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◎都市の美観(其七)-黒田清輝氏談

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◎都市の美観と云ふことに就ては、先づ地図を案じ、又実地の踏査を経て、実際に方案を立てて言はないと、空論になり易いから、細かいことは、今俄に言ふことは出来ぬが、極大体を言へば、都市の経営に就ては先づ充分なる調査をして根本的に大方針を立つべきである、姑息な遣り方は宜くない。
◎美術家の側から言へば、美術家は到る処を美化して観る眼を有して居るから、敢て不都合を感じないが、常識から論ずれば、今日の東京市の美観に就ては、注意を促すべき点が多い。
◎概して言へば、現今の都市の経営は統一を欠いて居る、仕事が如何にも間に合せで、物事がチグハグになつて居る、勿論資金が足らなくて、一時に思ふ通りには出来ないであらうから、追々やるのも悪くないが、唯大方針を立てずにやるのは宜くない。
◎或は東京の趣を保存したいといふので、思ひ切つた改良を加へられぬと云ふこともあらうが、仮令充分な改良を加へても、東京の趣は保存し得られぬ訳はないから、是ならば、世界へ出して見せても恥かしくないと云ふものを作る覚悟が肝要である。
◎都市の美観と云つても、一寸見た上の、即ち外部の美観と、立入つた、即ち内部の美観との区別がある。それで、外観上の美観も必要であるが、又一方に立入つた内部の整頓を計らなくてはならぬ。
◎内部の設備の整頓に就て云へば際限はないが、今其一二を云へば、上水は不完全ながら既に出来たが、下水の方はまだ頓と着手されて居ない様だ。市区改正、道路修築の不完全なことは云ふまでもなく、随て便所の設備でも、大小便の運搬方法でも、余り天然的で、外国の主もなる市街などゝは、殆んど比較することが出来ぬ。
◎教育機関の方面を見ても、学校などは明治初年以来、力を尽されたから、他の仕事よりは整頓しては居るであらうが、附随科目とでも云ふ様な、見せて教育する側のものが尠い。動物園や植物園などは、ある事はあるが、一般市民の観覧に不便である、又其材料も、外国の程に珍らしいものが揃つて居ない。博物館、図書館の類は漸次緒に付いては居るが、まだ不完全極つたものである。
◎特に我々に不便を感ずるものは、美術館の欠乏である。美術国を以て任ずる我日本に、其美術品を市民、国民及び来遊の外国人に見せる場所のないのは大なる欠点である。
◎市としては市の歴史博物館が最も必要なものである、特に東京の如きは世界の市の中でも、最も材料に富んだものであるのに、まだそんなものはない。
◎博物館や美術館の建物は、表面市の美観を添へるのは勿論であるが、其内容に至つては外観に関係がない様であるけれども、併しそれが整はねば、文明の程度を示すに足らない。
◎市の全体の経営に就ては、前にも述べた通り、具体的に根本から詮議をして取掛らねば、チグハグで、到底美観を成すことが出来ぬ。どんな立派な着物でも、チグハグに切れを当てゝは立派にはならぬ様なものである。
◎東京も、現在の処分の出来易いところからばかり着手して居る様では後日に至つて決して立派にはならぬ。たとへば彼処の寺の辺に樹木があるとか、小山があるとか云ふので、忽ちそれを公園にすると云ふ風なことでは駄目である。公園も亦市の全局から打算して程良く配置せねばならぬのは言ふまでもない。又堀があるから埋めて家を建てると云ふ様な、簡単な目先きの仕事ばかり着手して、ちつとも遠大な計画がない。
◎宮城の周囲は流石に広場が残して優美にしてある、然るに其附近には繁華なゴタゴタした場処もあり、又遠からず、汽車の煤烟も立つ様なことになる。
◎望むところは、五十年後百年後の事を考慮して大方針を定めて欲しい。たとへば何処は後日繁華な市の中心となるとか、何処はどう云ふ人が住まう様になるとか、何処は製造場を置くとか、従て大局から大方針を立てゝ経営して欲しいものだ。
◎日比谷公園の樹木を見ても大抵、現在の姿を標準にして植ゑ込んである。五十年後はどうなるか、百年後はどうなるか、さう云ふことは予想してはない。
◎彼の公園は一局部々々々には面白い処もあるが、全体の統一した処がない。又歩いて見るのにも不便で、休んで居ても不便である。夏などは半日の涼を得る樹林もなく、冬などは新聞でも読むのに日当りの佳い場所も見当らない。
◎普通の庭園と公園とは、丁度人間の日常の生活と芝居と異ふ様なもので、日常の生活は直ぐに芝居にはならない、其如く、公園は日常の住居とは異ふ故に、公園には公園に適した設計を要する。
◎是は稍悪口に過ぎた様であるが、一体東京の公園はどの公園も欧羅巴の公園の様に公園らしい感じがしない。
◎一部分々々々を改良しても市の美観は得られぬ。全体として適当な方針を立てねばならぬ。一部分々々々ならば随分改良することが多い、仮令ば大通りの電柱が余り多くて美観を損ふ、あれを第二流の街へ立てる様にしたらどんなものだらうか、是は素人考で思ひ付いたことを言つたので、実際は不可能の事かも知れんが、美観と云ふことの一例を言つたのである、そんな一部分の改良は何時でも出来るだらうが、併し之は貸長屋の出過ぎた廂を切つて取る様なもので、姑息なことであるに過ぎぬから、そんな一部分の改良は後と廻しで宜からう。
◎宮城の以北以西は優美な住宅地にするとか、宮城の周囲は二、三十町附近はどうするとか、或は幽邃閑雅な住宅地にするとか。本所、深川は工場地とするとか、船着に便なるが故に商業地にするとか。水害予防の法を立てゝ河川沿岸を繁華地とするとか、遠大なる根本的設計を立てる必要がある。
◎チグハグな仕事が東京の今日迄の遣り口で、それを止めなければ、到底立派な東京市を造ることは困難であると思ふ。
◎東京の街を見ると、十町でも二十町でも、一つの考へで通した処がない。外国などでも、古い市では、時代々々の変遷に伴れて、改良に改良を加へた為に、全体の統一がなくて、時代を経て変遷のあるのは已むを得ないが、東京の様に同じ時代の仕事で、チグハグになつて、十町と二十町と同じ考へで行つた処のない様なのは醜い。仮令ば路傍の並樹なども、あるかと思ふと無い、無いかと思ふと有る、処々杜断れて一貫しない。
◎勿論変化は美観上必要であるが、調子外れの変化は、変化の功はない、乱雑であり、矛盾であり、却て美観を害ふ。
◎畢竟大体の統一を欠かぬ様にと云ふことを念頭に置いて居ないから、斯んなチグハグなものになる。
◎御濠の土手の並樹は宮城の美観を添へる様に調和するものでなくてはならぬ。然るに何故か素人に分らぬが、柳の樹が多い、其樹振りも悪るければ、枝の切り方も拙い。
◎路傍に桜を植ゑるのも、花の時節には綺麗であるが、虫が付いたり、植ゑたまゝ保護しないから、発育も充分でない。街樹としては適当とは云へぬ。
◎街燈なども周囲の建物と調和する様にありたい、街の建物も看板も、市の美観と云ふことを互に考へて、官民共に銘々勝手に自分の処ばかり好くすると云ふ不体裁を止めて、互に他の迷惑とならぬのみでなく、互に相扶けて能く調和を保つ様にありたい。
◎歴史的の、今更再び俄に造ることの出来ぬ、城廓の如きもの、其他歴史的のものは精々保存する様にしたい。
◎巴里では市の美観に就て専任の監督官があつて、市区改正や市の美観のことを指図する様だ。そして充分に施設せられて居る。費用も充分である。
◎例へば、路側の樹一本に、たしか年百五十フランばかりも掛けて居る。其保護も到れり尽せりである、例へば、樹の根の方は人力の輪を伏せた様な鋳物で覆ふてあつて、アスフヮルトの人道の処に植ゑてある、鋳物の囲の中は土で、適宜に水を漑けて丁度盆栽の木を扱かふ様に手入をする。勿論東京などでやる様に荷車を打つ付けると云ふ様な憂は毫もない。
◎公園も其設備は充分に出来て居る。巴里は日本ほど暑くないが、それでも公園の納涼の設備は充分で、たとへば、水道管を引いて来て到る処に随意に小噴水を作ることが出来る。日本などの如き夏の夜の炎熱の堪へ難いところでは、斯んな設備が必要である。木製のベンチなどでも、其屈曲の工合が巧に出来て居る為に腰掛けて居ても心持が好い。
◎要するに部分々々の美観となり、醜観となるのは、場所に応じて、それぞれ其周囲と調和する様に設計すると、其不調和とに由つて別れるのである。即ち材料の軽重、色彩、其取扱方の適否に依つて成敗が分れるのである。故に場所に依つては或は重く見ゆる材料を選び、或は重い材料を軽く見せる様に取扱ふことが肝要である。
◎要するに全体の統一と部分々々の調和を常に慮らねばならぬ。(文責在記者)
(「美術新報」10-7  明治44年5月1日)
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