サー・ロバート・ウィット・ライブラリーと矢代幸雄の美術研究所構想

山梨絵美子
東京文化財研究所
主著等 「黒田清輝と国民美術協会」『大正期美術展覧会の研究』(東京文化財研究所編、中央公論美術出版、2005年)
「林忠正と日本における「美術」および「工芸」の概念の確立」『林忠正―ジャポニスムと文化交流』(林忠正シンポジウム実行委員会編、ブリュッケ、2006年)
「日本近代絵画にみる農耕主題とその背景」『田園讃歌展図録』(展覧会図録、埼玉県立近代美術館、2007年)
「黒田清輝《湖畔》のモデルをめぐって」『黒田清輝《湖畔》』(中央公論美術出版、2008年)

 美術史学が美術を対象とする歴史学のひとつである以上、考察の対象とする作品や資料がいつの時代のものであり、誰によって作られたかを評価する作業は避けることができない。その作業の大きな手がかりとして欠かすことのできない画像資料の整理の仕方は、作者別、所在地別、主題別などに大別されるだろう。本発表では、東京文化財研究所の母体である美術研究所が設立される際に手本となった、イギリスのサー・ロバート・ウィット・ライブラリーの成り立ちと、そのあり方を巡る議論を例に、資料の整理方法が研究の方法論と結びついてきた歴史を振り返り、今日の美術史学に寄与し、かつ中長期的有効性を見込める資料整理のあり方を考えるための一助としたい。
 1890年代にオクスフォード大学でルネサンス史を学んだロバート・ウィット卿が大学時代から収集したイタリア絵画の写真のコレクションは、1920年代半ばには30万点を越えており、その圧倒的量が1926年にドイツの美術史家フリッツ・フォン・ザクスルの眼にとまって、にわかに脚光を浴びた。ウィット卿は画像資料の被写体となっている作品の評価も、資料としての画像の良し悪しの評価も差し挟まず、入手可能な画像資料を渉猟し、作家の名前別にファイリングを続け、当時有数の美術作品写真資料のコレクションを築いていた。
 当時のヨーロッパ美術史界は、1834年に美術史が大学のカリキュラムに取り入れられたドイツで、ブルクハルト、ヴェルフリン、ドヴォルシャックらが文化史的視点から造形作品への新たなアプローチを行い、ヴァールブルグとその一派が確立したイコノグラフィー研究が盛んになる一方、フランスとイタリアでは、従来の鑑定法をコード化し、自然科学的種別分類のシステムを造形作品の分類に応用しようとしたダルジェンヴィルとモレリの様式分析を継承して、イタリア絵画の様式分類をシステマティックに行ったベレンソンとヴェントゥーリが活躍していた。
 前者に属するザクスルは、イコノグラフィー研究の視点からウィットの画像収集が作品や作家の評価を差し挟まずに行われている点、および作家別に分類している点を批判し、分類法を主題別に改めるべきだと述べている。しかし、私財を投じてこの事業に当たっていたウィット卿は、自らの方針を変更することなく、収集・整理を続けた。それは1952年のウィット卿の逝去後、未亡人と遺族に引き継がれ、同ライブラリーがロンドン大学コートールド美術研究所の一部となった現在でも継承されている。
 1921年に欧州へ留学し、ベレンソンのもとでボッティチェルリ研究に勤しんだ矢代幸雄は、ウィット卿の知遇を得、そのライブラリーで自ら調査することによって、有用性を高く評価していた。帰国直後に黒田清輝の遺産による事業としてこうした機関の設立を提案して、美術研究所の構想を立て、東洋美術の画像資料の収集・整理・公開を事業のひとつとした。その整理方法は、作家別と主題別を併用しており、当時の西洋における美術史学のふたつの主要な方法論の双方に対応しているように思われる。
 第二次大戦後、美術館・博物館が増加する一方、画像を作成する技術が発達し、ウィット・ライブラリーと類似の役目を果たす機関が増え、70年代には存続が危ぶまれたことが雑誌文献に見える("The Witt Library", The Burlington Magazine, 803, Feb. 1970)。美術史学の方法の多様化、デジタル技術の発達による情報環境の変化などの中で、同ライブラリーが抱える問題と現在の活動を紹介し、画像資料の望ましい収集と整理の方法を考えるための参考に供する。