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2001年度の研究会

平成13年度(2001)
4月25日

津田徹英
「光明本尊考」

はじめに
一、妙源寺本の概要
二、図像学的考察
  1.中央幅(名号幅)
  2.右幅(勢至菩薩ならびに天竺晨旦祖師図)
  3.左幅(聖徳太子・四随臣ならびに和朝先徳図)
三、光明本尊の構想と妙源寺本の制作・伝来
むすびにかえて
  中世真宗門徒における受容と展開

光明本尊は中世の真宗において本尊として用いられた。中世に制作が遡る光明本尊の作例は非常にたくさん知られている。そのなかで愛知・妙源寺に伝来したそれは、作風から13世紀中頃と推定される現存最古の作例である。妙源寺の光明本尊は三幅構成となり、阿弥陀如来の名号軸を中央に置き、勢至菩薩ならびに印度・中国の浄土教祖師群図を向かって左に、聖徳太子・四随臣ならびに親鸞に至る日本浄土教の先徳群図を向かって右に配する。その描くところの構想は親鸞に至る「浄土真宗」の教学が天竺に淵源することを視覚的に示したものである。しかも、各幅の図像は当時よく知られた作例の図様を流用しながらも、それらに加工を施すことで新たな意味付けがなされており、それは各幅の図像相互の関係に及ぶだけでなく、三幅相互にも及んで緊密な関係性をつくりだしている。
各幅の上下に枠囲みをつくって記された讃文と画中の図像それぞれの傍らに記された銘札の筆跡は、親鸞(1173-1263)の高弟・真仏(1209-1258)の筆跡であることから、親鸞在世中の制作であることは確実である。しかも、その讃文は親鸞が撰述した『尊号真像銘文』を出典とすることを考慮するならば、妙源寺の光明本尊の直接の制作は真仏の関与が明白であるが、その構想は師であった親鸞の可能性が高い。これまでの光明本尊研究においては、それは親鸞没後に構想された異端の画像とみられることが多かった。しかし、その評価は改めるべきであろう。

THOUGHTS ON THE KOMYO HONZON SACRED LIGHT BUDDHIST INSCRIPTION

The Komyo Honzon iconography, literally the sacred light inscription of the name of the Amida Buddha, was worshipped as a central image by the Shinsh? or Pure Land sect of Japanese Buddhism during Japan's medieval period. One such image has been handed down in the Myogenji temple in Aichi. The Myogenji example is surmised to have been created in the middle of the 13th century and hence dates as Japan's oldest Komyo Honzon image. The Myogenji Komyo Honzon image is a triptych with the name of Amida Nyorai inscribed on the central hanging scroll, flanked by images. The left scroll shows Seishi Bosatsu (Mahasthamaprapta) and the Indian and Chinese patriarchs of the Pure Land sect. The right scroll shows images of Shotoku Taishi and four attendants, Shinran (1173-1263) and early Japanese patriarchs of the Pure Land sect. This triptych provides visual evidence of the fact that the Jodo Shinsh? Pure Land sect founded by Shinran originated in India. Further, the iconography of each of the figures coincides with iconography that was well known during this period in Japan, and yet the conscious addition of specific traits to each of these figures gives new meaning to the images. This indicates not only the iconographic interaction of the figures within each of the scrolls, it also provides close links between all three scrolls.

Each of the scrolls is framed top and bottom with inscriptions and the name plaques of the figures shown in the compositions. Judging from the fact that these inscriptions were written by the closely connected Shinran disciple Shinbutsu (1209-58), the work can be seen to have been created while Shinran was alive. Further, given that these inscriptions appear in the Songo Shinzo Meimon [anthology of Pure Land Buddhism] selected by Shinran and that the creation of the Myogenji Komyo Honzon was directly connected to Shinbutsu, it is highly likely that the composition of this work was created by Shinbutsu's teacher, Shinran himself. In previous research on the Komyo Honzon imagery this compositional form has been considered to have been created after Shinran's death. This evaluation needs to be revised. (translated by Martha J. McClintock)
5月31日

勝木言一郎
「中国における共命鳥の図像について」

6月27日

山梨絵美子
黒田清輝筆「智・感・情」について」

7月25日

異文化受容と美術 第1回ミニシンポジウム「鎌倉・南北朝時代における外来美術の受容―宋風の問題を中心に―」
於:東京文化財研究所 地下1階セミナー室
プログラム
発表:1:15~3:15
ディスカッション:3:30~5:00

日本の美術史にとって、中国や西洋などの美術の受容が極めて重要であることは言うまでもありません。この問題については、様々な時代やジャンルについて語られていますが、受容や影響の語のもとに一面化されるきらいがあり、また無前提に設定された語りの枠組みが視野を狭め、問題の広がりとその解明を阻害していることもあるようです。
この研究では、美術に見られる異文化受容にかかわる諸現象と、それについての語りの枠組みを点検・整理しながら、時代やジャンルにおける差異と共通性を明らかにし、全体の見取り図を描くことを考えています。具体的には、1)時代別の受容の実態とそれについての言説の問題点を横軸に、2)時代を通じて現れる事象、例えば異文化を伝えたメディアや異文化接触の場、異文化イメージとメタ受容などの問題を縦軸として、共時的分析と通時的分析を綴り合わせ、3)さらに異文化受容の特異点ともいえる事象を加えて研究を進めています。
今回のミニシンポジウムでは、鎌倉時代から南北朝時代を取り上げました。この時代については、仏画・仏像・水墨画・寺院建築などの研究者が、それぞれに「中国の影響」を語っていますが、そのイメージが共有されているとは言えそうにありません。例えば、常に使われる「宋風」という用語にしても、仏教絵画史研究者と彫刻史研究者が、この語を持ち出すとき、それぞれに喚起されるイメージには微妙なズレがあります。そもそも「宋風」というとき、そこに想定される規範となり得たものの実体は何だったのでしょうか。今回は、この曖昧な受容概念を検証しながら、主として鎌倉・南北朝時代における中国美術の受容について皆様とともに考えてみました。

島尾新
「初期水墨画と宋風」

初期水墨画についてこれを語るとき、宋代絵画の影響は当然であることから「宋風」の語は使わないものの、問題の外にいる訳ではないと認める。初期水墨画には仏画の要素が多分に含まれ、当然、それらも視野にいれた研究がなされなくてはならない。しかし、これまでの研究においては、非常に偏頗な枠組みを設定しながら語ってきたのではないか。すなわち、禅宗という一宗派との関わりのなかで、その上限を蘭渓道隆や一山一寧の来朝をもって語り始めるとともに、そこから抜け落ちてしまったものは「水墨画」の枠の外側に置いてしまっており、また、発信する側も受信する側にも様々な地域と社会集団・事情がかかわっていたとみられるにもかかわらす、それが実際に語られる場合、多くは中国と 日本という二元論に単純化しすぎている。しかも、偏に枠組みを研究者自身が設定してしまっていることに起因するのではないか。

山本勉(東京国立博物館)
「宋風彫刻の基本的問題」

彫刻における宋風というとき、決して宋代の彫刻そのものから影響を受けたものではない。宋仏画から形を借りて仏像が新たな装いを凝らしたものという水野敬三郎氏の論文「宋代美術と鎌倉彫刻」〔『國華』一〇〇〇号、一九七七年〕における見解が多少の修正を加えながらも、現在でも彫刻史研究者の支持を得ている。そして、鎌倉彫刻における宋風の影響については、東大寺の再興に際しての重源を中心として取り入れられた宋風、京都泉涌寺の俊●や湛海などによってもたらされた宋風、鎌倉地方における宋風の三つに分けて考える必要があり、それらが「宋風」の語で括られてしまうことで、かえってわかりにくくなっているのも否めない。しかしながら、彫刻史における「宋風」の論議とし ては、宋風が宋代絵画を写したものか、あるいは、宋代彫刻からの直接的な影響とうことを問題にする以上に重要視しなければならないのは、イメージとして中国そのものという、それまでの(平安後期の)和様彫刻にない雰囲気が求められた結果、出現したのが彫刻における「宋風」であったということではないか。

林温(文化庁)
「絵画における宋風」

仏画の研究において「宋風」と言うとき、唐風、あるいは、伝統的といった言葉の対の概念として用いられることが多く、具体的には、奈良・平安期の仏画は唐風もしくはその継承であるのに対し、平安時代末期以降に表れる表現上の新しい特徴を指しているのではないか。しかしながら、その「宋風」というのは実際に何を意味しているのか、そのモデルはどこに求められるのか、あるいは、宋風というのは一様なのか、「宋風」の影響もしくは受容の仕方は一律なのか、等々についてはもっと詳しく検討しなければいけない。「宋風」というとき、南宋仏画の影響に関心がゆくようであるが、三〇〇年にわたる宋代にあって、当然、絵画の変遷はあった訳であり、南宋仏画に先行する北宋仏画を明確にしたうえ でなければ南宋仏画の位置は明確化しえない。また、その日本における影響を論ずることもできないであろう。そして、そのような認識に立って平安後期における北宋仏画の影響というものを、久安元年(1145)に定智によって制作されたことが知られる平安仏画の基準作例である和歌山・金剛峯寺蔵の「善女龍王」にみる雲の表現をめぐってケース・スタディを行い、当代中国の作例との比較のなかで北宋仏画とその影響を考えてみた。

津田徹英
「鎌倉地方における宋風」

鎌倉彫刻における「宋風」を唐物趣味を背景に日本において作り上げた異文化・中国に対する彫刻のイメージでないか。その具現化の手だてとしては、請来仏画を参考にしたこともあり得たであろうが、その依存度は当代の発注者、制作者、地域によってまちまちであり、そのことを奈良・京都における作例と、鎌倉地方における作例を比較することで際立たせ、彫刻史のなかで語られる「宋風」の語にはかなりの作風の幅があるように見受けられる。しかも、宋風彫刻からは宋代彫刻を類推委することも出来ない。にもかかわらず当代彫刻の特徴を「宋風」の語であえてひとつに括ろうとするならば、いずれにも通底する中国志向(唐物趣味)として括ることでそれは可能ではないか。

ディスカッション 司会:井出誠之輔

日頃、絵画史研究者と彫刻史研究者が同じ問題について意見を出し合い討議することがないことを思えば、「宋風」というテーマでそれぞれの立場から基調報告することで、「宋風」の概念が、かなり違いのあることが改めて確認でき、議論を交わせたことはひとつの成果といえよう。しかし、それぞれが、それぞれの「宋風」の概念・問題を語ることに終始したきらいがあることも否めない。
そもそも、何故、この「宋風」が問題となるのか、その語を用いることで日本美術にどのような枠組みが設定され、これまで当代の美術の何をどう語ろうとしてきたか、そして、その枠組みというものはどのように生成され、今に至ったか。また、その語りの枠組みを設定することで語り易くなった点は何であり、逆にみえなくなってしまったことは何であったのか、限界は何であるのかといことの論議にたどり着くまでに時間切れとなり、当代の美術を考えてゆく上での、語りの新しい枠組みの可能性を探るに至るまで討論が至らなかったことも反省材料と今後の課題を残すことになったといえる。とともに、これを単に鎌倉・南北朝時代の特殊な問題としてしまうのではなく、常に外来美術との関わりのなかで日本美術を語る場合に起こり得るという問題意識の共有化がどこまで参加者とともにできたかという点にも課題が残ったように思われる。

『日本における外来美術の受容に関する調査・研究』2003年3月31日発行
11月21日

『黒田清輝筆「智・感・情」の資料学』

山梨絵美子
「黒田清輝筆「智・感・情」について」

井手誠之輔
「「智・感・情」の調査に用いた光学的手法について」

1月30日

中野照男
「クムトラ石窟の現状と美術史的な課題」

2月20日

中国壁画研究協議会 「中国壁画」

中野照男
「中国壁画の研究」の目的と研究対象 ―北京智化寺の壁画を例として―」

早川泰弘
「蛍光X線による壁画顔料のその場分析」

山崎淑子(成城大学)
「敦煌莫高窟・唐前期窟における仏龕の形状変化とそれをめぐる問題」

勝木言一郎
「浄土景観を構成するモチーフとしての鐘楼 ―敦煌壁画の阿弥陀浄土変相・観経変相を中心に―」

2月27日

グレイシャ・ウィリアムス(バークファウンデーション学芸員)
「詫磨栄賀に関連する14世紀の絵画について」

島尾新
珠光筆と伝えられる絵について」

3月27日

異文化受容と美術 第2回ミニシンポジウム「江戸時代後期から幕末・明治初期における「漢」と「洋」―南蘋派と洋風画を中心に―」
於:東京文化財研究所 地下1階セミナー室
プログラム
発表:13:15~15:15
ディスカッション:15:30~17:00

日本の美術史にとって、中国や朝鮮・西洋などの美術の受容が極めて重要であることは言うまでもありません。この問題については、様々な時代やジャンルについて語られていますが、受容や影響の語のもとに一面化されるきらいがあり、また無前提に設定された語りの枠組みが視野を狭め、問題の広がりとその解明を阻害していることもあるようです。
この研究では、美術に見られる異文化受容にかかわる諸現象と、それについての語りの枠組みを点検・整理しながら、時代やジャンルにおける差異と共通性を明らかにし、全体の見取り図を描くことを考えています。具体的には、1)時代別の受容の実態とそれについての言説の問題点を横軸に、2)時代を通じて現れる事象、例えば異文化を伝えたメディアや異文化接触の場、異文化イメージとメタ受容などの問題を縦軸として、共時的分析と通時的分析を綴り合わせ、3)さらに異文化受容の特異点ともいえる事象を加えて研究を進めています。
今回のミニシンポジウムでは、江戸時代後期から幕末・明治初期を取り上げました。この時期の大きな特色の一つに、幕末を境にして「漢」と「洋」の位置の逆転現象が見られることは、これまで繰り返し指摘されてきました。平たく言えば、文明開化の風潮によって、外国に対する日本の関心の中心が中国から西洋へと方向転換したという認識です。しかし近代そのものが相対化されてしまった今、このような考え方は、近代の価値観を江戸時代に押しつけたものとして批判を浴びるようになりました。
今回は、昨年、南蘋派の流行と司馬江漢の画業をテーマにした2つの展覧会が開催されたのを機に、この問題をあらためて考えてみたいと思います。「漢」と「洋」の受容を同時代の文脈のなかに位置づけ直すとき、そこにはどんな視野が開けてくるのでしょうか。またそれは、どんな意味を現在のわたしたちに投げかけてくるのでしょうか。

金子信久(府中市美術館)
「司馬江漢の風景画をめぐって」

これまで司馬江漢は「洋画の先駆者」としての評価が先行し、芸術性よりも技術的な先見性に意義が見出されため、江漢の絵画そのものが正当に評価されたとはいいがたい。従来の説は、天明から寛政年間を西洋画法の学習期、寛政年間後半を応用期とし、日本の新しい風景画を開拓したとする一方、江漢の風景図を、精神性を重視した文人画の真景図と対置して、もっぱら技術的な成果としてのみ評価してきた。そのため、淡彩画や墨画を制作した晩年期は、西洋画法の限界を自覚した「回帰」として捉えられてきた。しかし最近では、「洋画の先駆者」という評価自体が明治以降に形成されたことが明らかになった。従来の江漢像から離れて、ひとりの画家として見たとき、江漢が実景の再現だけを目指したのではなく、自然の風景に接して誰もが感じる感興や感激を率直に造形化したことが理解される。結局、江漢は、新たな空間表現の技術と、実景という新たな題材とを用い、従来の山水画に代わる、新しい自然景の絵画を創出した。晩年の作風も、この延長上にある新しい画風として、積極的な意義があると考えるべきだ。

伊藤紫織(千葉市美術館)
「江戸の異国趣味―南蘋風大流行」

従来の美術史は、南蘋派を沈南蘋の影響をうけた江戸時代諸派として、秋田蘭画を洋風画の先駆として扱ってきた(発表では割愛されたが図録本文では、秋田蘭画が洋風画の文脈で語られる理由として、明治三六年〔一九〇三〕に初めて角館出身の画家平福百穂がこの一派を紹介した事実が指摘されている)。これに対して今回の展覧会「江戸の異国趣味」では、両者を「異国趣味」として一括りにした。理由は、一度先入観を拭ったうえで、両者を一括りにして比較対照しないかぎり、双方の正当な評価ができないと考えたからである。秋田蘭画の作例が少数であるのに対し、南蘋派の作例が圧倒的な数にのぼる一方、両者は、大名や高位の武士によって描かれ、彼らが中国趣味と、オランダに対する「蘭癖」を合わせ持っていた点で共通する。「漢」は、「洋」の存在によって相対化され、畏敬の対象から、容易に同化できるものに変化したのではないか。南蘋風の流行は多分に趣味的な側面をもつが、その理由はこの点に求められよう。

山梨絵美子
「開成所画学局再考」

幕末の開成所画学局に学んだ高橋由一の『高橋由一履歴』の中に、「絵事は精神の為す技なり」という有名な一節がある。これは一般に、近代的な芸術家だった由一を表わす言葉として受け取られているが、この発言は画学局の考え方に対する由一の反論として理解できる。すなわち画学局とは、精神の技として絵画を教える所ではなく、画像の真影性、写実性を追求してさまざまな技術を研究する所だった。そこで学んだ川上冬崖は油画だけでなく、地図製作、石版印刷に、島霞谷は写真、地図、解剖図、活字の制作に、中島仰山は博物図譜、写生図、写真に携わった。その周辺の人々には、たとえば写真師の横山松三郎や、明治六年(一八七二)のウィーン万博に伝習生として同行し、銅板画と石版画を習得した岩橋教章がいる。幕末の開成所画学局に連なる者たちは、芸術的な作品の制作を目指したのではなく、そこで得た技術をさまざまな方面に展開させた。それによって、彼らの幅広い範囲の活躍が可能になった。

ロバート・キャンベル(東京大学)
「幕末に人はなぜ絵を見たか」

幕末から明治初期の文学表現を手掛りにして、この時期の書画に期待された役割について考えるとき注目されるのは、知識階級に属する武士の出身で、為政者の立場にあったり、経世思想に深く関わった人たちの間で、書画が国の運営(経世)にとって有益であるとする考えが目立つようになることである。たとえば、幕末から明治初期に使われる「縮地の術」という言葉も、書画の技術的な側面での有用性を自覚した形容であろう。このように、書画に有益性や有用性を見出す風潮と論調は、それまで書画が代表してきた古い文化を無益なものとして退けるようになり、維新期から明治十年代にかけて書画改良論が登場する。いいかえれば、幕末から明治初期には、書画に精神涵養を求める伝統的な考え方(一種の書画風雅論)つまり、精神修行としての書画の制作と鑑賞が一方にあり、そして、もう一方に新しい書画有用論が出てきて、両者が並立していた。

ディスカッション 司会:鈴木廣之

今回の討論の中で言及された話題はおよそ多岐にわたるが、論者の共通の関心から取り上げられた論点として注目されるものに、絵画ないし書画の有用性の問題が挙げられる。一言でいえば、絵画に何が求められたのか、という問題である。絵画の側からいえば、それは絵画が果たした役割の問題である。たとえば、時代によって、ジャンルによって、あるいは制作者と受容者の個人や階層の違いによって、それは変化するだろう。関連する個々の話題については「討論」のページを参照していただきたいが、「異文化受容」のテーマに即していえば、受容者が期待する有用性の問題がある。つまり、ある絵画や技術がもたらされるとき、受け手の側がそこに何を求めるかが一種のフィルターとして取捨選択の働きをもつ。この意味で「異文化受容」における受け手の側の主体的な選択のあり方を想像することができる。この問題は、従来の「影響」概念を批判的に再考する論点となるので、今後の議論に期待したい。

『日本における外来美術の受容に関する調査・研究』2003年3月31日発行