黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎名家譚叢-裸体画談

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問 裸体画といふものは婦人に限るものですか。
答 決して婦人のみには限りませぬ。
問 併し男子の裸体画は滅多にありませぬやうですが。
答 それは第一日本で描く人が無いから展覧会などに出ないのですけれども、外国には随分あります、裸体画と云ふと日本では陰部を出して居るとか又推定されるとか八ケ間敷いことですけれども、欧洲では宗教画中の人物ですから赤裸のもあり腰丈に布を纒つて居る者もありますが元来其様なことは全く画面の都合でやる丈のことで彼の有名な羅馬のシヤペルシキスチヌの壁や天井などには男女の裸体がどの位かいて有るか知れません、たとへ人物が裸体であらうとも其目的が高尚だから見る人も彼れ是れ云ふ筈のものではありません、今日日本では其目的の如何を問はず裸体画は一切ならぬと云て仕舞ふのは、釈迦は印度人だ印度人が高尚な気遣が有るものか、仏教はだめだと云ふのと同じことであらうと思ひます、釈迦を拝む人は印度人を拝むのぢやない、人間以上の者を拝むのです画中の人物は只の肉体では有りません、或る考を代表して居るのでありますから、画を見るときには少しく考をして見て貰ひたいものであります。
問 宗教の為めに作つた画は美術として描いたのではないのですか。
答 勿論美術です。又宗教と美術との関係を歴史上からお話をすると大変ですからこれは他日のことゝして置きますが宗教に依て美術が発達したといふ事はたしかです、宗教が何の為に美術を発達させたかと云ふと、詰り拝ませる目的物として沢山画を作つた、又画の力に由て寺院の装飾を盛にした、こんな事のお蔭で大変美術が発達した、宗教の為に作つたから美術でないと云ふ訳ではない大に美術なのです、彼の法隆寺の壁画が美術でないかと云へば、誰しも美術であると答へる。
問 併し通常描きます裸体画と、今申された宗教画とは目的が違ふのですか。
答 それは趣が違ふ、目的も無論違ふ、宗教画の方は人物を宗教に取り、主に経文の意味を形に現はしたもので信仰心を起させるのが主な目的でせう、其他のものは哲学に趣味を含んで居る古代の小説、例へば希臘ののミトロジーのやうな神代話に取るとか、又近代古代の区別なく或る高尚なる文字なり又理想なりを哲学的に解剖して人物を以て一つの画を組立て人の心を楽ませる、それですから宗教画とは目的が違つて居るですけれども、画の品格と云ふ点に於てはいづれも至て高尚なものです。
問 さうしますと、研究するには裸体画に限ると云ふやうな事を、これから御伺ひ致したいものです。
答 裸体に依て稽古するの必要をお話をすれば、先づ医者に為るのに人体はどう云ふ構造のものだといふ事を知らなければ薬を調合すること計り知つて居ても病気が治療する事は出来ないやうなもので彩色をすることは心得て居ても裸体を充分に研究しないものには立派な画は描く訳に行かぬ、尤も人物画以外には動物風景其他種々の画が有りますが裸体が出来る位の力でなければ何をかいても極上手には出来ません欧洲では古来人物画には大に骨を折つて居る併し古代の人には名高い人で人体の全部の研究はあまり為なかつた人もある、それはどう云ふ理由で研究しなかつたかと云ふと其時代が画学の充分発達した時で無く世間でも体格のことなどは左程八ケ間敷云はなかつたのと又当人が坊主であつてさう云ふ研究をする機会が無かつた為めです、其代りにそう云ふ人は面部などには殊更に注意したもので大変巧く描いてあるけれども研究しなかつた分だけは、比較的に拙いと云ふこと丈は昔からの評判です、実際は研究したものか分らないが、其人の描いた人物の体格が拙く出来て居る所から其人の境遇を察して見て先づ研究しなかつたらうと云ふのであります、それから殊更に人よりもひどく研究して体格と云ふ事に骨を折つた人もあるさう云ふ者は自分で刀を執つて人体を解剖して研究したと云ふ位ですから身体の研究は殆ど此の人の上に出る者は無い程です、画を学ぶ者に取つて裸体を手本にするのが一番便利だと云ふことを簡短にお話すれば、何が尤も初学の者に取つて必要だと云ふことを考へなければならない、尤も必要だと云ふのは画を学ぶものにでも彫刻の稽古をする者にでも、先づ形体をば頭脳に収めることが必要であります、彫刻と画は只形体を現はして行く方法が違って居るので、形体を頭脳に収めることの必要は両方同じであります、それで画の方は筆の使ひ方、色の出し方に巧拙が無論あります、彫刻の方も同じやうに形を現はして行くに就ての手際の巧拙が非常にあるがそこが詰り技術家の上手下手の別れ目ではありますけれども、其手先きの仕事の外に形体が頭脳に這入らぬ以上は、幾ら手先きが達者であつた所で実際立派な物を作り出すことは六か敷い、そこらの点に就いては今までの日本の美術研究の方法と、欧羅巴の方法とはまるで違つて居る、日本にての方法は形体は次にして只運筆ばかり習はせる、彫刻の方でも幾分さうでせう、先ず刀の使ひ方を主に稽古させて形と云ふ方のことは余り研究させなかつた、或る図案や何かを手本にして夫れに似寄つたものを刀を以て木に彫る又画書きの方では師匠のかいた先づ手本や又古画の写しなどに拠て運筆を学び形は少々手本と違つて居つても、其の筆使ひが手本の心持に出来て居れば宜いと云ふやうなことを研究の方法としてあつたらしい、それでは私共の稽古の仕方と全然順序が違つて居る、私共の方では運筆とか云ふことは第二で、之は自然に解得するものとしてある、先づ物体を平面の上に現はすといふことで、其現はし方は濃淡で現はしたのも亦線でも決して差閊ない、初めから只平面に物体を現はすのを主意にしてやらせる、さて其の物体を平面の上に現はすに就てどうした方法が一番いゝだらうかと云ふことを研究して見ると理論の上では鉛筆を以て筋で書いても宜し、木炭で少し濃淡を付けてやつても宜し、又絵具で初めから色の調子を合はしてかいても差閊ない、併し実際のところでは初めからさう云ふやうに何の材料を持つて来ても形さへ書けば宜いと云ふものゝなかなか書けない、何故書けないと云ふと、手の先の熟練が無いといふなども有りますがそれより大事なのは頭脳の中に形体が無いことです。全体画学を稽古しない人は、物の形を見ても書く方の順序から見ないから、四角な物を見ても只四角だと思ふ丈でそれを紙の上に現はして見ると、先きが広くあらうが、手前が狭くあらうが、四ツ角のあるものさへ作ればいゝのだと思つて居てどう描けば四角なものに見えるといふことには頓着しない、誰でも自分に近い物は大きく見えて、遠い物は小く見えることは知つて居ることである、知つては居るけれども偖物を描く時には其れを忘れて仕舞ふ、たとへば同じ大きさの物体が〓に二つあるとする、其一つは自分より三尺離れた所にある、もう一つは四五間も離れた所にある仮りに其物体を円石と定めて、其処に二つの円石が転がつて居る所を描くとすれば、其遠方の石を小さく、近くの石を大きく書けば天然で申分ないのです、けれどもさう云ふやうに書くものだと云ふことを習はない人は、其事柄が幾ら単純であつても気が着かないで、円い同じやうな石を二つ書くに違ひない、こんな間違は欧羅巴人には少ないけれども、日本人には多い、欧羅巴ではどんな絵を見ても遠くの物は小さく書いて近くの物は大きく書いてありますから、自然に子供でもいくらか其考がある、それだから先づ近くの物は大きく書いて遠くの物は小く書くと云ふことは、欧羅巴人に取つてあたり前のことです場処の遠近のみならず物体の形と云ふ事に就ては総て日本人では大人でも随分ぞんざいに見て居る、加之只の大人ばかりで無く非常な大家でも形の上から、大変な間違をやることが有る併し少つともこれを誤りと為ない、さうして大体誤りだと云ふことを悟る人があつても、又傍から注意しても之は差閊ないとして顧みない、こう云ふ人には普通に唯初めから習つた運筆と云ふことしか無いものでありますから、運筆さへ能く往つて居れば形はどうでも宜いと云ふのでありませう、一つの画面としては幾ら物が天然の侭に現はれて居つても、一つの美術品とする以上は其天然の物に現はし方の方法が拙ならば、無論だめには違無いけれども、又幾ら方法だけ達者であつても、物の形がまるつきりどうでも宜いと言ふやうなことでは、到底非常な大作を得らるべきものでない、作者が形と云ふことを無茶にやつて古今万国を通じての美術品を作ると云ふことは殆ど出来なからうと思ひます、それでありますから形体と云ふことは先づ初歩から必要なもので、其形体を覚える方法は欧羅巴では初めから人体に似寄つた物に拠て稽古をさせる、なぜ最初は人体に似寄つたものを見せて人体を見せないかと云へば人体には天然に色々な色があつたり又大変皮膚などに皺が寄つたりして細かな細工が出来て居るものであつて初は其等の極く上面のものには大層眼が着き易いものでありますから却て稽古の邪魔になる、だからさう云ふものでなく極く簡単な物に拠て稽古させる、其の簡単な物は何だと云ふと即ち古人の拵へた彫刻物を石膏に写し取つたものか或は又本当の彫刻物であるさう云ふくだらない細かなものを省いた作品を見せて形体を頭脳に入れるやうにさせる何故に画の稽古をするには人体を写すに限るのであるか人体でなくても獣類でも草木でも宜ささうなものだが、之は予て人にも言ひますことですが画をかくのは先づ物の形を知り其形を平面なものゝ上に現はして行くのであるから四角な物を四角に書いたばかりでは四角なものとは見えない、かいた上で四角は四角に見せるのが画だ、又其物質も画面に現はれなければならない、堅いとか柔いとか云ふ区別がなければならない、それで其区別を付けるには又多少筆使ひの仕様もある、凡そ人間の身体は堅い所もあり柔い所もあり、種々な点が完備して居るから之に拠てやれば一番種々な方法が覚えられる、例へば面だけの中にも目ならば目、鼻ならば鼻、頬骨なら頬骨と云ふ区別がある是等のものには凹凸が無論ある、これには堅い所と柔い所がある、たとへば頬ぺたは面のうちで柔い部分であるけれども其中には骨を包んで居る部分もある、それから眼球の周囲は骨で堅い、又鼻はどう云ふ高い鼻でも真中頃までしか骨が無い、だから其骨の部分をそうで無い所との区別をしなければならない、それでありますから人体程変化に富んだ物は無い、さうして又実際研究するに之程研究し易い物は無い、何故かと云ふと他の物とは違つて朝晩見る物であります、併し動物では例へば猿のやうな物にしてやると、之は何処の国でも居ると云ふ訳には往かない、朝晩猿を捉へて研究する訳には往かない、それで一番簡単な材料であつて一番込入つて、教へる側から言つても説明も為易い、現に其処に物があつて間違も正し易い、外の木や何かであつて見れば堅いとか何とか云ふやうな部分は備はつて居る、又木だと云つても必ず堅い所ばかりも無い、葉のやうに極く手際能くやらないと物に見えないやうな軽い所もある、けれども枝が三つに分れて居るやつを四つに書いても、亦一尺や二尺枝が下に付かうとも上に付かうとも、之は大した誤りでも何でもない、矢張り物に見えるけれども人間の形と来たらさう云ふ間違をすることは出来ない、一分一厘違つても形にならない、例へば俯向いて居る時には其耳の方が大変上に往かなければならない、又仰向いた時には耳は下へ往かなければならない、それは耳が上へ往つたり下へ往つたりするばかりでなく、それに連れて鼻目の形が違つて来る、それが違ふと物に見えない、それで能く後向きの富士見西行が書いてあるやつには、頭を坊さんで其頭の一部分に目と鼻を付けた画が能くあるが、仰向いて居る形がかけないからさう云ふ無理な物になる、それでは人間の形になつて居ない、唯習慣で物を解するまでのことで是は富士見西行だと云ふことを前以て聞かせられて知つて居ればこそ、筋が一本付けてあつてそれが頭と額の区域だ其上にチヨンチヨンと打つてあるのが目だ成る程之れに仰向いて居る所を後から見たのだと仮りに思ふけれども、決して万国に通用する描方ではない即ち人体の研究の必要だと言ふのはそこでは、さう云ふ訳だから初めから人体を手本にしてやつて往くのが物の形を画くことを覚えるに、何より便利である。
 右の訳故西洋画の稽古は人体を以て初学から一通り書けるまでやる、修業が出来上つた後は専門に分れて景色なり草木なり、動物を書く人にもなり又人間の中でも百姓ばかり書いたり、所謂上等社会と称する人ばかり研究して書いたり、或は古代のものを書いたり近世のものを書いたりするやうな者に為る、併し何れを選んで専門とするにしても、第一に形体と云ふものを充分に書現はす丈の技量が無ければならない、物体の形が円が角に為り又の堅いものと柔いものとの分ちが付かず人間だか鳥獣だか分らないやうな物を書くやうなことでは、幾ら運筆が達者でも仕方がない、日本人は他のものは兎も角も人物をかくことが出来ないのだから日本人にては一層人体の研究を奨励して貰ひたいと思ふのです、外国では今まで充分研究した人もありますし、人体と云ふ事は多少人の頭脳に這入つて居る、ですから今更別段に奨励せずとも差閊ない、併し是とても打捨て置けば元に戻るに違ひない、けれども外国では絶へずやつて居るから其気遣ひはない、日本では外国の奨励に数倍する力を以て奨励して貰はなければ、迚も外国と対抗して上に出ることは六ケ敷ひと思ひます、私は外国に対抗して上に出られないことはなからうと思ふのは、是こそ未来の話でやつて見なければ分らないけれども、先ず今までの日本の万般の進歩の具合と、それから技術上私が今まで学校で教へた其結果とに因て見ると日本人は一般に分りが能く余程進歩が速い、只遺憾なことには奨励の法が甚だ不完全だからいくら種がよくいゝ芽が出ても大木にはなれない、然うですから之に一層の奨励があつたならば必ず欧羅巴並になることは近いことでありませうし、それから並になつた後は今度は抜くことは難い事ではないだろうと思ひます、兎も角それには多数の名人が出来なければならない、今まで日本にて人体の研究はまるで欠けて居ることは御存じの通りでどんな画を見ても人体の完全に手来て居るのは無い、それで西洋人は日本の画を大変賞美するが、其様な不完全なものならば賞美することはなからうと考へる人があるかも知らないが、是は不完全な点を賞美するのではない、其外に宜い所があるのを賞美するので、不完全な点は誰れしも賞美する者は無い、若し此の賞美する点の沢山ある日本の技術の上に形までも備はつて来れば、賞美する点が尚ほ多くなつて往く訳であるが、今西洋人が日本画は宜いと言ふから是で沢山だと思つて居るのは、非常な誤りだらうと思ひます、私共が人体に就て出来るだけ骨を折つてやろうと云ふにも、今まで眠つて居る所をば醒まさうと思ふのですから、唯欧羅巴などで一個人で自分の好きなものを書いて呑気にやつて居るのとは違ふ、ですから一層骨を折つて人体といふ事に世間の人が気を附けるやうにしなければならないと思ひます、此の五六年以来の事ですけれども初めに私が欧羅巴から帰つて来た頃には、新聞や何かの評も人物の体格などには余り言ひ及ばさないやうであつた、先づ画の評があつても気韻が低いとか雅致が無いとか、極く漠然した評ばかりであつて、アノ人物は釣合の上から少し手が少いとか、何処の骨が少し足りないとか云ふやうな評は無かつたが近来の評には随分それも沢山あるやうです、と云ふのは既に形と云ふ事に大変世間が注意して来たのであるそれでありますから若し今までに立派に奨励の途が開けて居たならば、尚ほ一層の進歩を来して居るに違ない、然るに奨励の無いのみならず人体の研究に就ては今日まで非常な妨害を蒙つて居るに拘はらず、此位に進んで来たのはこれは全く世間がこれ程に進んで来たのである、詰り人の思想が段々緻密になつて来た為めで欧羅巴の学問が段々頭脳にしみ込で緻密に解剖的に物を考へ物を観るやうになつて来た、それですから人間を書いてもマア目口鼻だけ付て居れば人間だと思つたのは昔しのことゝなつて今ではその位のことでは承知が出来なくなつた、是からもう一層進めば画面に就ては色の調合がどう、図の組立がどう、又それに次では其の書きやうがどう、堅いとか柔いとか云ふことまでになつて往くだらうと思ひます、既にさう云ふことを批評家の中で言ふ人もあるやうです、遂には世間一般にさう云ふことを云ふやうになるに違ひない。
 現今の当局者たちは実際はどう云ふ考へを持つて居られるか知らないが、今日までに発表された御意見では文学者、美術家のみならず、普通一般の人民即ち役人以外の人間の思想は余程卑しいものゝやうに思つて居られるやうです併し是は当局の人が想像された程に低くない、と云ふのはもう今日では青年の者も大分外国の書物を読んで居るし又以前とは違つて外国の事などを知つて居る人が世間に充ちて来て当局者の方で気の付かない内に、下の者は割合に進化して居る、それで此様な物を見せたら吃驚しはしないかと思案して居る内に、下の者はいつの間にか吃驚しないやうになつて来て居るらしい、それで当局者は例の裸体画に就ても、成るべく人民の思想を乱さないやうにとの御心配ではあるけれども人民は家鴨の児で母親の雌鶏があぶないと思つて居る水の中に這入つていゝ気持に為つて居るやうなもので当局者の御心配は無邪気な人民に取つては却つて可笑しい其位にもう世間の方は進んで来て居る、それですから一層是から形体と云ふことに骨を折らないと、どうも今までのもので満足して居ることは出来なくなるだらうと思ひます、先づ今日のやうな具合で進んで往きますれば、美術は唯一般の程度と伴つてポツポツ後から附随いて往く位のことです尤も何れの時代でも其時代の思想の程度と伴はない美術は無いけれども、若し今美術に対して一層の奨励があつたならば、人民一般の思想の程度も美術に依て高まつて往くことが出来、日本の文明の程度の高まり方は益々速いと言はなければなりません。
問 それから日本画には今まで余り無い裸体画を、今の日本画で研究することが出来ませうか。
答 出来ないとは限りますまいけれども、日本画の研究の方法をもう少し大家の先生方にお考へを願つて、解剖学などを充分利用することゝして成るべく完全に形を描くことに注意して貰つたならば、裸体画でも何でも書けるやうになるでせう尤も物の形を写すに西洋風のまねで蔭日向を分けると一寸実物らしく見えるから写生となると、こう考へて日本画をかく人も有るやうですが日本画には蔭日向は入らぬことゝ思ひます、物の形を知るといふことゝ実物らしく活写しにやると云ふ事は別なことで前にもくどく云た通り形といふものが分らなければ画はかけないが活写しにやつたからと云て名画にはならない又裸体画は活写しのものゝやうに思ふ人が有るかも知れないがそれは間違で裸体画と云つても只の画と少しも変つたことはない只画題の都合で裸体をかくまでのことです、だから日本画でも今少し人体を研究したならば裸体画のかけない事は有りますまい、材料は今迄の筆や絵の具で充分ですから人体を大いに研究して形を知り線に重きを置きそうして此処の骨は実際もう少し出つ張らなければならないけれども、さうすると形が面白くないから取り除けるといふやうにしてやつたならば立派な裸体画が出来るのであります、それは裸体のみに限らず画の書き方が総てさうなくてはならぬ然るに形と云ふ事を知らずしてやつたのは略したのにならない、見残したのだ気が付かないのだ分らないのださう云ふ人の作は腕なら腕が書いてあつても茹鮹の腕みたいなもの腕だか何だかさつぱり訳の分らぬもので骨も何も無いそれを骨もあり筋肉もありして其中に画にするに不必要な所だけ取つて除けるやうでなければいけません。
問 どうも西洋画で描くと肖像画でもちやんと似顔に書けるやうですが、日本画では出来ないやうですな。
答 日本画の肖像画は私の見たのも大分ありますが幾らか似て居るだらうと云ふ感も起りますけれども、元来日本画は形体を研究させない流義でありますから、急に顔を写せとか身体を描けとか言はれた所で、研究しない仕事を為るのでありますから甘く出来る気遣がない前にお話したやうに物の四角だと云ふことを知つて居つても、それを写して四角に見えないと同じ筆でどう云ふやうに描けば四角に見えると云ふ事を研究せずに居るものですから、幾ら運筆の達人でも書ける訳は有りませんそれを平気な面でいゝ加減にかいてのけて居たのは世間の者も呑気で分らない時代だつたからそれで済だのですが今日では余りかゝないやうです是れも形の研究をした後なら甘く行くに違ない材料が悪いのぢやない研究が足らないのです。
問 蔭で書くと云ふことは日本画にはない、それが無いと旨く往かないだらうと思ひますが、さうでもありませんか。
答 其様な事は無いと思ひます、日本画でも西洋風にシヤンス(科学)を充分利用してやることが始まつたならば、蔭を付けずに主に線で物を現はして往つて一種の面白い日本画が出来はしまいかと思ひます西洋画の蔭や日向は詰り蔭をつけて物の凹凸を見せると云ふのであります、日本のはさうでない筋で物の形を現はして往く、それは何方でも差閊ない、それですから日本では筋の方を発達さして行くのは尤も宜い、私の考へでは何方かと言へば蔭と云ふやつは全体汚いやつですから、蔭でやるなら成るべく綺麗な陰を付けなければならない、蔭は只凹凸を拵へるだけの材料と見れば、成るべく綺麗なもので書かなければならない、若しこれと反対に線で往くとすれば蔭と云ふものは無論要らない、今は日本画をかく人達が解剖等を充分にやらないから人物画の面白いものは出来ないけれども、若し身体の研究を充分やつて蔭を一切使はず線でかく画を発達させる日には、日本の絵画は大層面白い立派なものになるだらうと思ひます、蔭は汚いものでありますから日本でかく西洋画には省けるだけは省くが宜しい、私は其積りでやつて居りますそうして若し必要上省くことの出来ない場合には成るべく綺麗な蔭の色を出す、黒くない宜い色にする積りです、欧羅巴風の順序で稽古を為た者には、蔭日向を強くして物体を浮出させることは訳はありませぬ、けれども之を省いて物は物のやうに見させることは大変難い、それで私は無論立派には往きませぬけれども出来るだけさう云ふ風にやつて居る積りであります、それで是から大家が出来て、さうして真実の霊腕を揮つてまるつきり蔭の無い、さうして形の立派な完全な物を書出せば、日本の絵画と云ふものは世界一のものになるだらうと思ひます。
問 それも出来ないことはありませぬかナ。 答 私は奨励次第で出来るだらうと思ひますが私共が形と云ふことに骨を折つて、不完全ながら成るべく今までの弊を矯めることだけやつて居るのでありますから、是から実際ゑらい人が出なければ立派な物は出来ない、私共は先づ踏台であります、此の踏台が無暗に野次馬に踏付けられるやら、蹴られるやらで困難して居る訳であります。
 (「新小説」7-1  明治35年1月)
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