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2005年度の研究会

平成17年度(2005)
4月27日

中野照男(美術部)
「最近の西域壁画の調査から―顔料分析と蛍光撮影を中心に―」

5月25日

塩谷純(美術部)
「在外研究報告―菊池容斎《観音経絵巻》と狩野勝川院雅信《龍田図屏風》について」

6月29日

田中淳(美術部)
「後期印象派・考―人見東明のネットワークと受容されたイメージ」

発表者は、これまで「後期印象派」( Post Impressionists )絵画が、明治末年の日本にどのように受容されたのかを、美術史研究のひとつのテーマとしてきた。その基本的なとらえ方とは、影響、受容という名のもとに、単に中心(ヨーロッパ)から周辺(日本)へ、水面の波紋が広がるようでもなく、また上から下へ流れるようにとらえることはしたくないとおもっている。むしろ、受け取る側の方にこそ事情があって、そこには多様性や独自性があるのだというふうにとらえなおしてみたいと考えている。当時、都市の青年層を中心に、自我、個性、自己といった言葉に象徴される主観的な表現こそが、芸術において価値あるものとされる時代思潮を背景に、「後期印象派」絵画は、まさに彼等の個性をもりこむにふさわしい新しい視覚表現としてうけとめられていた。そのひろがりをうながしたのが、ひとつには文学雑誌「白樺」(明治43年4月創刊)などの主観主義的な文学と複製図版による紹介であり、いまひとつは、たとえ表現は稚拙であったとしても、当時の画学生たちの作品と、彼らのネットワークから生まれた果敢な試みをあげることができる。そして、そのひろがりの集約が、無名の青年画家たちによって結成された「フュウザン会」だといっていいだろう。そしてこの会のことを調べていくと、熱心に支援したひとりのジャーナリストにいきあたる。その人物とは、詩人であり、当時読売新聞記者であった人見東明(円吉)である。教育界に転ずる以前のこの若き詩人が、新しい美術の誕生という場面において、どのような役割と位置にあったのか、さらに何を考え、感じていたのかを発表したい。ついで、フュウザン会に参集した画家たちの作品を通して、「後期印象派」( Post Impressionists )絵画が、どのように受容されたかをみていくことにしたい。
7月27日

後小路雅弘(九州大学)
「帝国のパブリックアート―青山熊治「九州大学工学部壁画」」

8月10日

皿井舞(協力調整官-情報調整室)
「彫刻史における資料学の構築に向けて」

9月7日

小林未央子(美術部)
「物質への関心―1910年代半ばから1920年代にかけての日本油彩画における」

9月21日

鈴木廣之(美術部)
「ウー・ホン『ダブル・スクリーン』日本語版あとがきの意義」

9月28日

皿井舞(協力調整官-情報調整室)
「仏像の荘厳―白毫相―を中心に」

10月28日
ミニ・シンポジウム「東アジア近代絵画における東洋と西洋」 司会:鈴木廣之

山梨絵美子(協力調整官-情報調整室)
「受容の往還―1910~20年代、日本絵画界における東洋的傾向について」

金英那(ソウル国立大学校)
「韓国美術における近代―羨望と克服の対象としての西洋」

顔娟英(中央研究院歴史語言研究所・国立台湾大学芸術研究所)
「モダニティーと伝統―嘉義出身の三人の美術家の物語」

11月30日

鈴木廣之(美術部)
「フェノロサ書評―ルイ・ゴンス『日本美術』一八八三」

12月24日

蔵屋美香(東京国立近代美術館)
「裸体の居場所―1920~40年代の裸体表現」

1月18日

綿田稔(美術部)
「雪舟筆「破墨山水図」はどう読めるか」

相澤正彦(成城大学)
「雪舟筆「破墨山水図」と宗淵」

2月15日

佐藤志及(横山大観記念館)
「ベンガル派における日本絵画の受容について ― 大観・春草との交流とウォッシュ・テクニックの試み」

ベンガル人画家オボニンドロナト・タゴールは、インド絵画の近代化に大きく貢献した画家として知られている。大観・春草の渡印( 1903 年)は、オボニンドロナトが国民絵画の創造を試み始めた時期にあたり、新しい表現方法を求めていた彼は、大観らとの交流を通して日本絵画の表現を取り入れていった。これ以降、日本絵画への関心は、オボニンドロナトに学んだベンガルの画家たち(オボニンドロナトを含めベンガル派と呼ばれる)にも受け継がれていった。
ベンガル派による日本絵画の受容については、おもに、ウォッシュ(彩色した後に画紙を水に浸す)と呼ばれる技法の考案、水墨を主体とした表現、この二点を挙げることができる。このうち後者については、大観らの後に渡印した勝田蕉琴や荒井寛方からの影響も大きく、彼らとの交流をも視野に入れて検討すべきである。一方、ウォッシュについては、オボニンドロナト自身が、大観の制作現場に立ち会った際に思いついた技法であると記しており、大観らの表現からの影響と捉えることができる。今回は、近代における日印美術交流の発端である大観・春草とベンガル派の交流に焦点をあて、この交流がもたらした成果として、ウォッシュの技法に着目する。ベンガル派の画家たちがこの技法を用いてどのような表現を展開していったのかを確認し、ベンガル派と大観・春草の美術交流の意味について考える。

トポティ・グーハ タクルタ(カルカッタ社会科学研究センター
「美術ナショナリズムの対話―20世紀初頭ベンガルの近代美術における日本との結びつき(Dialogues in Artisitic Nationalisms: The Engagement with Japan in the Modern Art of Early 20th Century Bengal)(英語発表、逐次通訳付)」

本発表はベンガルの近代美術という文脈において、日本の美術および美術家との緊密な結びつきを探ろうとするものである。それは一連の出会いを道標としているといえよう。すなわち 1902 年のカルカッタにおける岡倉天心の存在および汎アジア的な美学とイデオロギーの勃興、また 1900 年代から 20 年代にかけて、それに続く横山大観、菱田春草、勝田蕉琴、荒井寛方といった日本人画家のカルカッタおよびシャンティニケトンへの訪問、 1916 年のロビンドロナト・タゴールとノンドラル・ボシュの日本旅行、そして 1936 年のベノデベハリ・ムケルジの日本訪問がそれにあたる。この結びつきを位置づけるとすれば、それは 20 世紀初頭の日本およびインドでの美術におけるナショナリズムとモダニティの間の並行関係、そして西と東、伝統と革新の分離が美術制度や実践といった恵まれた歴史的状況の中で行われた経緯についての、より大きな関心の枠内においてであろう。こうしたより大きな枠組みのなかで、本発表はオボニンドロナト・タゴール、ノンドラル・ボシュ、ベノデベハリ・ムケルジ、ジャミニ・ロイという四人の近代ベンガル画家の仕事にみる、日本とインドの絵画伝統への新たな試みに焦点を絞りたい。
3月29日

勝木言一郎(美術部)
「安西楡林窟における金剛童子の図像について」