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◎十九世紀仏国絵画の思潮

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十九世紀に於ける仏国の絵画の沿革に就いてお話を到さうと思ひます。
 仏蘭西で油画の盛になつて来た初めは一六〇〇年代のことであるが、其頃の人で名高いのはプーツサンと云ふ人である。此人は一五九四年に生れて一六六五年即ち我文禄三年から寛文五年まで生存して居つた人で、伊太利に住んで居つた。一六三九年に仏王に呼ばれて一旦帰国しましたが面白くなく、一六四二年に又伊国の方へ引込で仕舞つて、一生無事に暮らした人である。其同時代にクロード・ローランと云ふ人があつた、これは一六〇〇年(慶長五年)に生れて一六八二年(天和二年)に死んだが、此人は風景画を能くして、殆ど自然を写すと云ふまでに進んだ。此人が出て仏蘭西の画は始めて立派に発達したのである。
 然るに十八世紀となると余程画の風が変つて来て或方から云ふと画が悪くなつた。形もくづれ、題の撰び方其他総ての趣向が卑くなつて来た。併しながら又一方から云ふと仏蘭西の画としては此時代が一番見られるのであらうと思ふ。なぜならば仏蘭西人の性質を一番能く現はして居るからである。其時代に名高かつたのはウアツトウと云ふ人で、一六八四年から一七二一年まで即ち我貞享元年から享保六年まで居つた人である。それから又ブーシエと云ふ人がある。一七〇三年から一七七〇年まで、即ち元禄十六年から明和七年まで居つた人であるが、此二人が主もに其時代を支配して居つたと云ふても宜しい、是等の人が十八世紀の末頃まで勢力を維持して来たが、其頃自由と云ふ思想が熾になつて政治上の変革も色々ありました。其時代にダウヰツドと云ふ人が出た、此人は一七四八年(寛延元年)に生れて一八二五年(文政八年)に死んだのですが、此ダウヰツドが十九世紀の画の根原を作ツた人である。此人が如何にして一機軸を出したかと云ふと、始めは其時代に好まれたブーシエなどの画風を学んだが伊太利に旅をして古跡や古物を見て帰つて来てから、著しく画風が変つて、遂に一機軸を出したのである。又言葉を更へて云へば此の人は時勢を観る目が有たと云てもいゝ、即ち彼の古代の名高いポンペイ、エルキユラノムと云ふやうな、伊太利の市がカイルス、ウインケルマンなどゝ云ふ人に発見されて、古代の彫刻物や図画が世に現はれて来たものだから、これを見てどうしても画の方も今のやうでは可かぬ、古代の物のやうに上品にしなければならぬと云ふ考へを起した古代の物が上品だと云ふところから割り出してなんでもかでも古代のものを画かなければならぬとダウヰツドが独り極めに極めて仕舞つたのは少し偏頗過る、けれども兎に角しつかり考へが極つたから一つの機軸を出すやうになつたのであるクラシツクと名づくるものはダウヰツドが始めた一つの流派である。
 さて十八世紀の画家は一般に其時代の人間は綺麗な着物を着せて、庭先見た様な美しい所に並べ立て、それにあざやかな光線を附けて画いたものです。ウアツトウなどは其時代の確かりしたものであつた。ブーシエは些と卑くなつて居るが、併し中々優美なものです。ダウヰツドが起つてウアツトウやブーシエの画風即ち十八世紀の仏国の画風を全く一変さして仕舞た。
 ダウヰツドが伊太利から帰つて其派を開いたのは丁度ナポレオンの時代ですから、同じ十八世紀でもウアツトウの時代に比しては非常に社会の事が進んで居る。そこで此人が一七八五年に始めてサロンに出して見せた画は、古い物語に羅馬の国の敵にアルブと云ふ国があつて、此の二国が互に主権を争ふた時に両方から三人づゝの代表者を出して闘はしめて其勝を得た者の方へ負た方の国が隷属すると云ふ事に談判が極まつて即ち羅馬の方からオラスと云ふ三人の兄弟を出しアルブの方からはキユリヤスと云ふ之も三人の兄弟を出した、始めの程はキユリヤスの方が威勢がよくオラスは二人迄斃れたが一人残つたオラスが三人のキユリヤスを斬て仕舞ひ遂に羅馬国の勝となつたと云ふ事が有る。此話を原として三人のオラスが羅馬国の命を受て其国の為めに死を決して闘ふと云ふ事の誓をして居るところの様を画いたものであつた。ダウヰツドは常にさう云ふ古代の風俗を画かなければ画が下品になると云ふ考を持つて居つたから、弟子になつた者は皆其の傾になつた。其弟子に有名な者が多く出た中に、プリユドンと云ふ人がある、其人は一七五八年(宝暦八年)生れで一八二三年(文政六年)に死んで居る。此人のかきかたは殆ど師匠に似て居るが少し変つた所がある。師のダウヰツドと同じく昔の物を画たには違ないが堅苦しゐものよりは幾分か優美と云ふ方の意を持つて居つた。色や形に於てのみならず、画題の点に於てもさう云ふ風を加へて来たのです。
 又同じくダウヰツドの門弟の中にグローと云ふ人がある、此は一七七一年(明和八年)の生れで一八三五年(天保六年)に死んで居る。此人の画はプリユドンに比して一層師匠の画より遠ざかつて来た。ダウヰツドは余り之を喜ばなかつたらしい。さうして此人に至つては独り画の方が変たのみならず、画題の撰方が丸で異つた。其主もな画はジヤツフアと云ふ所の疫病に罹つた者の様子を画いた図です。それは一七九九年にナポレオンがジヤツフアと云ふシリーの港を占領した時に、其所で兵士が疫病に罹つて、其患者を病院に入れた、其処へナポレオンがベルチエー、ペツシユールと云ふ二人の将軍を連れて病兵の見舞に行つた事がある、其場の様子を画いたものです。それからもう一つ名高ひのは一八〇七年の二月にナポレオンが普国のエイロウと云ふ所で戦つて普露の連合軍に勝を得たが、其時の姿を画いたもので、ナポレオンが馬に乗つて通ると、其傍に死人や怪我人が折重なつて居る所の画である。此人が斯う云ふ画風を始めたのは師匠のダウヰツドは前にも云た通り甚だ喜ばなかつたらしい、なぜならば其時代までは皆師匠の風を真似て画いたもので、異つたかき方をするのは余程思ひ切つた仕方である。然るにグローは遠慮なく勝手なものをかいたから、師匠のダウヰツドは面白く思はなかつたのである。而してダウヰツドなどに言はせると、さう云ふ新らしい出来事の画は今日で云ふ新聞の挿画を見た様なもので之を歴史画と云ふことは出来ず、甚だ卑しいものである。そこでダウヰツドは一八〇二年にグローの所に手紙をやつて「貴公は大分画も上手で今では第一流の画流だけれども未だ一枚も歴史画を画いたことがないではないか」と云ふてやると、グローと云ふ人は案外正直な人であつたと見へて、それを気に病んだものか、其れからと云ふものは余り気侭な画をかゝないやうになつた、随つて画も拙くなり、其後は面白い画も出来ず、とうとう一八三五年に水に入つて死んでしまつたと云ふことである。グローの画いたのは立派な歴史画だけれどダウヰツドは古の希臘や羅馬の出来ごとでなければ歴史画の様に思はなかつたのです。
 それから同じくダウヰツド派で、アングルと云ふ人がある。一七八一年(天明元年)の生れで一八六七年(慶応三年)に死んで居る、随分あとまで生きた人で其一生の前半期はダウヰツドと同時代であります。此の人のかいた画は一体に色は不愉快であるが形をかくと云ふ点に至ては実に名人であつた。次に又ジエリコーと云ふ人がある。これは一七九一年(寛政三年)に生れて、一八二四年(文政七年)に死んだ。此人もダウヰツド派の人で此人はグローなどよりも更に師匠の遣り方と異つたことを始めた。此人が最初にサロンに出して人に評判されたのはオフヰシユ・ド・シヤツスールと云ふ画で軍服を着けた勇ましい人物が馬に跨つてゐる図であるが之れは其人の友人の肖像であつたと云ふことだ。こう云ふ様に益々新らしい其時代の物を画くやうになつて来た。それから一八一九年にラドウ・ド・ラ・メヂユーズと云ふ画をかいた。此のラドウ・ド・ラ・メヂユーズは随分に大きな画である、今も巴里のルーブルと云ふ博物館にあるが、此画の如きに至つては丸でダウヰツドの影はない。此の画にかいてある事柄はメヂユーズと云ふ船の難船の図で即ち一八一六年七月二日の事ですが亜弗利加の西の海岸を距る四十里ばかりの処でメヂユーズがアルギヤンと名づくる暗沙に乗揚げたのです。乗組の百四十九人が筏のやうなものを組み立てゝ之れに乗つて十二日間大洋を漂ひ漸く通りかゝつたアルギユスと云ふ船に助けられた、其漂つて居る間に或は浪に捲き込まれ或は疲れて斃れ半死半生で生残つて居た者は僅に十九人であつたと云ふ話である。此れが其時代には非常な惨事として言ひふらされたものと見へます。此の事があつて後二年を経てジエリコーの大作が出来上つた。さて此画は十九世紀の絵画史の上に非常な価値のある画であるなぜならばグローなどがやつた改革は只其時代の戦事を画くに過ぎなかつたが、ジエリコーのやつたのは其時代にあつた一つの出来事を画いて画の力に依つて一種の感じを人に与へると云ふ趣向であつて全く新機軸に属するものである、此種の画を後にロマンチツクと称へた、ダウヰツドから出て少しの間に此ロマンチツクまで変じて来ました。
 ジエリコーより更に一層進んでロマンチツクの性質を具へて来たのはドラクロワと云ふ人の力である。此人は一七九九年(寛政十一年)に生れ一八六三年(文久三年)に死んだ。此ドラクロワをロマンチツクの元祖だと云つても宜い、言はばジエリコーが手を着け始めてドラクロワが成就さしたと云ふのです。此ドラクロワが世間に知られ始めの作はダント・ヱ・ウヰンジル、と云ふ題の画である。題の撰方もダウヰツドのやうに古代のものでなく中世のものを撰み来つて自分の考へを画き現はしたものである。
 ダント・ヱ・ウヰンジルの図はヂウヰヌ・コメヂと云ふ詩書から出て居るが、其詩書を訳して画にしたと云ふやうな卑いものでなく、其詩書と並び立つ位の力のあるものである。実に何とも云へない恐ろしい所を案内して行く人と導かるゝ者との姿や又其顔色などが其場所の光景と余程能く釣合つて居る。之をダウヰツドなどの作に比べると大変更つて来て真のロマンチツクと云ふものに為た。其後一八二四年に又マツサクル・ド・キオと云ふ画を描いた。其はキオと云ふ所で多数の人を殺したと云ふ近代の出来事がある、それを画いたものである。是等は羅馬の古代の画でなければ可かぬとか、希臘のミトロジーでなければ可かぬとか言つて居つた人の目から見ると非常に卑しいものになつたのであるが、只或る事柄を借りて其れを画にして己れの感情を現はすと云ふ主義になつて来たのである。
 其時代に又一つ風が変つて来た。凡そ画と云ふものは歴史と相離るべからざる関係を有するもので時代を離れて画のみ独り成立つて行く謂れがない故に画家は其時代に出来た事に動かされて、自分自分の感を画き、又其時代の人の嗜好に依つて一種の画の出来るものであるが、其頃仏蘭西がアルジエリーと云ふ所を取つたが為め、アルジエリーの風俗などをかくことが流行つて来て、遂にはアルジエリーの画ばかりで名高くなつた者もある。其画がどう云ふ性質を帯びて居るかと云ふと、明るい光線を使つて奇麗な色を出すものである。アルジエリーと云ふ国は熱い国で光線が強いから自然画もさうなる、其勢力が這入つて仏蘭西一般の画に非常な影響を及ぼしました。
 アルジエリーの風俗画で名高い人にドカンと云ふのがある。此人は一八〇三年(享和三年)に生れ一八六〇年(万延元年)に死んだ。此の人が此の種類の画の率先者でもあり、又なかなか上手であつた。ドラクロワとは同時代の人でドラクロワも一寸アルジエリーの画を画いたが通り抜けをした位のもので、ドカンに至つて始めて立派なものになつたのです。ドラクロワのアルジエリーの画にはアルジエリーの女子どもの生活の有様の画が有る。それは着色が実に奇麗だ人物の膚の色などは殆ど透明して居る位、それに強い光線が使つてある。ドカンは前に述べた如くアルジエリーの画を以て有名でありましたが、今日に至ても猶ほ其派の画を画いて居る者があります。
 ドカンに次で名人が沢山出た近頃迄居たギイヨーメなども其内の一人である。ギイヨーメは一八四〇年(天保十一年)の生れで一八八七年(明治二十年)に死にました。先づドカンが起て画風に一の変化を生じアルジエリーの風俗などを採つて画くことになつた、此変化はアルジエリーの風俗を画くと云ふ計でなく全体画を拵へることに就ての考への付け所が一変した、それは自然の物にたよつて自然から得た感情をかき現すので、此派の人を名けてナチユラリストと云ふ。此流義が此時代に至つて甚だ盛になつた、又画の組み立ての上からお話すればダウヰツドが拵へたクラシツク派の画の組立は非常にくねつた者でたとへて云へば立つて居る人物があれば其脇に坐つて居る者がなくてはいかぬとか、直線があればそれを切る曲線がなければならぬとか云ふやうに至て込み入つた趣向によつて画が成り立つて居るがドラクロワのロマンチツク派が起つて其れを打ち破つたのである。併し其打ち破り方は充分でなかつたが、ドカンなどのナチユラリストの側に至ると、殆ど破れて何でも構はないと云ふやうになつた。或は森の中の極く寂しい光景を画くとか、又浪の立つて来る恐しい様を写すと云ふやうに、其画を見て一つの感じを起させるやうな趣向で曲線やそんな事には構はない。ナチユラリストと列べて言ふことの出来るレアリストと云ふ派が一つある、これは汚たならしい物でも苦しい様なものでも不愉快なものでも其有の侭を画くと云ふ派で此派にクールベと云ふ人がある。一八一九年(文政二年)に生れて一八七七年(明治十年)に瑞西国で死んだ此人の画で尤も有名なのは工夫の図だ、道路の普請をする為に石を小さく叩き割つて居る人足で夏の炎天などにも街道のみちばたに積んである石をこつこつ叩いて小さな欠にして居る此の工夫が労働者中の尤もあはれなもので、さう云ふ難儀な仕事をする土方の姿を画いたものです。人物の形はなかなかしつかり画いてあるが、今日から考へて見れば彩色には余り重きを置かなかつたやうである、斯くの如く何でも有の侭にかき現はすと云ふのがレアリストである。
 ドカン以後に至つてナチユラリスト派の盛に為つて来たのは非常なものですミレ、トロワイヨン、コロ、ルウソーと其他にも沢山あるが、先づ此等の人々がナチユラリストの頭株である就中ミレは尤も有名で一八一四年(文化十一年)に生れ一八七五年(明治八年)に死んだ。農家に生れて農家の風俗を画くに巧であつた、併し単に風俗を表面から画いたのでなく百姓の姿や動作を借りて一種の感情を現はすやうにかいた。トロワイヨンは一八一〇年(文化七年)に生れ一八六五年(慶応元年)に死んだ。此人は家畜などをよく画いたが全体これまでと云ふものは馬の外の動物は其形が甚だクラシツク的でない所から卑しいものになつて居たが此時代に至ると動物の生活などを面白く感じて一好で画くやうになつた。それからコロとルウソーの二人は風景画の名人で有つた。コロは一七九六年(寛政八年)から一八七五年(明治八年)迄生て居た人で朝霞や夕霧のかゝつたやうな景色を描いて居る、先づ詩や歌の意味を画でかき現はしたと云ふやうな訳である。ルウソーは一八一二年(文化九年)より一八六七年(慶応三年)までの人でミレと共にフオンテヌブロウと云ふ森の側のバルビゾンと云ふ村に住んで居つたから、其近辺の景色を多く画いて居る。これも景色とは云ふもののつまり景色を借り来つて、自分の心持を画き出して居る。此等の人は既に歿して仕舞つたが、今日まで其系統は続いて居るのであります。
 然るに今日に至つては、又此人達と少し違つた派が出来て居る。之をアンプレツシヨニストと名けますが、其主意とする所は矢張りナチユラリストに似て居るが其かきかたに至ては丸で違つて居る。或はぽつぽつの点計りで画いたり或は赤や青やの色を他の色と混ぜないでべたべた塗つたりする此れは近頃盛にやつて居りますが、将来はどうなるやら分りません、兎に角其派で立派な画家が段々出て来ました。此派を代表する人は先づ、マネで一八三三年(天保四年)の生れでつい此頃まで生きて居た即一八八三年(明治十六年)に死にました。此の流派は今日でも中々盛で有名な有力な代表者がいくらも有る。此のアンプレツシヨニストの特色と云ふ可き点は配色の鮮明な事である、空気とか光線とか云ふ事を重な事として居る。
 段々お話をすれば右様な訳で、クラシツクからロマンチツク、ロマンチツクからナチユラリストにレアリスト、それからアンプレツシヨニストと斯うなつて来ましたが、之れは一つのものが消えて一つのものが現はれたと云ふ次第ではない。其時代々々新たに出た画風に種々な名を附けたので孰れも引続いてやつて居る。今日でもダウヰツドやアングルなどの流義もないとは言はれぬ、ましてドラクロワのロマンチツクは今でも大分画きます、ドラクロアがロマンチツクをあの位の高い位置までに進めるには非常な苦心を致したものでアングルが自己の勢力を利用して大にドラクロワをいぢめたさうです。ドラクロワは好んで争ひは致しませんでしたが、アングルの方では進んで争つたやうである。アングルと云ふ人の説はデツサンより外には画はない、油画に就てはデツサンが殆ど四分の三を占めて居ると云ふ位に言つた、さうすれば色とか考へとか云ふものは一小部分にしかならない、然るにドラクロワの方は自分の頭に感じた事を画にかき現はして人に感動を与へると云ふ方である、故にドラクロワとアングルが敵に為つたのです。今デツサンと云ふことを申しましたが其デツサンと云ふのは線で物の形を現はすと云ふやうな意味の言葉ですが、強ち線ばかりを云ふのでもない、物の形の外側や内側を現はすと云ふことになる。唯だ色を現はすのでなく、形を現はすのです。外のデツサン、内のデツサンなどゝ申すこともあります、即ち顔の中の鼻や目や口の高低大小もデツサンと云ひ、日本で云ふ輪廓などもデツサンと云ひます。此デツサンと云ふことを、アングルはいやにやかましく言ひ、ドラクロワはさまでむづかしく言はなかつた。ドラクロワが死ぬ前に仏蘭西のアカデミー即ち学士会と云ふやうな所から見舞が来た、然るに其学士会にはアングル流の堅苦しい人が多かつた、今でも其傾きはあつて言はゞ政府の御用画師と云ふやうな者はクラシツク派の人に限る様に為て居る。其アカデミーから見舞が来たのをドラクロワは厭やな心持がしたと見えて其使者に面会する事を謝絶して「今まで始終自分の画に就いて邪魔をして居りながら今更見舞の使などとは解らぬ仕方だ」と言つたと云ふ位であるから、随分アングルに困しめられたものと見へる。アングルの系統と云ふものはロマンチツクが出来て消えたでもなく、ナチユラリストが出来てから無く為つたでもない、今日でもまだ残つて居る。既に死んだ人ではあるが有名なる彼のボードリー、カバネル等は皆アングル派である。ボードリーは一八二八年(文政十一年)の生れで一八八六年(明治十九年)に死んだが、カバ子ルは一八二三年(文政六年)から一八八九年(明治二十二年)まで居た。ボードリーは巴里のオペラと云ふ名高い芝居の飾を総て画いた人です。カバネルは巴里の美術学校の教授をして居つた人で私の教師のコラン氏の師匠です、そこで十八世紀の末から十九世紀の中過までに派と云ふ可きものが色々出来たのは何故であるかと云ふに、時勢の然らしむるのと云ふ事は勿論ですが其頃は幅を利かす先生が上に一人あると後進の者はどうしても其下に附いて行かなければ芽を出すことが出来ぬやうな社会の組織になつて居た事などは一つの原因である。然るにナチユラリストが盛になつてから以後には、さう云ふことが少くなつて、殆ど今では各各勝手の方向を取り、かきかたでも組立でも勝手にやる様に為つた。一人名高い者が出来ると又其れに対する名高い者が他にも出来て来て人の真似をせずとも自立して行けるやうになつたからもう人の真似をすると云ふ必要がない、随て今日の画家を甲は何派乙は何流と明に別つのは甚だ難いことである之れを強て派分にすればいくらか無理が出来ます。
 一機軸を出して名高くなつた人達の修業の方法はと云ふと百年前も今日も殆ど皆同一の仕方である、唯だ昔は参考品などが少かつたが、今日では希臘の古代の物なども沢山世に出て居るから、今日の研究の材料は豊富である、故にボードリー、カバ子ルなどの画いたものは、つまりダウヰツドの系統を引いては居るやうなものゝ、ダウヰツドあたりの材料があつたから、画題撰択の上から云ても自ら区域が広くなつて居る。
 凡そ画家が一家を成すと云ふのは其時勢を能く見抜いて前の人と同じ事をしないと云ふのにある様です、しかし稽古をする方法は古今皆一轍である。此の修業と云ふ点に就いてはドラクロワも亦アングルも説を異にすることはない、而して研究を積み技倆の備つた上で、今度は自分の頭で斯う云ふものを画かうと云ふ考へを極める。此一点が各々異なるので始めて色々な考へと云ふものが出来るのである故に画家の取るべき途は先づ此の時勢を察すると云ふ事である。其時勢と云ふものは絶へづ変つて行くものだから人の真似をして居るものは此時勢後れのものに違いない。ダウヰツドはブーシエの門に出てクラシツク派をつくりドラクロワはアングルにさからつてロマンチツク派を成就させたドカンのナチユラリストもクールベのレアリストもモネのアンプレシヨニストも亦同じ事である。総て新事業には必ず反対者のあるもので其反対者の勢力の多少によつて大に苦しまなければならぬ故に大なる用心が必要である。江湖画家諸君技術を充分研究された後は自由な考へを以て各々気侭な画を画出されん事を企望致します。
   (「美術評論」24  明治33年3月3日)
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