黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎旧友クラレンス・バード

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クラレンス・バードは、一緒にコラン氏のアトリエで稽古した男で、英国の人も四五人居たが、其中で僕が最も懇意にしたのは、ヂヨンス、ウオスパー、の二人と此のバードであつた。
 割合に頭の大きい、云はゞおでこであつた。髪の色は薄茶色で、人相は性質通りに極温和なたちで、長けは英人としては先づ低い方だが吾々から云へば人並みである。
 今でもたまには文通をして居るが、もうどんな白髪頭に為つて居るか、一緒に勉強して居たのは、十八九年前の事である。
 明治二十一年の夏の始め頃から、バードと米人のグリフヰンと三人連れで、ボワニュヰルと云ふ田舎に行て居た事があるが、其頃の境遇を想ひ出すと、誠に呑気でいゝ気持がする。此の気持の或る点は、ヰルジルの詩に能く似たところがある。
 僕がまじめに郊外写生をやつたのは、此の夏が初めてゞ、此三人で同居して居たのは、僕に取つて少からぬ利益であつた。
 ボワニュヰルと云ふ所は、巴里より南の方に当つて、汽車で今は能くは覚えないが、二時間ばかり懸つたやうだ。フォンテヌブロウよりは、西南の方で、五六里も有つたかと思ふ。其後僕が三年間も住んで居たグレ村からは、真西で、矢張五六里の距離である。エッソンヌといふ小川に落ち込む、又極小さな流れに沿うた谷間の西側の崖地で、お寺を村の中央に置いて、人口は僅か四百あまりの小さい村である。
 居酒屋兼旅人宿の表二階の物置同然の板の間を借りて、三人の画室に充て、其片隅の板囲ひの中に寝泊りして居た。此処の南京虫の多かつた事は、今でも想ひ出すと寒けがする。毎夜二三度は目を覚まして虫退治をやつた。こんな事は、其当時は随分苦しかつたが、今と為つては中々面白い紀念である。又バードが樹〓を飼つて居て、朝晩に篭から引き出して肩に載せたりして楽んで居た。
 バードは元来至て無邪気な子供らしい男で、子供は大好きで、能く子供を相手にして居たから、画にも多く子供をかいた。併し其時分は、僕は勿論他の人達もまだ修業の初期であつたから、只無茶苦茶に写生をする計りで、一つも纏まつた作は出来なかつた。
 宿屋の前はお寺で、後ろは崖で、其崖の上には岩が沢山あつて、其岩の間に一丈余りの松が少し生へて居た。此辺で能く村の子供や羊の児などを写生した。又崖の下へおりて右へ曲り、小さい澄んだ流れに沿うて、其源の方へ行けば、プウプリエ樹の林がある。右手の崖には岩石の間に雑木が生ひ茂り、谷間の水際には、ブウトンドウルと云ふ黄いろい花や、名も分らない白や紫の小さい花などが咲いて居て、誠に幽邃な所である。
 暑くなつてからは、能く三人連で泳ぎに出掛けた。村を流れて居る川は極小さいのだが、停車場より東の方へ五六町も行けば、別に又一ツ少し幅の広い川がある。是れが本当のエッソンヌで、村のは其支流である。此辺は一面の平地で、沼地のやうな処だ。其処まで行くのは、木陰も何も無くつて、ひどく暑かつた。
 宿屋は家族五人で、五十歳位の主人と四十四五の女房、其れに子供二人と姪の十三四になる女の子が一人居た。主人のドロルムと云ふ男は小肥りで、丈の低い、色の黒い、胡麻塩頭で、黒い濃い髭が生へて居た。此の男の自慢話はメキシコの従軍で、何かの端には直きに「カランバ」を呶鳴る。又酒好きで、大抵終日飲みつゞけて、之れには女房の婆さんは大いに閉口して居る様子だつた。併し此男中々な好人物で、吾々は大満足であつた。息子は二十歳許りで、無口で極温順な性質、娘は大層年が違つて居て、僅か六歳か七歳位だつたとおもふ、大分あまへて居た。
 月夜の時などは、僕は一人でぶらりと出懸ける。停車場の方から左へ曲ると、ボワニュヰルを包んで居る崖の後手に出る。此処は又別に一廓を為して居て、麦畝の中に一と筋狭い道があるばかり。眺めは広く至て静かで、遠くには靄が懸り草には露の玉が光つて居る。此の道を往たり来たりして、三笠の山に出し月かもなどを高声で謡つて帰る。是れは丁度退屈の折に欠をする様なもので、たまには日本語で何か云て見度くなるのだ。
 翌年の春には又バードとフォンテヌブロウの手前のブロールと云ふ田舎にも行て居た事がある。其処の宿屋はベゴウと云ふ家で、バードが至て懇意にして居る内で、此の家の主人も五十二三で大の酒飲みで、女房が家事万端をやつて居た。
 一体此のベゴウと云ふ家は、此辺での旧家だと云ふ話である。子供は矢張兄弟二人で、頭が女の子で、年は十五六であつたが年の割には体も大きく、すまし込んだ質で、容貌は先づ鄙に稀なる方で、目は大きく、鼻は高からず低からず、口は小さく、併し色の余り白くないのと、少し猫背なところが玉に瑕であつた。弟は十一二で我侭一杯の小僧で、姉は勿論おふくろの云ふことも余り聴かない方であつた。主人は只飲む許りで、大きな体を持て余したやうにぶらりとして、又能く胃病だと云て、不景気な面をして居た。其代りにかみさんは赤ら顔の肥えた女で、極快活な働き人で、年は漸く四十を少し越したか位なものであつた。此外に、主人の父親の八十歳許りの丈夫な老人が居たが、此の男は宿屋と往来を隔てた向側の家に住んで居た。
 ボワニュヰルは、全くの片田舎で、吾々の外には外国人などを見た事は無い処だが、此のブロールはフォンテヌブロウにも近く、停車場はボワルロワと云ふ処に在つて、其辺には立派な別荘なども多く、能く人の知つて居る場所だから、宿屋も自然本式で、万事行届いて居る。又外国人も絶えず泊りに来る。此のブロール中に二軒の宿屋があつた。がベゴウの方には、英人やポルトガル人などが多く泊り、今一軒の方には米人が主であつた。是等のお客は大抵皆美術家である。
 ベゴウの家は、村の北側で、門を入つて五六間奥に二階建の家がある。入口の右手が玉突場で、左手が立飲みの酒見世で、其外にマッチや蝋燭のやうな一寸した雑貨も商なつて居る。其裏が小さい台所に続いて居て、台所の入口から玉台のある方へ通ふ所に、食堂がある。さうして二階が寝室に為つて、其処に客をとめる。又裏庭に平屋が一棟在つて、寝室が四つある。僕は此の離座敷の北向の部屋に泊つて居た。
 僕の部屋の窓の前は畠で、果樹も野菜もある。其処から北の方へは地面が少し斜に下つて居て、牧草の中に杏の樹が五六本ある。此の木陰は実に気持のいゝ所である。其先は鉄道線路で、其又先は崖地の薮で、其下にセイヌ河が流れて居る。
 或る日バードが鉄道線路の先きの崖の上で、小鳥の死んで居たのを見付けて持つて帰り、之れにセイヌ河を遠景に附け、菫の花をあしらつて、食堂の戸の帯板にかいた事がある。多分今でも残つて居るだらう。此の図は其頃のバードの、幾分かプラトニックめいたところを能く現はして居る。
 其後屡々ブロールへ行たが、或る年の冬一寸立ち寄つて見たら、丁度晩飯の時で、客は一人も無く、家族丈で食事をして居た。今日は何も無い、之れで済ませて呉れと云つて、皆と一緒に鱈と馬鈴薯と烹込みにしたのを食たことがあるが、其味は今でも忘れられない。
 三十三年の夏、久し振りで、ブロールへ出掛けた。ベゴウの家族はどうして居るか、亭主は弱い男だつたから死んだかも知れない。隠居は無論もう居ないだらう。娘は二十六七にもなるから、子供の一人や二人はたしかだ。かみさんは相変らず、客の相手と台所で暮らして居るだらう。息子はもう兵役を済ましたらう。兎に角皆が嘸喜ぶだらうなどと、独りで考へて、ボワルロワの停車場から、予て知つて居る裏道を通つて、裏の畠の方から、離座敷の横手の木戸を開けて這入つた。
 誰か居るかと、幾度も呼んで出て来たのは、三十近い女だが、少しも見覚へのない面だ。其処で全く調子がくるつて仕舞ひ、仕方なくベゴウと云ふ宿屋は此処ですかと尋ねると、此処はベゴウとは申しませんと食らつた。いや是れは不思議と段々委しく聞けば、実に情ない次第で、ベゴウ一家は、僅か此の十年間に、隠居も亭主も女房も娘も皆死んで仕舞ひ、忰は巴里へ行つたと云ふ事丈知れて居る。
 バードは此の不幸を知つて居るか知らん、ムッシウ、オワゾウと、娘が常にやさしい声で呼んだのが、今でもバードの耳に残つて居るに違ない。
 あの死鳥に菫の図は、今になつて見ると、独りバードの青年時代の紀念でなく、亦此ベゴウ家の悲しむ可き歴史のイリュストラシヨンである。
   (「光風」2-3  明治39年6月)
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