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第39回オープンレクチャー
日本における外来美術の受容
 

2005年11月04日(金)・ 11月05日(土)
いずれも午後1時30分~午後4時30分
東京文化財研究所・地下セミナー室

東京文化財研究所美術部では、毎年秋に研究成果を一般に公開するために講座を開いています。
今年は下記テーマのもと、 2 日連続で 4 人の講師による講演会を行いました。(チラシ:PDF/1.91MB)

2005年11月4日(金)
午後1時30分~午後4時30分 於 東京文化財研究所・地下セミナー室
中世における中国道教神の受容をめぐって
津田 徹英(東京文化財研究所美術部主任研究官)
北天に輝く北極星を尊格化したのが妙見菩薩である。その信仰は奈良時代に遡り、以来、平安末期までに様々な像容が出現するに至っている。しかしながら鎌倉時代以降に信仰されたそれは、それまでの妙見菩薩の像容とは全く異なっており、道服もしくは甲冑を纏い、髪を総髪とするが、同時代の密教図像集には全く言及をみない。ただし、その姿を手がかりに広く中国にまで類似の像容を求めてみるとき、道教の真武神が極めて近く、どうやら道教の真武神にもとづいて新たな像容の妙見菩薩が日本において出現をみたようである。本講演は、道教の真武神がいつごろ誰の主導のもと妙見菩薩として受容され定着に至ったかを探り、その過程において生じた様々な問題を浮かびあがらせてみた。


韓国と日本の女神像の初期図像
朴 亨國(武蔵野美術大学助教授)
韓国慶尚北道慶州市に位置する南山は、新羅最大の仏教霊山であり、40余の谷に約100以上の寺院跡があり、文化財級の石仏が60躯以上、石塔が40基以上散在している。その中で、最も古い仏像として知られているのが、仏谷にある龕室坐像である。韓国彫刻史関係の書物にもよく登場するが、いずれも「特殊な形を有する」、「慈悲深い」、「両手を隠して禅定に入っている」、あるいは「女性らしい」という表現を用いながら、「仏坐像」としている。本講演では、仏谷像が現在言われているような仏坐像ではなく、実は女神像であること、また仏谷像と同一図像を有する女神像が京都・松尾大社の市杵島姫命の像とされる木造女神坐像であること、さらに仏谷像のような新羅の女神像が日本の女神像成立に関連している可能性が高いことを指摘した。

 
2005年11月5日(土)
午後1時30分~午後4時30分 於 東京文化財研究所・地下セミナー室
川端玉章について -円山派の近代-
塩谷 純 (東京文化財研究所美術部主任研究官)
川端玉章(1842~1913)は京都の円山応挙の流れを汲みながら、明治期の東京を活躍の場とした日本画家である。東京美術学校教授として、橋本雅邦と並び当時の日本画壇を代表する人物であったが、これまでまとまった研究はなされてこなかった。雅邦対玉章という構図が日本美術院および无声会へと引き継がれることを考えるならば、その存在は看過し得ず、また明治初期には洋画家の高橋由一に師事するという、日本画と洋画のはざまを往来したその軌跡についても興味はつきない。応挙以来の“写生派”を任じながら、川端玉章という画家が近代という時代とどのように渡りあったのか、を考えてみた。


藤島武二の<東洋>
児島 薫 (実践女子大学助教授)
藤島武二(1967-1943)は、1896年に東京美術学校に西洋画科が設置されたときに助教授に迎えられ、1905年から10年にかけてフランス、イタリアに留学した。帰国後は教授に任じられ、文部官僚としての生涯を送った。当時の国家体制のなかで彼の人生をとらえるならば、その後半生は、高等官としての公的な立場を抜きに考えることはできない。留学後、日本を代表する画家の一人となった藤島は、日本が植民地を拡大する時代のなかで、自身の西欧経験をもとにしてアジアをどうとらえるか、という問題にとりくんだ。藤島が日本のモダニティとアジアを対比させ「東洋精神」という主題を見いだすことになった過程を追った。


※この美術部オープンレクチャーは上野の山文化ゾーンフェスティバルの一環として開催しました。

今回は、2日間で、のべ241人の参加があり、参加者にアンケートを実施したところ、164人から回答を得た(回収率68%)。結果は、「たいへん満足した」86人(52.4%)、「おおむね満足した」76人(46.3%)、「不満が残った」1人(0.6%)、無回答1人(0.6%)を数え、回答者の98.7%が満足感を得た。
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