画家との懸隔があまりないからである。真正の大家となると少しばかり研究した位では中々追附ける訳のものではない。今のやうな時には熱心に勉強して行きさへすれば、斬然頭角の現すのは容易な事である。所謂今日の大家と見なされてゐるやうな人を凌駕するのは左程困難の事でも何でもない。
▼然し青年はどうも迷ひ安い、大分巧くなつて来たと思ふと、横道に外れるものが多い。これはあまりに名声を急ぐからである。一つには新しずきの好奇心もあらう。質実な研究をして順当に地歩を占めて行かうと云ふよりは、一挙にして名を博せようとするから、少し新しい西洋などで評判なものがあるとすぐ其真似をする。それが又幾分か評判になるので妙な方へ入つて了ふやうな事になるのである。
▼西洋の新しい印象派の物などは、十分あらゆる手段を尽して労作した立派なものゝ中にあつて、あゝ変つたものを一寸面白いと云ふので一部に歓迎せられるのである。併しこれは、吾々が支那人の絵などを見て、雅趣があると云つて面白く思ふのと同じである。それ以上大して意味のあるものではない。つまりかう云ふものは一種の社会党のやうなものである。
▼何所の学校の出身者でも、学校を出てから秩序的に進んで行く人と、奇道を踏んで行く人とがある。私のあちらにゐた時分の仲間から考へて見ても、極よく出来る一二の人は必ず、真面目に順道を踏んで秩序的に進んで行く。新しい変つたやり方をするのは大抵第二段の人である。あまり出来ない下の方の人は何をやつても駄目であるが、その第二段の人が変つた試をやる。これは普通の道を進んでゐては、とても第一流に出る見込がないとか、或は大家となるにはなかなか永い年月を要するとかで、早く世間の注目を惹くやうな事に手をつけるのである。かう云ふものが又早く評判になるものである。教師などの評判もよく、善く出来る人は却て名も知られないでゐると云ふやうな事がよくある。これは其の一種の型に囚れると云ふやうな事もあらうが、普通のものは注目を引き難いからでもある。併し評判と云ふものと価値とは差つてゐる事が多い。
▼マチスだとか何とか云ふやうな新印象派の人々でも皆日本の画家などに比べれば、凡て立派な手腕を持つてるには相違ない。西洋の普通の画家位の事は普通の絵も描けるのではあるが、矢張普通の絵では其道の大家には及ばないあゝ云ふ絵でも立派に書けるが、これが面白いから描いてゐると云ふのではない。
▼日本の洋画も大分進歩して来たとは云ふものゝ、まだ及ばない処は多い。西洋人の描いたものは皆んな充実してゐる。何処までもやるべき事は些末までもやつてある。日本人の書いたのは描きかけのやうなものが多い。それに西洋人は画題などゝ云ふものを、左程選ばない。唯忠実に描かうとしてゐる。日本では画題を選び、面白いものを書かうとしてゐる。ここが大に違つてゐる点で、一口に云へば西洋人は仕上げと云ふ事に重きを置き、日本人は画題と面白味と云ふ事に重きを置いてゐる。
▼この画題面白味と云ふ事を考へるのはつまり日本の国民性で、日本画などでは何時もこれに苦心してゐるのである。将来、日本の洋画が発達して来て、仕上げも立派に出来るやうになり、それに日本の特色が加はつたならば面白い特色のあるものが出来るであらう。今日はまだほんの模倣時代であるから、まだ及ばないと云ふだけで、根本的の相違などゝ云ふものはない。
▼支那人は絵の才には極めて乏しいやうである、以前十人ばかりも教へてゐたが、今日どうかかうかやつてゐるのは、香港に一人ゐるだけである、西洋へ留学するものもあるが、どうも巧く行かないやうである、日本人は中心は非常に堅い処があつて、感化する事は六か敷い国民であるが、かう云ふ点では非常に同化し安い国民であるが、支那人は何でも支那流で堅まつてゐて、極めて同化し難い国民であるからでもあらう。
▼亜米利加などは新興国であるが、近頃は大分盛んになつて来た。展覧会なども、立派なのが毎年開かれる。欧洲へ勉強に行つてゐるものは非常に多い。大家になつても欧洲に止まつてゐるのが多い、これは亜米利加でも欧洲のものと云へば相場がよいからの関係もあるし、又欧洲は国が古いために描くものも多く、又生活も愉快であるからであらう。これで暫く描いて五六十枚も出来ると持つて帰つて展覧会を開くと大抵売れてしまう。これで又二三年は遊んでゐても研究が出来るわけである。私の友達なども一緒にアメリカへ行つて会をしようではないかと切りに勧めてくれたものもある。かう云ふ点になると、矢張世界的で、利益を独占しようなどゝ云ふ風な気はない。今ではアメリカ人で勲章を貰つてゐるものも十人以上もゐる。
▼日本では今のやうに世間が慌しく、切迫して来てゐては立派な大作は出来ようがない。落付いて、研究してかくと云ふやうな事はしない。皆んな間に合せである。何んでも間に合せものばかりである。悠然大作をしようなどゝ云ふ考へのものはなく、其時々の間に合ひさへすればよいと云ふやり方である。これでは良いものゝ出来る時はない。
▼殊に装飾などの方面となると甚しい。まだ建築にはやゝ時日をかけるものもあるが、装飾となると大抵建築の出来上つた頃急に取かゝつてすぐに拵へてしまふ。襖や障子と同じ位の程度にしか考へてゐない。装飾費と云ふものを建築費の中へ入れてしまつてホンの附属物のやうに考へてゐるのも多い。西洋などのやうに幾年もかゝつて立派な装飾をすると云ふやうな考へはない。近頃では壁画などの大きいものが大分あるが、これ等も皆短時日の間に間に合せてしまう。帝国劇場の壁画などは壁画としては立派なものであるが、あれなどもあれだけの建築物に対してはも少し時日をかけてやつたらよからうと思ふ。背景などの事はよく知らないが、急に僅かな金で請合はせたりなどしては描く人も手腕も振ふ余地もなくなる。
▼昔の絵にはなかなか面白いものが多い。殊に坊主の書いたものなどに面白いものが沢山ある。何時か高野山から表慶館へ出品した恵信僧都の描いたとか云ふ絵などは実にすばらしいものであつた。何時か見た足利時代の末に出来たものとか云ふ何とか云ふ坊主の描いたものにも面白いものがあつた。これは昔の人は急に作り上げようなどゝ云ふ考へもなく興にまかせて、描いて行くから優れたものが出来るのである。吾々でも興味を持つて描いたものとさうでないものとは大変に出来栄が差つたものが出来る。
▼こんな意味で素人の書いたものにはなかなか面白いものがある。商売気がなくて興味によつて描いてあるから、何処か素人臭い処に又面白味もある。無論技術は及ばないものが多いが、完備してゐない所に悠揚迫らない所がある。昔の名画などには坊さんなどの楽しみに描いたものが幾らもあらう。
(「趣味」6-4  大正元年10月)
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