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2002年度の研究会

平成14年度(2002)
5月8日

松木寛(東京都美術館)
「伝周文屏風(大和文華館本と前田育徳会本)について」

6月26日

塩谷純(情報調整室)
「ウィーン美術史美術館所蔵の画帖について」

〈図版解説〉 ウィーン美術史美術館所蔵 画帖
本稿ではウィーン美術史美術館の彫刻・工芸部門に所蔵される日本の画帖を紹介する。全二冊、計百図からなるこの画帖は幕末から明治前期にかけて活躍した六名の絵師、即ち狩野永悳、住吉広賢、服部雪斎、松本楓湖、三代目歌川広重、豊原国周によって描かれている。担当した絵師は狩野永悳や住吉広賢といった江戸幕府の御用絵師から、服部雪斎のような博物図譜の画家、あるいは歌川広重や豊原国周といった市井の浮世絵師まで含み、画題も各絵師の得意とするジャンルに応じて、日本の歴史、花鳥、風俗、名所と多岐にわたる点は注目されよう。
服部雪斎と松本楓湖の画中にある年記より、この画帖は明治2(1869)年に制作されたものと考えられる。またウィーン美術史美術館に画帖とともに伝えられるプレート、および彫刻・工芸部門の基礎を形成したアンブラス・コレクションの取得簿には、同画帖が日本の帝からオーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ一世に贈られた品である旨が記されている。以上をふまえ太政官公文録、および『日本外交文書』といった日本側の文献にあたってみると、明治2年の日本・オーストリア修好通商航海条約締結の際、明治天皇からオーストリア皇帝・皇后への贈呈品目の中に画帖二冊が含まれ、本稿所載の画帖を指す可能性が高いと思われる。
他国への献上品として絵画を贈るというのは日本において珍しいことではなかったが、その形式は華美で装飾的な屏風が主流であった。しかし1867年開催のパリ万国博覧会に徳川幕府が出品した画帖や本稿所載のウィーンの画帖、あるいは北京の故宮博物院に所蔵されるというウィーンのものとほぼ同工の画帖の制作は、幕末から明治初期においては自国を対外的に装い飾る以上に、自国の風土を視覚的に解説する姿勢がもとめられたことのあらわれといえるだろう。そのような視点に立てば、ウィーンの画帖制作の背景に、日本学のパイオニアとして著名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男で、日本・オーストリア修好通商航海条約の締結に大きく関与したアレクサンダー・フォン・シーボルトの存在を 想定することも可能かもしれない。

AINTING ALBUMS IN THE COLLECTION OF THE KUNSTHISTORISCHES MUSEUM, VIENNA

This essay introduces an album of Japanese paintings in the collection of the Kunstkammer(the Collection of Sculpture and Decorative Arts) of the Kunsthistorisches Museum, Vienna. The work consists of two albums containing approximately 100 images created by six artists active from the late Edo period through the early Meiji period: Kano Eitoku, Sumiyoshi Hiroyoshi, Hattori Sessai, Matsumoto Fuko, Utagawa Hiroshige III and Toyohara Kunichika. Eitoku and Hiroyoshi were both official painters of the Edo shogunal government. Sessai was a naturalist painter. Hiroshige III and Kunichika were ukiyo-e masters who created works for popular markets. These artists all depicted the subjects they excelled at, so that the album included a diverse array of images from Japanese history, birds and flowers, genre scenes and scenes of famous places.

From the dated inscriptions on works by Sessai and Fuko, it is thought that this album was created in Meiji 2 (1869). According to the plate attached to the albums, and the register of the Ambras Collection on which the Kunstkammer was largely founded, these albums were presented by the Japanese emperor to the Austrian Emperor Franz Joseph I. According to Japanese documents from Kobun Roku [Original copies of official documents received by the Dajokan, the government's central administrative office] and the Nihon gaiko bunsho [Japanese foreign affairs documents], when trade and shipping treaties between Japan and Austria were signed two albums of paintings were among gifts presented by the Meiji emperor to the Austrian emperor and empress. The likelihood is very strong that these two albums were the albums presented. It was not rare for Japan to present paintings as part of the official gifts to other nations, but usually such presentation works were in folding screens with particularly elegant and decorative mounts. On the other hand, in 1867 the Tokugawa government displayed a painting album in the Paris World Exposition, and the two albums discussed in this article were presented to Austria. Albums with almost the same format and handling as the Vienna albums can be seen in the Palace Museum in Beijing. Rather than presenting decorative items in their diplomatic gifts, Japan in the late Edo and early Meiji periods rather sought to present works that provided a visual explication of Japan's scenes to their foreign audience.

From this standpoint, we can also imagine the presence of Alexander von Siebold, playing a role of in the production of these Vienna albums. His father was the pioneer of Japanese studies, Phillip Franz von Siebold, and he himself played a major role for the Japanese government in the signing of the Austrian-Japanese commercial and maritime treaty.
(translated by Martha J. McClintock)
7月24日
「異文化受容と美術」第3回ミニシンポジウム「図像の受容とそのゆくえ―中国・朝鮮と日本の仏教美術―」

於:東京文化財研究所セミナー室
プログラム
発表:1:30~
ディスカッション

第3回の試みとして、東アジアにおける仏教図像の受容とその行方について議論を行いました。
今回のテーマは、文化の情報発信地として長い間、東アジアに君臨してきた中国かつ最終受信地としての日本、また、文化の東方伝播の一例としてしばしば語られてきた仏教、そして、受容そのものだけでなく、その後の展開にも受容の態度を認められる図像という3点に着目しながら、仏教図像を対象に、時代と地域を横断したテーマから論じることになりました。
当日は、研究発表に続き、発表者をパネラーとして総合討議を行いました。

勝木言一郎(美術部)
「浄土図の受容」

法隆寺金堂壁画に関する記録は、12世紀初めの大江親通撰『南都七大寺日記』が初出です。金堂壁画が7世紀につくられたとすれば、大江親通が金堂壁画をみるまでに500年の歳月が過ぎていたことになります。その間、金堂壁画に対する見方にまったく価値付けがなされなかったのでしょうか。12世紀初めの仏教とその信仰の中味が金堂壁画の制作当時と同じであるはずもありません。
しかし、法隆寺金堂壁画に関するこれまでの研究は、大江親通が『七大寺巡礼日記』に記した「浄土」ということばに拘泥され、なおかつ四方四仏の呪縛から抜け出ることができなかったように思われます。
今回の発表では、今一度、日本に受容された浄土図を中国における浄土図の展開の中で位置づけ直すことで、改めて日本での受容のあり方を検討しました。その結果、極楽浄土をイメージしたと考えられる初期の日本の作例は、法隆寺金堂壁画や当麻曼荼羅など数点を数える程度であり、いずれも中国唐代に相当するものです。日本人はこれらの数点の作例を単一路線的に結びつけることで、浄土のイメージ形成を語ってきたといえます。
ところが、中国では金堂壁画第六号壁と当麻曼荼羅に類する図像がそれぞれ別の展開を呈したととらえられています。その根拠が中国南北朝後期につくられた阿弥陀浄土変相の作例です。中国南北朝後期の阿弥陀浄土変相が日本に受容されたのかを確認する手がかりは残っていないため、日本では単一的な展開として扱われてしまいました。

水野さや(日本学術振興会特別研究員)
「日本における阿修羅像の図像の受容について」

阿修羅は八部衆の一尊であるとともに、六道における阿修羅道の主としても知られている。
日本における初期の阿修羅像には、法隆寺五重塔初層北面の塑造阿修羅坐像、興福寺に伝来する脱活乾漆造阿修羅立像などがある。これらの八部衆の一尊としての阿修羅像がさきに日本にもたらされたことが、中国・韓国に現存する阿修羅像との比較から確認できる。
つぎに、中国・韓国の阿修羅像の図像からみて、三面六臂または三面八臂で、左右第一手を合掌あるいは持物を執るなど、さまざまな図像が日本に受容されていたと考えられる。したがって、日本における初期の阿修羅像は現状においていずれも持物などを欠損しているが、本来は日輪・月輪・天秤・折尺に似た鈎状の持物を有していた可能性が高いと推察される。
平安時代以降、八部衆としての阿修羅は仏涅槃図などの図像に登場しづけるものの、その流れはしだいに六道における阿修羅像や二十八部衆の阿修羅像へと移行していく。しかしこれらの阿修羅像は、八部衆の阿修羅像の場合と受容が異なっているようであり、一線を画すものであった。

津田徹英(美術部)
「白衣観音の行方」

平安後期において白衣観音の図像は唐本に拠ったものであることが知られるが、「いまだ本説をみず」と諸書に記されるように、典拠不明とされてきた。にもかかわらず、その図像にもとづく造像は院政期、ことに白河院の時代に本格化し、かつ、数ある白衣観音の図像のうち専ら印璽を手にもつ図像が採用され、特殊な意味が白衣観音像に付与されたようである。
しかし院政の崩壊とともに(鎌倉時代以降)、白衣観音の造像は殆どかえりみられなくなる。その後、南北朝時代において、その図像は新たに水墨画の画題として受容され、江戸時代には黄檗宗において再び彫刻による造像がみられる。このように白衣観音の図像はわが国では絶えず受容されていたが、それぞれの時代におけるその図像の意味合いはまったく異なるものであった。
こうした白衣観音の図像がもつ社会的な意味合いの変転について、院政期の場合で考えてみると、単なる唐本の受容にとどまらず、持物としての印鑰(インヤク)に対し、象徴性をもたすことで社会的な意味を見出していたようである。そして、社会基盤の崩壊にともない、その図像は消滅していった。

中野照男(美術部)
「中世の仏伝図と東アジア」

仏教の復興期であった鎌倉時代には、釈尊が唱えた仏教の根本に回帰しようという動きが起こり、釈尊そのものへの信仰も盛んになった。その結果、釈尊の遺物、遺蹟への関心が高まり、併せて天竺や中国へのあこがれも強くなり、この動きの中で、仏伝図が改めて造形された。
中世における絵因果経の新たな制作は、古くに請来された原本の見直しと伝承の例であり、そして宋・元・高麗・李朝の仏伝図の請来と転写は、新たな図像への関心の例である。しかし、鎌倉時代・室町時代を通じて、仏伝図が積極的に制作され、図像や形式に新たな展開がみられたとはいいがたい。また李朝の仏伝図が請来されたとはいえ、それが日本の仏伝図の新たなモデルになったともいえない。仏伝図が民衆レベルにまで普及するには奈良絵本や冊子本の挿絵の登場を待たなければならなかった。

ディスカッション 司会:岡田健(国際文化財保存修復協力センター)

「三国伝来」という言葉に象徴されるように、仏教美術ほど、枠組みとして「影響」を語る美術史研究者に安心感をもたらしたジャンルはないかもしれない。それは対象としての仏教美術があまりにも大きな異文化受容の時と場を呈したからであり、なおかつそれを享受する日本がゴールとして意識されたことによろう。アリアドネの糸をたどっていけば、確実に迷宮から脱出できるように、イメージの流れを西にたずねていけば、確実に源流のインドにたどり着けるという安心感こそが仏教美術研究の「影響」や「伝播」の議論を支えたといえる。
しかし、こうした議論はしばしば日本を主語として、あるいは朝鮮や中国を他者として語ることで終始し、本来イメージ伝播を介在させるはずの人間や社会の存在を見過ごす傾向にあった。たとえば受け手にも、日本という国、セクト、特定の権力者など、さまざまな立場があったこと、そしてそれらが時代や地域によっても多様であったことに対し、理解が広がるだけでも、日本美術におこった異文化受容について有機的に実体をとらえることにつながるであろう。
逆説的にいえば、仏教美術ほど異文化受容の問題を素材として提供するジャンルもない。異文化を伝えたメディア、異文化接触の場、異文化イメージとメタ受容などの問題について、仏教美術を糸口に研究していけば、美術史研究における異文化受容の一つのモデルを提示できるのではなかろうか。

『日本における外来美術の受容に関する調査・研究』2003年3月31日発行
10月30日

綿田稔(美術部)
「雪舟系花鳥図屏風について」

3月19日

山梨絵美子(美術部)
「クンストカーメラ所蔵フィッセル・コレクションの日本絵画」