遊興文化の残映 ― 彦根屏風の光学調査と情報化 ―

江村知子
東京文化財研究所
主著等: 「光琳と紋―光琳の意匠性と光琳関係資料」『国宝燕子花図―光琳 元禄の偉才』(展覧会図録、根津美術館、2005年)
「光琳の蒔絵製作と絵画」『美術史』159冊(2005年10月)
「根生いの分限、絵描きへの道―尾形光琳を取り巻く環境と作品制作について―」『美術研究』392号(2007年9月)
「彦根屏風の表現について」『国宝 彦根屏風』(彦根城博物館・東京文化財研究所編、中央公論美術出版、2008年)

 本発表は、平成18〜19年度に彦根城博物館と東京文化財研究所で行った、「彦根屏風」の共同調査研究の成果にもとづき、作品そのものから得られる情報をどのように利活用するかを示すことを目的とする。近年この作品は経年による傷みが進行していたため、2ヵ年をかけて本格的な解体修理および改装が行われ、その前後に調査を行った。「彦根屏風」は、近世初期風俗画を代表する作品である。特に人物や器物のすぐれた細密表現、格調高い画中画の水墨山水、深い物語性を感じさせる巧みな構図が高く評価され、数多くの議論の対象となってきた。
 今回の調査で得られた重要な知見として以下の2点を例示する。まず近赤外線撮影により、下描き線の存在と、描かれている15人全員の着衣に合計9色の指示書きがあることがわかった。文字の筆跡や状態から判断して、六扇全てが一貫した構想のもと、同一筆者によりなされたものと判断できる。また詳細な指示によって彩色していることから、複数の絵師が制作にかかわっている可能性が指摘できる。
 次に高精細デジタル撮影により、顔が描かれている13人全員の顔貌表現に緻密な共通点が確認できた。「彦根屏風」に描かれている成人男女の大きさは、立像が体長約40 cm 、座像が約20 cm 程度で表されている。人物の目頭から目尻までの長さ、つまり眼の大きさは横幅1 cm に満たない。その白目部分、瞳の両脇に左右一つずつ、0.5 mm 程度の白点が打たれている。横向きの人物や盲目の人物をも含む老若男女全員の全員に共通する様式的特徴と言える。実際の作品を注意深く観察すると、ようやく認識できる程度の微細な点描であるが、見る角度が変わるとそのわずかな絵具の盛り上がりが潤んだ瞳の煌めきのように認識できる。意図的な表現効果と言えるが、このような特徴が絵師の個性によるものか、時代、工房、画題によって広がりを持つものなのか、今後調査を進めていく必要がある。未だ不明な点の多い風俗人物画における筆者問題や様式問題を考える上で一つの手がかりと言える。
 ところで「彦根屏風」は近世風俗画の中で突出してすぐれた作品で、同等に比肩できうる作例がない、とも言われてきた。しかしこうした作品が他にまったく存在していなかったとは考えにくい。細部にこだわって描写することは日本絵画の伝統的手法の一つである。注意深く作品の細部を観察しながら全体像を把握し、他の作例と比較することは美術史の基本的作業である。
 「彦根屏風」は今回の修理を含めて少なくとも二回以上本格的な修理がなされ、制作当初の形状や状態からは多少なりとも変化していると見られる。とは言え、作画の工程、絵の表面の状態を知ることは、まさに作品の「オリジナル」に迫ることである。作品を構成する要素を情報として収集、整理、蓄積していくことによって、その作品のみならず、絵画史上の位置付けや表現の系統を明らかにすることができ、文化財アーカイブとしての一端として利用することが可能なのである。