ミニシンポジウム

日本の美術史にとって、中国や朝鮮・西洋などの美術の受容が極めて重要であることは言うまでもありません。この問題については、様々な時代やジャンルについて語られていますが、受容や影響の語のもとに一面化される傾向があり、また、無前提に設定された語りの枠組みが視野を狭め、問題の広がりとその解明を阻害していることもあるようです。  当研究所では、美術に見られる異文化受容にかかわる諸現象と、それについての語りの枠組みを点検・整理しながら、時代やジャンルにおける差異と共通性を明らかにし、全体の見取り図を描くことを目指しています。

具体的には、
1 )時代別の受容の実態とそれについての言説の問題点を横軸に、2)時代を通じて現れる事象、例えば異文化を伝えたメディアや異文化接触の場、異文化イメージとメタ受容などの問題を縦軸として、共時的分析と通時的分析を綴り合わせ、さらに、3)異文化受容の特異点ともいえる事象を加えて研究を進めています。
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2001年度 第一回 ミニシンポジウム 「鎌倉・南北朝時代における外来美術の受容―「宋風」の問題を中心に―」(2001年7月25日 於:東京文化財研究所地下1階セミナー室)

美術部では中期研究計画「日本における外来美術の受容についての研究」の一環として本年度第1回目のミニ・シンポジウム「鎌倉・南北朝時代における外来美術の受容-宋風の問題を中心に-」を開催しました〔7月25日(水)於当研究所セミナー室〕。一般に「宋風」とは鎌倉時代の日本美術にあらわれた中国・宋代の影響をうけた表現を意味しますが、各研究者で微妙に意味・内容が異なっているようです。今回のシンポジウムはその点に着目して開催したものです。参加者は全国各地から119人に及び、このテーマについての関心の高さが窺われました。

概要
日本の美術史にとって、中国や西洋などの美術の受容が極めて重要であることは言うまでもありません。この問題については、様々な時代やジャンルについて語られていますが、受容や影響の語のもとに一面化されるきらいがあり、また無前提に設定された語りの枠組みが視野を狭め、問題の広がりとその解明を阻害していることもあるようです。
この研究では、美術に見られる異文化受容にかかわる諸現象と、それについての語りの枠組みを点検・整理しながら、時代やジャンルにおける差異と共通性を明らかにし、全体の見取り図を描くことを考えています。具体的には、1)時代別の受容の実態とそれについての言説の問題点を横軸に、2)時代を通じて現れる事象、例えば異文化を伝えたメディアや異文化接触の場、異文化イメージとメタ受容などの問題を縦軸として、共時的分析と通時的分析を綴り合わせ、3)さらに異文化受容の特異点ともいえる事象を加えて研究を進めています。
今回のミニシンポジウムでは、鎌倉時代から南北朝時代を取り上げました。この時代については、仏画・仏像・水墨画・寺院建築などの研究者が、それぞれに「中国の影響」を語っていますが、そのイメージが共有されているとは言えそうにありません。例えば、常に使われる「宋風」という用語にしても、仏教絵画史研究者と彫刻史研究者が、この語を持ち出すとき、それぞれに喚起されるイメージには微妙なズレがあります。そもそも「宋風」というとき、そこに想定される規範となり得たものの実体は何だったのでしょうか。今回は、この曖昧な受容概念を検証しながら、主として鎌倉・南北朝時代における中国美術の受容について皆様とともに考えてみました。

発表 13:15~15:15
発表1
島尾新
(東京文化財研究所)
「初期水墨画と宋風」
初期水墨画についてこれを語るとき、宋代絵画の影響は当然であることから「宋風」の語は使わないものの、問題の外にいる訳ではないと認める。初期水墨画には仏画の要素が多分に含まれ、当然、それらも視野にいれた研究がなされなくてはならない。しかし、これまでの研究においては、非常に偏頗な枠組みを設定しながら語ってきたのではないか。すなわち、禅宗という一宗派との関わりのなかで、その上限を蘭渓道隆や一山一寧の来朝をもって語り始めるとともに、そこから抜け落ちてしまったものは「水墨画」の枠の外側に置いてしまっており、また、発信する側も受信する側にも様々な地域と社会集団・事情がかかわっていたとみられるにもかかわらす、それが実際に語られる場合、多くは中国と 日本という二元論に単純化しすぎている。しかも、偏に枠組みを研究者自身が設定してしまっていることに起因するのではないか。
発表2
山本勉
(東京国立博物館)
「宋風彫刻の基本的問題」
彫刻における宋風というとき、決して宋代の彫刻そのものから影響を受けたものではない。宋仏画から形を借りて仏像が新たな装いを凝らしたものという水野敬三郎氏の論文「宋代美術と鎌倉彫刻」〔『國華』一〇〇〇号、一九七七年〕における見解が多少の修正を加えながらも、現在でも彫刻史研究者の支持を得ている。そして、鎌倉彫刻における宋風の影響については、東大寺の再興に際しての重源を中心として取り入れられた宋風、京都泉涌寺の俊●や湛海などによってもたらされた宋風、鎌倉地方における宋風の三つに分けて考える必要があり、それらが「宋風」の語で括られてしまうことで、かえってわかりにくくなっているのも否めない。しかしながら、彫刻史における「宋風」の論議とし ては、宋風が宋代絵画を写したものか、あるいは、宋代彫刻からの直接的な影響とうことを問題にする以上に重要視しなければならないのは、イメージとして中国そのものという、それまでの(平安後期の)和様彫刻にない雰囲気が求められた結果、出現したのが彫刻における「宋風」であったということではないか。
発表3
林温
(文化庁)
「仏教絵画における宋風について」
仏画の研究において「宋風」と言うとき、唐風、あるいは、伝統的といった言葉の対の概念として用いられることが多く、具体的には、奈良・平安期の仏画は唐風もしくはその継承であるのに対し、平安時代末期以降に表れる表現上の新しい特徴を指しているのではないか。しかしながら、その「宋風」というのは実際に何を意味しているのか、そのモデルはどこに求められるのか、あるいは、宋風というのは一様なのか、「宋風」の影響もしくは受容の仕方は一律なのか、等々についてはもっと詳しく検討しなければいけない。「宋風」というとき、南宋仏画の影響に関心がゆくようであるが、三〇〇年にわたる宋代にあって、当然、絵画の変遷はあった訳であり、南宋仏画に先行する北宋仏画を明確にしたうえ でなければ南宋仏画の位置は明確化しえない。また、その日本における影響を論ずることもできないであろう。そして、そのような認識に立って平安後期における北宋仏画の影響というものを、久安元年(1145)に定智によって制作されたことが知られる平安仏画の基準作例である和歌山・金剛峯寺蔵の「善女龍王」にみる雲の表現をめぐってケース・スタディを行い、当代中国の作例との比較のなかで北宋仏画とその影響を考えてみた。
発表4
津田徹英
(東京文化財研究所)
「鎌倉地方における宋風」
鎌倉彫刻における「宋風」を唐物趣味を背景に日本において作り上げた異文化・中国に対する彫刻のイメージでないか。その具現化の手だてとしては、請来仏画を参考にしたこともあり得たであろうが、その依存度は当代の発注者、制作者、地域によってまちまちであり、そのことを奈良・京都における作例と、鎌倉地方における作例を比較することで際立たせ、彫刻史のなかで語られる「宋風」の語にはかなりの作風の幅があるように見受けられる。しかも、宋風彫刻からは宋代彫刻を類推委することも出来ない。にもかかわらず当代彫刻の特徴を「宋風」の語であえてひとつに括ろうとするならば、いずれにも通底する中国志向(唐物趣味)として括ることでそれは可能ではないか。
ディスカッション 15:30~17:00 司会:井手誠之輔 (東京文化財研究所)

ディスカッションの総括
日頃、絵画史研究者と彫刻史研究者が同じ問題について意見を出し合い討議することがないことを思えば、「宋風」というテーマでそれぞれの立場から基調報告することで、「宋風」の概念が、かなり違いのあることが改めて確認でき、議論を交わせたことはひとつの成果といえよう。しかし、それぞれが、それぞれの「宋風」の概念・問題を語ることに終始したきらいがあることも否めない。
そもそも、何故、この「宋風」が問題となるのか、その語を用いることで日本美術にどのような枠組みが設定され、これまで当代の美術の何をどう語ろうとしてきたか、そして、その枠組みというものはどのように生成され、今に至ったか。また、その語りの枠組みを設定することで語り易くなった点は何であり、逆にみえなくなってしまったことは何であったのか、限界は何であるのかといことの論議にたどり着くまでに時間切れとなり、当代の美術を考えてゆく上での、語りの新しい枠組みの可能性を探るに至るまで討論が至らなかったことも反省材料と今後の課題を残すことになったといえる。とともに、これを単に鎌倉・南北朝時代の特殊な問題としてしまうのではなく、常に外来美術との関わりのなかで日本美術を語る場合に起こり得るという問題意識の共有化がどこまで参加者とともにできたかという点にも課題が残ったように思われる。
『日本における外来美術の受容に関する調査・研究』2003年3月31日発行
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2001年度 第二回 ミニシンポジウム 「江戸時代後期から幕末・明治初期における「漢」と「洋」―南蘋派と洋風画を中心に―」(2002年3月27日 於:東京文化財研究所地下1階セミナー室)


美術部では中期研究計画「日本における外来美術の受容についての研究」の一環として本年第2回目のミニ・シンポジウム「江戸時代後期から幕末・明治初年における「漢」と「洋」-南蘋派と洋風画-」を開催いたしました〔3月27日(水)於当研究所セミナー室〕。参加者は雨天にも関わらず51名に及び、4人の基調発表に引き続き、予定時間を超過してディスカッションが行われました。

概要
日本の美術史にとって、中国や朝鮮・西洋などの美術の受容が極めて重要であることは言うまでもありません。この問題については、様々な時代やジャンルについて語られていますが、受容や影響の語のもとに一面化されるきらいがあり、また無前提に設定された語りの枠組みが視野を狭め、問題の広がりとその解明を阻害していることもあるようです。 この研究では、美術に見られる異文化受容にかかわる諸現象と、それについての語りの枠組みを点検・整理しながら、時代やジャンルにおける差異と共通性を明らかにし、全体の見取り図を描くことを考えています。具体的には、1)時代別の受容の実態とそれについての言説の問題点を横軸に、2)時代を通じて現れる事象、例えば異文化を伝えたメディアや異文化接触の場、異文化イメージとメタ受容などの問題を縦軸として、共時的分析と通時的分析を綴り合わせ、3)さらに異文化受容の特異点ともいえる事象を加えて研究を進めています。  今回のミニシンポジウムでは、江戸時代後期から幕末・明治初期を取り上げました。この時期の大きな特色の一つに、幕末を境にして「漢」と「洋」の位置の逆転現象が見られることは、これまで繰り返し指摘されてきました。平たく言えば、文明開化の風潮によって、外国に対する日本の関心の中心が中国から西洋へと方向転換したという認識です。しかし近代そのものが相対化されてしまった今、このような考え方は、近代の価値観を江戸時代に押しつけたものとして批判を浴びるようになりました。  今回は、昨年、南蘋派の流行と司馬江漢の画業をテーマにした2つの展覧会が開催されたのを機に、この問題をあらためて考えてみたいと思います。「漢」と「洋」の受容を同時代の文脈のなかに位置づけ直すとき、そこにはどんな視野が開けてくるのでしょうか。またそれは、どんな意味を現在のわたしたちに投げかけてくるのでしょうか。

発表 13:15~15:15
発表1
金子信久
(府中市美術館)
「司馬江漢の風景画をめぐって」
これまで司馬江漢は「洋画の先駆者」としての評価が先行し、芸術性よりも技術的な先見性に意義が見出されため、江漢の絵画そのものが正当に評価されたとはいいがたい。従来の説は、天明から寛政年間を西洋画法の学習期、寛政年間後半を応用期とし、日本の新しい風景画を開拓したとする一方、江漢の風景図を、精神性を重視した文人画の真景図と対置して、もっぱら技術的な成果としてのみ評価してきた。そのため、淡彩画や墨画を制作した晩年期は、西洋画法の限界を自覚した「回帰」として捉えられてきた。しかし最近では、「洋画の先駆者」という評価自体が明治以降に形成されたことが明らかになった。従来の江漢像から離れて、ひとりの画家として見たとき、江漢が実景の再現だけを目指したのではなく、自然の風景に接して誰もが感じる感興や感激を率直に造形化したことが理解される。結局、江漢は、新たな空間表現の技術と、実景という新たな題材とを用い、従来の山水画に代わる、新しい自然景の絵画を創出した。晩年の作風も、この延長上にある新しい画風として、積極的な意義があると考えるべきだ。
発表2
伊藤紫織
(千葉市美術館)
「江戸時代の異国趣味-南蘋風大流行」
従来の美術史は、南蘋派を沈南蘋の影響をうけた江戸時代諸派として、秋田蘭画を洋風画の先駆として扱ってきた(発表では割愛されたが図録本文では、秋田蘭画が洋風画の文脈で語られる理由として、明治三六年〔一九〇三〕に初めて角館出身の画家平福百穂がこの一派を紹介した事実が指摘されている)。これに対して今回の展覧会「江戸の異国趣味」では、両者を「異国趣味」として一括りにした。理由は、一度先入観を拭ったうえで、両者を一括りにして比較対照しないかぎり、双方の正当な評価ができないと考えたからである。秋田蘭画の作例が少数であるのに対し、南蘋派の作例が圧倒的な数にのぼる一方、両者は、大名や高位の武士によって描かれ、彼らが中国趣味と、オランダに対する「蘭癖」を合わせ持っていた点で共通する。「漢」は、「洋」の存在によって相対化され、畏敬の対象から、容易に同化できるものに変化したのではないか。南蘋風の流行は多分に趣味的な側面をもつが、その理由はこの点に求められよう。
発表3
山梨絵美子
(東京文化財研究所)
「開成所画学局・再考」
幕末の開成所画学局に学んだ高橋由一の『高橋由一履歴』の中に、「絵事は精神の為す技なり」という有名な一節がある。これは一般に、近代的な芸術家だった由一を表わす言葉として受け取られているが、この発言は画学局の考え方に対する由一の反論として理解できる。すなわち画学局とは、精神の技として絵画を教える所ではなく、画像の真影性、写実性を追求してさまざまな技術を研究する所だった。そこで学んだ川上冬崖は油画だけでなく、地図製作、石版印刷に、島霞谷は写真、地図、解剖図、活字の制作に、中島仰山は博物図譜、写生図、写真に携わった。その周辺の人々には、たとえば写真師の横山松三郎や、明治六年(一八七二)のウィーン万博に伝習生として同行し、銅板画と石版画を習得した岩橋教章がいる。幕末の開成所画学局に連なる者たちは、芸術的な作品の制作を目指したのではなく、そこで得た技術をさまざまな方面に展開させた。それによって、彼らの幅広い範囲の活躍が可能になった。
発表4
ロバート・キャンベル
(東京大学)
「幕末に人はなぜ絵を見たか」
幕末から明治初期の文学表現を手掛りにして、この時期の書画に期待された役割について考えるとき注目されるのは、知識階級に属する武士の出身で、為政者の立場にあったり、経世思想に深く関わった人たちの間で、書画が国の運営(経世)にとって有益であるとする考えが目立つようになることである。たとえば、幕末から明治初期に使われる「縮地の術」という言葉も、書画の技術的な側面での有用性を自覚した形容であろう。このように、書画に有益性や有用性を見出す風潮と論調は、それまで書画が代表してきた古い文化を無益なものとして退けるようになり、維新期から明治十年代にかけて書画改良論が登場する。いいかえれば、幕末から明治初期には、書画に精神涵養を求める伝統的な考え方(一種の書画風雅論)つまり、精神修行としての書画の制作と鑑賞が一方にあり、そして、もう一方に新しい書画有用論が出てきて、両者が並立していた。
ディスカッション 15:30~17:00 司会:鈴木廣之 (東京文化財研究所)

ディスカッションの総括
今回の討論の中で言及された話題はおよそ多岐にわたるが、論者の共通の関心から取り上げられた論点として注目されるものに、絵画ないし書画の有用性の問題が挙げられる。一言でいえば、絵画に何が求められたのか、という問題である。絵画の側からいえば、それは絵画が果たした役割の問題である。たとえば、時代によって、ジャンルによって、あるいは制作者と受容者の個人や階層の違いによって、それは変化するだろう。関連する個々の話題については「討論」のページを参照していただきたいが、「異文化受容」のテーマに即していえば、受容者が期待する有用性の問題がある。つまり、ある絵画や技術がもたらされるとき、受け手の側がそこに何を求めるかが一種のフィルターとして取捨選択の働きをもつ。この意味で「異文化受容」における受け手の側の主体的な選択のあり方を想像することができる。この問題は、従来の「影響」概念を批判的に再考する論点となるので、今後の議論に期待したい。
『日本における外来美術の受容に関する調査・研究』2003年3月31日発行
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2002年度 ミニシンポジウム 異文化受容と美術「図像の受容とそのゆくえ-中国・朝鮮と日本の仏教美術-」(2002年7月24日 於:東京文化財研究所セミナー室)

今回のテーマは、文化の情報発信地として長い間、東アジアに君臨してきた中国と最終受信地としての日本、文化の東方伝播の一例としてしばしば語られてきた仏教、そして、受容そのものだけでなく、その後に展開する図像という、3点に着目して設定しました。 参加者は94名、4人が研究発表を行い、ひき続き、パネラーとして加わってもらいディスカッションを行いました。

概略
第3回の試みとして、東アジアにおける仏教図像の受容とその行方について議論を行いました。
今回のテーマは、文化の情報発信地として長い間、東アジアに君臨してきた中国かつ最終受信地としての日本、また、文化の東方伝播の一例としてしばしば語られてきた仏教、そして、受容そのものだけでなく、その後の展開にも受容の態度を認められる図像という3点に着目しながら、仏教図像を対象に、時代と地域を横断したテーマから論じることになりました。
当日は、研究発表に続き、発表者をパネラーとして総合討議を行いました。

発表 1:30~
発表1
勝木言一郎
(東京文化財研究所)
「日本における浄土図の受容と展開-法隆寺金堂壁画の図像を中心に-」
法隆寺金堂壁画に関する記録は、12世紀初めの大江親通撰『南都七大寺日記』が初出です。金堂壁画が7世紀につくられたとすれば、大江親通が金堂壁画をみるまでに500年の歳月が過ぎていたことになります。その間、金堂壁画に対する見方にまったく価値付けがなされなかったのでしょうか。12世紀初めの仏教とその信仰の中味が金堂壁画の制作当時と同じであるはずもありません。
しかし、法隆寺金堂壁画に関するこれまでの研究は、大江親通が『七大寺巡礼日記』に記した「浄土」ということばに拘泥され、なおかつ四方四仏の呪縛から抜け出ることができなかったように思われます。
今回の発表では、今一度、日本に受容された浄土図を中国における浄土図の展開の中で位置づけ直すことで、改めて日本での受容のあり方を検討しました。その結果、極楽浄土をイメージしたと考えられる初期の日本の作例は、法隆寺金堂壁画や当麻曼荼羅など数点を数える程度であり、いずれも中国唐代に相当するものです。日本人はこれらの数点の作例を単一路線的に結びつけることで、浄土のイメージ形成を語ってきたといえます。
ところが、中国では金堂壁画第六号壁と当麻曼荼羅に類する図像がそれぞれ別の展開を呈したととらえられています。その根拠が中国南北朝後期につくられた阿弥陀浄土変相の作例です。中国南北朝後期の阿弥陀浄土変相が日本に受容されたのかを確認する手がかりは残っていないため、日本では単一的な展開として扱われてしまいました。
発表2
水野さや
(日本学術振興特別研究員)
「日本における阿修羅像の図像の受容について」
阿修羅は八部衆の一尊であるとともに、六道における阿修羅道の主としても知られている。
日本における初期の阿修羅像には、法隆寺五重塔初層北面の塑造阿修羅坐像、興福寺に伝来する脱活乾漆造阿修羅立像などがある。これらの八部衆の一尊としての阿修羅像がさきに日本にもたらされたことが、中国・韓国に現存する阿修羅像との比較から確認できる。
つぎに、中国・韓国の阿修羅像の図像からみて、三面六臂または三面八臂で、左右第一手を合掌あるいは持物を執るなど、さまざまな図像が日本に受容されていたと考えられる。したがって、日本における初期の阿修羅像は現状においていずれも持物などを欠損しているが、本来は日輪・月輪・天秤・折尺に似た鈎状の持物を有していた可能性が高いと推察される。
平安時代以降、八部衆としての阿修羅は仏涅槃図などの図像に登場しづけるものの、その流れはしだいに六道における阿修羅像や二十八部衆の阿修羅像へと移行していく。しかしこれらの阿修羅像は、八部衆の阿修羅像の場合と受容が異なっているようであり、一線を画すものであった。
発表3
津田徹英
(東京文化財研究所)
「白衣観音の行方」
平安後期において白衣観音の図像は唐本に拠ったものであることが知られるが、「いまだ本説をみず」と諸書に記されるように、典拠不明とされてきた。にもかかわらず、その図像にもとづく造像は院政期、ことに白河院の時代に本格化し、かつ、数ある白衣観音の図像のうち専ら印璽を手にもつ図像が採用され、特殊な意味が白衣観音像に付与されたようである。
しかし院政の崩壊とともに(鎌倉時代以降)、白衣観音の造像は殆どかえりみられなくなる。その後、南北朝時代において、その図像は新たに水墨画の画題として受容され、江戸時代には黄檗宗において再び彫刻による造像がみられる。このように白衣観音の図像はわが国では絶えず受容されていたが、それぞれの時代におけるその図像の意味合いはまったく異なるものであった。
こうした白衣観音の図像がもつ社会的な意味合いの変転について、院政期の場合で考えてみると、単なる唐本の受容にとどまらず、持物としての印鑰(インヤク)に対し、象徴性をもたすことで社会的な意味を見出していたようである。そして、社会基盤の崩壊にともない、その図像は消滅していった。
発表4
中野昭男
(東京文化財研究所)
「中世の仏伝図と東アジア」
仏教の復興期であった鎌倉時代には、釈尊が唱えた仏教の根本に回帰しようという動きが起こり、釈尊そのものへの信仰も盛んになった。その結果、釈尊の遺物、遺蹟への関心が高まり、併せて天竺や中国へのあこがれも強くなり、この動きの中で、仏伝図が改めて造形された。
中世における絵因果経の新たな制作は、古くに請来された原本の見直しと伝承の例であり、そして宋・元・高麗・李朝の仏伝図の請来と転写は、新たな図像への関心の例である。しかし、鎌倉時代・室町時代を通じて、仏伝図が積極的に制作され、図像や形式に新たな展開がみられたとはいいがたい。また李朝の仏伝図が請来されたとはいえ、それが日本の仏伝図の新たなモデルになったともいえない。仏伝図が民衆レベルにまで普及するには奈良絵本や冊子本の挿絵の登場を待たなければならなかった。
ディスカッション 司会:岡田 健(東京文化財研究所)

ディスカッションの総括
「三国伝来」という言葉に象徴されるように、仏教美術ほど、枠組みとして「影響」を語る美術史研究者に安心感をもたらしたジャンルはないかもしれない。それは対象としての仏教美術があまりにも大きな異文化受容の時と場を呈したからであり、なおかつそれを享受する日本がゴールとして意識されたことによろう。アリアドネの糸をたどっていけば、確実に迷宮から脱出できるように、イメージの流れを西にたずねていけば、確実に源流のインドにたどり着けるという安心感こそが仏教美術研究の「影響」や「伝播」の議論を支えたといえる。
しかし、こうした議論はしばしば日本を主語として、あるいは朝鮮や中国を他者として語ることで終始し、本来イメージ伝播を介在させるはずの人間や社会の存在を見過ごす傾向にあった。たとえば受け手にも、日本という国、セクト、特定の権力者など、さまざまな立場があったこと、そしてそれらが時代や地域によっても多様であったことに対し、理解が広がるだけでも、日本美術におこった異文化受容について有機的に実体をとらえることにつながるであろう。
逆説的にいえば、仏教美術ほど異文化受容の問題を素材として提供するジャンルもない。異文化を伝えたメディア、異文化接触の場、異文化イメージとメタ受容などの問題について、仏教美術を糸口に研究していけば、美術史研究における異文化受容の一つのモデルを提示できるのではなかろうか。
『日本における外来美術の受容に関する調査・研究』2003年3月31日発行
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2004年度 第一回 ミニシンポジウム 「高麗初期の石造菩薩像について」(2005年1月26日)

第1回の研究会は、韓国・徳成女子大学校の崔聖銀教授をお迎えし、高麗初期の石造菩薩像をめぐって、ご発表をいただきました。発表は、外来受容の問題を韓国の視点から発表いただき、韓国語圏において彫刻史研究がどのように行われているかを知るまたとない機会となりました。あわせて、日本彫刻史において、半ば当たり前に使っている用語・見方がいかに閉じられた世界に近いものであるのか等、これまで独自に歩んできた日本における彫刻史研究を、中国語圏・韓国語圏・日本語圏を含めた東アジアの美術史研究のなかで相対化し、見つめ直す機会を目指しました。参加者66名。

発表
崔聖銀
(韓国・徳成女子大學校)
※発表は日本語
「高麗初期の石造菩薩像について」
コメントと討論:司会 津田徹英(美術部)・朴亨國(武蔵野美術大学)
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2004年度 第二回 ミニシンポジウム「美術交流におけるモノ・人・ことば」(2005年3月16日)

第2回ミニ・シンポジウムは「美術交流におけるモノ・人・ことば」をテーマに掲げました。異文化間の美術交流は、一般に、人とモノの移動によって実現され、ことばがそれを媒介します。これら3者間に生じる双方向のダイナミズムが交流の歴史を形成したといえます。この会では、これらの議論を深める機会を目指しました。参加者106名。

発表1
佐藤道信
(東京藝術大学助教授)
「日本の外国文化理解:人よりモノ・外交より貿易中心の」

「日本はつねに外来文化を受容し展開してきた」と日本は言い、サミュエル・ハンチントンは逆に、日本は「孤立した文明」だという。日本は開いてきたのか、閉じてきたのか。
文化がまったく変わらずに伝播し、理解されることはありえない。そもそも、学び方や教え方じたい、ジャンルによってかなり違う。音楽のようなパフォーマンス文化は、人から直接学ぶ対人伝授が中心になるが、美術のようなモノ文化は、模写のようにモノから学ぶことも可能だ。ならば、人とモノの海外との間の移動は、歴史的にどのような状況下にあったのか。
人とモノの移動には、外交と貿易関係の有無が大きな意味をもつ。飛鳥時代から江戸時代までの約 1250 年間に、日本が公式の外交関係を持った中国の歴代王朝は、隋・唐・明のみである(宋・元・清とはなし)。使節の派遣期間は、総計でもわずか 450 年間、3分の1の期間しかない。しかし、貿易はほぼ一貫して行なわれていた。外交なら中国王朝からの贈品もあったはずだが、貿易なら、日本側の趣味が介在した交易地での買い付け品が中心だったと思われる。ともかく、モノ(文物)の輸入は継続されていたから、日本の中国美術理解は、大局的には人よりモノ媒体で行なわれてきたと考えられる。ところが、人よりモノ媒体の理解の場合、目的であれ結果であれ、文物のもつ歴史的・思想的・社会的背景への理解は、大きく削除される。日本美術あるいは日本文化に顕著なコピー性や、真逆の自由解釈という二つの理解パターンも、モノ媒体の理解に起因する表裏の現象ではなかったかと思われる。現在にまでいたる、読み書きはできても話せない文語中心の外国語理解も、人(会話)より書籍(モノ)を介しているからだ。
近代以降、外交・貿易両者をともなう人とモノの交流がふえてなお、人よりモノ優先の理解パターンは続いている。技術・モノ作り・貿易に長け、外交や外国人との人づきあいに不得手な日本の特徴も、こうした長い対外姿勢の歴史の上にあると思われる。ただ、人・モノ・情報が動いても、最後は「日本」をささえる重要なアイデンティティーである「内」意識がどう動くかが、ポイントになるかもしれない。
発表2
クリスティン・グース
(スタンフォード大学客員研究員)
※発表は英語(日本語の逐次通訳)
“The Loaded Language of Cross-Cultural Evaluation"(文化間評価の偏りあることば)

In his Meiji Kokka to Kindai Bijutsu Sato Doshin analyzed the sources and significance of "bijutsu" and other art-related terms coined in the Meiji era. Inspired by his work, in my talk I will examine the vocabulary Europeans and American of the nineteenth century used to describe Japanese artefacts. I will devote particular attention to the words curiosity, curio, and art and their implications.

佐藤道信は、その『明治国家と近代美術』( 1999 )のなかで、明治期に造語された「美術」と、それに関するその他の用語の出自と意味を分析した。彼の作品に刺激を受けながら、わたしの発表では、日本の人工物( artefacts )の記述に用いられた一九世紀のヨーロッパとアメリカの語彙について検討する。そのなかでもとくに、「骨董」( curiosity )、「キュリオ」( curio )と「美術」( art )ということばと、その意味に注目したい。
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2005年度 ミニシンポジウム 「東アジア近代絵画における東洋と西洋」(2005年10月28日)

今回は、韓国と台湾からそれぞれ近代美術史研究の第一人者であるおふたりをお招きし、近代の日本、韓国、台湾の各地域がどのように西洋絵画と接し、新しい造形を模索したかを考えました。これら東アジアの地域には、歴史的にみて中国文化圏内に位置するという共通点があります。今回のシンポジウムが、それぞれの地域の状況を相対化しながら、異文化受容のかたちを比較・検証することを目指しました。

発表1
山梨絵美子
(東京文化財研究所)
「受容の往還: 1910 ~ 20 年代、日本絵画界における東洋的傾向について 」
発表2
金英那
(ソウル国立大学校)
「韓国美術における近代:模範とすべきあるいは超克すべきモデルとしての西洋」
発表3
顔娟英
(中央研究院歴史語言研究所
・国立台湾大学藝術研究所)
「モダニティーと伝統-嘉義出身の三人の美術家の物語-」
討 論  司会:鈴木廣之(東京文化財研究所)
※発表 2 ・ 3 は英語(日本語の逐次通訳)
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