黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎ドラクロア

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   ドラクロアに対する慨念
 ドラクロアの画といふのを、今日最もよく纒めて見ることの出来るのは、兎に角巴里のルーヴルの博物館だと思ふ。それで此の十九世紀の画中にて、誰しも眼につくのは、此のドラクロアの画である。それは如何なる点からであるかといふに、一見非常に激しい色がつかつてある様である、極く強い鮮やかな色と言つても宜い。又其の描いてあるものが大変によく活動してゐる。姿勢の上から計りでなく、静然としてゐるものも、何となくいきいきとして居て、呼吸をしながら静然としてゐるといふ感じがある。
 それ丈けのことでも、他の同時代の人に異つてゐることは明かである。それで先輩の話を聞いて見たり、又書物を読むで見て、初めて此人が異つてゐることが愈々分つて来た。元来此のドラクロアといふ人の出る前には、此人の描く様な種類の画を描く人が殆んど無かつた。それで此人の画が大層眼につく、畢竟着想の点が重に新しいのである。
   クラシツク時代
 それで人も知つて居る如く、ドラクロアという人が起つたのは、ダヴヰツドと云ふ人が拵へたクラシツク派が盛んな頃であつたから、ドラクロアの画が一層眼立つたのである。其頃は画はクラシツク派に限るという位にダヴヰツド流が行はれて居たのに、それとはまるで風の異つた此のドラクロアの画が出て、非常に眼立つてクラシツク派から悪く云はれたのも無理はない事だ。
 さて其のクラシツクの起つた時代は何時代であるかといふに、是は奈翁一世の時代に起つたので、其の元祖はダヴヰツドと云ふ人ですが、今でも此の系統の人がある。ドラクロアの頃のクラシツク派の総大将はアングルと云ふ人であつた。又ドラクロアが描き初めた画風にローマンチツクといふ名が附いて居る。
   クラシツク派とドラクロア
 クラシツクと云ふ一派は希臘の古代を馬鹿に貴んだもので、今見るといやに気取つた極く厭味のあるものだが、其頃は非常に上品なものだと思つて居たらう、今日でもまだ之を上品と思つて居るものもあるだらう。又反対派から云へば厭味だとも、希臘形の人形を並べたのだともいふだらう。却つて其の活動しない点に於て上品の様に見えるところもあるかも知れない。其の善し悪しは兎に角、希臘風でなければ上品でないと為つて居る。其最中に、希臘以外のものを描いて活き活きしたものが出来たから、ドラクロアの画が其当時はあべこべに厭味たつぷりの下品なものに見えたであらう。
   ドラクロアの人物
 かう異つたものを描き初めた、ドラクロアといふ者の人となりは、其画に現はれた程、人間も必らず異つたことのあるかといふに、矢張り異つた所があつたには相違ないが、何も変人とか奇人とか云ふやうな人ではなかつた。それでドラクロアといふ人間は、何ういふ性質で、何ういふ考へをして、斯ういふ画を成就したかといふことを考へて、それを知らうといふので、幾らか書物も読んで見たが、先は不完全ながら、其中の一つ二つをとつて今日はお話します。
 さて書物を読むだり、又人の説を聞いた後のドラクロアは、非常に立派で、実に敬服するより外はない。それで今日お話するのは、其中幾分か面白いことをちよいちよいいふのであるが、其前何も知らない中に、其画の前に立つて私が感じた所を先づお話します。
   初てドラクロアの画を見た時の観念
 ドラクロアの画を見て、最初に感じたのは、気味の悪いといふ感じである。それは図柄が何んとなく気味が悪い、所謂凄いのです。是は無論画題も知らず、其人の性質境遇も、又油画といふものをもろくに知らないで感じた所です。
 それから其色の方からは、赤や青などがいやにつよく見えて激しいといふ感じが起る。又人物の手や足や、凡ての部分が傍に並べてある他の人の画と比べて、非常に粗雑な様に見えるから、果して是で出来上つてゐるのかと思ふ様な気持がする。
 以上は初めに私が何にも知らず感じたのであるが、それはもう極めて皮相に見た丈けのことであつて、其後よく先輩に就て話も聞き、又自分も画などを自身で研究して、それからドラクロアの描いたものを見ると、実に得難い所の大家であるといふことは、何うしても間違ひのないことである。
   ドラクロアとヴエロ子ーズ及びリユバンス
 それで此人を先づ其画の性質の上から、古代の大家に比ぶれば、何ういふ人と略ぼ相似てゐるかと、考へて見ると、先づ伊太利でヴエロ子ーズ、フランドルでリユバンスの二人で、之が画の性質から似てゐるものである。それで此三人の中の一人の画を見れば、其他の二人の画はまるつきり見たことの無い人にも幾分か想像がつくだらうと思はれる。
   ドラクロアの略伝
 ドラクロアは、我が寛政十一年(一七九九)に生れて、文久三年(一八六三)に死んだ。父は政治家で、初め代議士から後に国務大臣ともなり、又馬爾塞及びボルドーで知事をやつたこともあるといふ位な人だから、ドラクロアの生れは勿論よく、随分裕かに育つたものである。
   其性質
 それで貌付などは、画に描いてあるのを見れば、口でいふよりは遥かにましだらうから別に云はぬ、此人は全体文学音楽などにも非常によく通じて居つて、挙動や言葉使ひは至て上品で、云はゞ外交官の風があつた。  性質は極く考へが確かりして居つて、孰れかといへば、飽く迄激しい性質を持つて居ながら、成るべくそれを抑へて居つたものらしい。
   其教育
 其教育は小児の時に、最初から画師にさせやうとしたのではないので、矢張り普通の人の如く、九歳位の時にリツセー・アンペリヤル(帝国中学)といふがあつて、それに入つて教育を受けた。それで休日などに、ミユゼー・ナポレオン(今のルーヴルの博物館)で、古人の立派な画を視て、之に感じて、大いに画が好きになつた。  十九歳の時、ゲラン(クラシツク派の人)の門人になつたが、ドラクロアは此の人を師匠にしたものゝ此の人の画風は最初から嫌ひであつた。
   其作品
 サロンに始めて出したといふ画が、「ダンテ及びヴヰルジル」(一八二二)である。之を初めとして、それから終身クラシツクと争つたが、当時はクラシツク派のもの即ちダヴヰツド派のものが勢力を得て居たので、常に其れが為めに苦められて一生を終つたといふ姿である。
   幼時に受けし一生の予言
 小児時代に面白いことがある。それは或る時下女に手をひかれて、馬爾塞の町を歩いてゐた。然るに不図そこへ狂人(日本では仙人とでも言ふであらう)が現はれ突然小児のドラクロアを携へ、下女が懸命に拒むにも拘はらず、それを押し除けて、さてじつとドラクロアの顔を見てゐたが、軈て其狂人がいふには、
 「此小児は必らず有名な人になる、然し一生非常に忙がしく暮し、又非常に世人の攻撃に逢つて、最も艱苦をしなければならない」
と、いふかと見ると、何時の間にか何処かへ行つて了つたといふことがある。
 此事をドラクロアは小児ながら能く記臆して、後にもよく此事を言ひ出しては、人間の運命は不思議なものであると言つたことを、聞いた人が沢山あるといふ。是がドラクロアの一生の予言になつた様なものである。
   其平生
 平生は第一非常に勉強家であつて、大変に暇を惜しむだ。それで自分の仕事をしてゐる時に、客の来るのを最も恐れたから、其雇つてゐた極く忠義な下女によく吩咐て、成るべく客に接せず、静かに勉強して居るといふ風であつた。
 然し客に接した時には、全くそれと反対で、話は巧みに極めて面白く、愉快に客を待遇する人であつた。
   臨終の際の歎息
 ドラクロアが、其時代にダヴヰツド派の牛耳を執つたアングルといふ人などから、如何に厭な思ひをさせられてゐたか、如何に敵視されてゐたかといふことを、最もよく証明するのは、ドラクロアの晩年、久しき間病蓐に就て、既に危篤といふ重態である時、--丁度ドラクロアの死んだのが、一八六三年八月十三日であるが、其四五日前に、帝室技芸員の団抱ともいふべきアカデミー・デ・ボーザールから、見舞の使者が来た。是は矢張り下女が玄関で面会を謝絶したが、其の事をあとでドラクロアが聞いて、
 「随分彼の人達は、自分を困らせたり、悪口したりして、酷い目に逢はせたが……」
と言つて歎息した。ドラクロアが臨終の際に、是丈けのことを言つたのを見れば、平生如何に不快な感情を有してゐたか分らぬのである。
   意見と其日記
 ドラクロアは音楽につき文学につき、はた哲学上のいはゞ審美学といふものに就ても意見を述べ、種々の議論を書いたものが残つてゐるが、それは常に日記をつけるので、其日記の端に書きつけたものである。其日記は死ぬ前に、始終世話してゐた下女を呼むで、皆な火中させた。然し其日記の中の重なものは、之を書き抜きにして別に写さしたといふことで、其書抜丈けは死後相続者に渡された。処で其時下女が主人に向つて、かういふ物は焼かずとも宜しからうと言つたら、何アに自分が癒くさへなれば、日記に書いて置た位のことは記臆して居るから後で又書くから構はぬと云つたといふ。其後不図したことから、其火中されたといふ日記が焼けずにゐるといふことが発見された。それはドラクロアの死後、先づ下女がそれを保存してゐて、下女の死後日記の一部分が転々してドラクロアの親戚のものゝ手に入つたが、其親戚も、丁度明治の初年に死んだ。其後は其日記が誰の手に渡つたか、今では全く其行方が分らぬ様になつたといふことである。
   惜むべき製作品の散逸
 以上で先づドラクロアが、死後初めて、十九世紀を引き立てゝ行く大家であつたといふことが分つたであらうが、それが何うも兎角思ふ様にはいかぬもので、此人が其時代に十分世の中の信用を受けるといふことの出来なかつたのが、今日仏国にとつては最も遺憾なことであらうと思ふ。それは何であるかといふに、死後其製作品が競売に附せられて了つたことで、成程豪い人の画丈けに其競売の時などの盛況は、実に非常なもので、其時代の社会に知られてゐる人、知られてゐぬ人など、犇々と押し寄せて、中央にゐる人は立つた侭動くことも出来ない位に多勢であつたといふが、哀しい哉、其製作品の遺物は、それ限り皆な四方に散つて了つた。同じ大家でも英国のターナーなどといふ人は、社会を信じた為め、又社会から信じられたことを自信して居つた為め、其死ぬ時に自分の製作品を皆な政府の博物館に寄附したといふことである。其れが為めに英国のターナーは、英国でなくては見ることが出来ず、英国ではターナーといふことが十分に分る程立派な一画をなして陳列してある位であるが、不幸にもドラクロアは此の如き自信をなす程の境遇でなく、常に敵の為めに苦しめられて居たので、惜しいことに其名作佳品は一二を除くの外凡て散逸に帰して了つた。
  (「美術新報」1-20  明治36年1月5日)
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