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2004年度の研究会

平成16年度(2004)
4月28日

津田徹英(美術部)
「日本の中世彫刻研究で用いられる『宋風』という言説をめぐるいくつかの問題について―最近の知見から―」

5月26日

鈴木廣之(美術部)
「明治期府県博覧会について」

6月29日

塩谷純(美術部)
「再興日本美術院のひとびと―あるいは大正期の大観―」


李仲熙(韓国・啓明大學校)
「朝鮮美展の東洋画部における画風変化(韓国の近代画風の成立について)」

韓国近代、すなわち日本帝国主義の時期(1910-1945)は韓国美術史の激変期といえよう。この時期には国内美術界の全体を集約した巨大な美術公募展、つまり日本総督府の主管による朝鮮美術展覧会(1922-1944)が美術界の中心におかれていた。今までこの展覧会に関してはその創設の政治的な意図や作品審査の不公平など、主に被支配者の視点からの論議で占められていた。ところが、この展覧会では近代的な視覚による画風変化が驚くほど進行したのであり、それがまたその後の韓国現代美術の基盤となったという事実にも注目し、本発表では朝鮮美術展の画風変化に焦点を合わせてその変化の様相を追究する。画風変化という作品そのものに関する考察としては初めての試みとなる本発表では、その考察対象を伝統絵画のみに限定した。伝統絵画における近代的な画風変化のうち、特に山水画と人物画では各々別の様相がうかがえ、またそれぞれ日本画からの影響も無視できない面がある。
観念的な伝統山水画は驚くべき変化を遂げた。それは朝鮮美展開催から約十年ほどで風景画ともいうべき現実的な視覚による周辺景観の表現へと展開する。また人物画のジャンルでは、朝鮮末における人物画の伝統が弱かったため、近代に入って全く新たな人物画が形成されることとなった。この近代人物画は日本画の洗礼を受けたことが露骨にあらわれており、画風性格の解明にはその日本的な要素の分析が第一の課題となっている。
7月28日

田中淳(美術部)
「モノの価格とコレクションの形成―黒田清輝と住友家―」

近代化される明治の時代、その中期になると産業ブルジョワジーが台頭し、その資力をもって、芸術家を支援しつようになった。住友家の七代目当主春翠住友吉左衛門も、そのひとりであった。住友家が、「朝妝」購入をはじめとして、黒田清輝を支援してゆく過程を見ていくとともに、そのコレクションの形成について、資料をもとに検討する。
9月22日

中野照男(美術部)
「ラワク遺跡について」

11月24日

田中淳(美術部)
「『海の幸』誕生」

青木繁(一八八二~一九一一)の「海の幸」が描かれたのは、明治三十七年(一九〇四)である。今から、ちょうど一〇〇年前のことである。いうまでもなくこの作品は、歴史のはげしい変転のなかで生きつづけ、そして今なおその輝きを失ってはいない。そこで、制作から一〇〇周年を記念して、作品を所蔵する石橋財団石橋美術館から声をかけていただき、共同調査することになった。これまでも、画家青木繁の芸術は、数々の回顧展によって顕彰され、そこでは、つねに欠くことのできない作品として「海の幸」はあった。また、多くの研究者によって、分析され、考察されてもきた。その点からも、すでに作家研究も作品研究も、成熟の域にあるようにおもわれる。しかし、これまでのそうした研究成果をあらためて検証する意味もあわせて、石橋美術館の学芸スタッフとともに平成十六年五月には最新の技術をつかった光学的調査をおこない、さらに同年八月に制作された地に赴き現地調査をおこなった。今回の発表は、これらの調査をもとに、「海の幸」という一点の作品が誕生する経緯とその表現の問題点、さらに誕生の背景について考察することが目的である。

植野健造(石橋財団石橋美術館)
「名作物語―青木繁《海の幸》の100年―」

石井亨(石橋財団)
「《海の幸》誕生―ものとしての絵画―」

12月22日

勝木言一郎(美術部)
「敦煌壁画に見る観経変相未生怨図の図像について」

1月26日
「異文化受容と美術」第一回 ミニシンポジウム 「高麗初期の石造菩薩像について」

崔聖銀(韓国・徳成女子大學校)
「高麗初期の石造菩薩について」

コメンテーター:朴亨國(武蔵野美術大学) 司会:津田徹英(美術部)

2月9日

綿田稔(情報調整室)
「伝明兆筆雲谷等益補作『二十八祖像』(崇福寺蔵)について」

3月16日
「異文化受容と美術」第二回 ミニシンポジウム「美術交流におけるモノ・人・ことば」

佐藤道信(東京藝術大学)
「日本の外国文化理解―人よりモノ、外交より貿易中心の―」

「日本はつねに外来文化を受容し展開してきた」と日本は言い、サミュエル・ハンチントンは逆に、日本は「孤立した文明」だという。日本は開いてきたのか、閉じてきたのか。
文化がまったく変わらずに伝播し、理解されることはありえない。そもそも、学び方や教え方じたい、ジャンルによってかなり違う。音楽のようなパフォーマンス文化は、人から直接学ぶ対人伝授が中心になるが、美術のようなモノ文化は、模写のようにモノから学ぶことも可能だ。ならば、人とモノの海外との間の移動は、歴史的にどのような状況下にあったのか。
人とモノの移動には、外交と貿易関係の有無が大きな意味をもつ。飛鳥時代から江戸時代までの約 1250 年間に、日本が公式の外交関係を持った中国の歴代王朝は、隋・唐・明のみである(宋・元・清とはなし)。使節の派遣期間は、総計でもわずか 450 年間、3分の1の期間しかない。しかし、貿易はほぼ一貫して行なわれていた。外交なら中国王朝からの贈品もあったはずだが、貿易なら、日本側の趣味が介在した交易地での買い付け品が中心だったと思われる。ともかく、モノ(文物)の輸入は継続されていたから、日本の中国美術理解は、大局的には人よりモノ媒体で行なわれてきたと考えられる。ところが、人よりモノ媒体の理解の場合、目的であれ結果であれ、文物のもつ歴史的・思想的・社会的背景への理解は、大きく削除される。日本美術あるいは日本文化に顕著なコピー性や、真逆の自由解釈という二つの理解パターンも、モノ媒体の理解に起因する表裏の現象ではなかったかと思われる。現在にまでいたる、読み書きはできても話せない文語中心の外国語理解も、人(会話)より書籍(モノ)を介しているからだ。
近代以降、外交・貿易両者をともなう人とモノの交流がふえてなお、人よりモノ優先の理解パターンは続いている。技術・モノ作り・貿易に長け、外交や外国人との人づきあいに不得手な日本の特徴も、こうした長い対外姿勢の歴史の上にあると思われる。ただ、人・モノ・情報が動いても、最後は「日本」をささえる重要なアイデンティティーである「内」意識がどう動くかが、ポイントになるかもしれない。

Christine Guth(クリスティン・グース)(スタンフォード大学)
「“The Loaded Language of Cross-Cultural Evaluation"(文化間評価の偏りあることば)」

In his Meiji Kokka to Kindai Bijutsu Sato Doshin analyzed the sources and significance of "bijutsu" and other art-related terms coined in the Meiji era. Inspired by his work, in my talk I will examine the vocabulary Europeans and American of the nineteenth century used to describe Japanese artefacts. I will devote particular attention to the words curiosity, curio, and art and their implications.
佐藤道信は、その『明治国家と近代美術』( 1999 )のなかで、明治期に造語された「美術」と、それに関するその他の用語の出自と意味を分析した。彼の作品に刺激を受けながら、わたしの発表では、日本の人工物( artefacts )の記述に用いられた一九世紀のヨーロッパとアメリカの語彙について検討する。そのなかでもとくに、「骨董」( curiosity )、「キュリオ」( curio )と「美術」( art )ということばと、その意味に注目したい。

司会:鈴木廣之(美術部)

3月30日

小林純子(沖縄県立芸術大学)
「来沖画家とその作品―描かれた紅型(ビンガタ)を中心に―」