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第32回美術部・情報資料部公開学術講座

1998年10月21日(水)
会場 東京都美術館講堂
入場者数 127名

中国文人文化への接近 -入元僧以享得謙と禅林の美術-
井手 誠之輔 (情報資料部主任研究官)
画家でも彫刻家でもかまいません、そのように呼ばれる日本人が外国に長期滞在し、現地一流の作家のもとで修行したり、有力なパトロンのもとで美術を体験し、それを移入することは、近代以前では皆無に近いものがあります。ギリシア・ローマ以来の伝統を共有する西欧における美術交流の構図と、中国を中心とする東アジア地世界における美術交流のそれとが異なった人や将来された「もの」の役割に大きく起因するからです。
南北朝時代は、多くの禅僧が鯨波を越えて中国へ渡り、長期にわたって禅林の五山や仏教の聖地をめぐって求法したほか、有力な中国僧の来朝が相次ぎ、とりわけ日中間の文化交流が盛んな時代でもありました。そのような有名無名の文化交流の主体者の中に、入元が30年に及んだ以享得謙がいます。
以享得謙は、詩僧として名高い見心来復[けんしんらいふく]のもとで修行し、1365年に帰朝してから鎌倉の禅林で活躍し、度重なる詩会を主催して中国の禅林をめぐる文人文化の移入を積極的にすすめています。当時、もっと詩藻にあふれた五山文学僧に教えられ、また日本における詩画軸成立の実質的な創始者とみなされる人です。当時の中国では、宮廷周辺や在野の文人サークルを舞台に元末四大家に代表される文人画が隆盛し、以享が身を置いた禅林も、そのような文人サークルと接触していました。中国の禅林をめぐる文人文化に、以享はどこまで接触しえたのでしょうか。この発表では、以享得謙の足跡をたどりながら、彼が中国で体験した文人文化とその移入に果たした役割を、以享の将来した書画をとおして考えました。


大正末・昭和初期洋画の一傾向 -朝鮮美術展・台湾美術展との関連から-
山梨 絵美子 (美術部主任研究官)
大正期後半から昭和初期にかけて描かれた洋画のモティーフに、朝鮮、台湾、中国、南洋といったアジアの国々の風景、風俗が多く登場します。こうした傾向は、明治維新から西欧に注目してきた文化の流れを揺り戻し、日清・日露戦争での勝利や国力の隆盛による自国に対する自信の回復、それにともなう伝統の見直し、といった観点から従来は語られてきました。
しかし、この時期にはいわゆる「外地」と呼ばれた地域で、日本政府の意向を強く反映した展覧会が、日本の官展にならうかたちで開催されており、その審査には「内地」から主要な画家たちが派遣されています。大正11年(1922)から昭和18年(1943)まで朝鮮総督府主催で開催された朝鮮美術展、台湾総督府の外郭団体であった台湾教育会の主催により昭和2年(1927)から同13年まで開かれた台湾美術展がその例です。これらの展覧会に出品された作品には「内地」の官展の様式への強い意識が認められ、こうした状況が「内地」の画家たちの作品にもなんらかの影響を及ぼしていたと考えられます。
「内地」の画家たちは「外地」をどのようなイメージとして描いたのでしょうか。「外地」の洋画との関係は「内地」の洋画にどのような変化をもたらしたのでしょうか。本講座では朝鮮美術展、台湾美術展とそれにかかわった日本の洋画家に注目して、大正末・昭和初期の洋画の一傾向について考察しました。

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