仏像の修理・修復 ― サンフランシスコ・アジア美術館の脱活乾漆像をめぐって ―

皿井舞
東京文化財研究所
主著等: 「平安時代中期における光背意匠の転換−平等院鳳凰堂阿弥陀如来像光背における雲文の成立を中心に−」『美術史』152冊(2002年3月)
「日本彫刻史における金泥塗り技法の受容について」『佛教藝術』273号(2004年3月)
「醍醐寺薬師三尊像と平安前期の造寺組織(上・中)」『美術研究』392・393号(2007年9月・2008年1月)

 サンフランシスコ・アジア美術館に所蔵される梵天・帝釈天の二躯の仏像は、脱活乾漆技法でつくられており、この技法によってなった数少ない、奈良時代の遺品の一つとして知られている。本像は、明治末年頃に、益田英作が奈良・興福寺より一括して買い取った仏像のうちの一つで、その後長らく益田家に所蔵されていた。1965年に、アメリカのコレクターであるブランデージ氏の手に渡り、後にアジア美術館に寄贈されたものである。  本発表は、この転々と居所を変えた二躯の仏像を素材とし、像のオリジナルの姿を探りたいと思う。
 さて、よく知られているものだが、明治末年頃の興福寺の様子を写した古写真がある。これは仏像を買い取りの直前に撮影されたものと考えられるもので、そこには、破損した多くの仏像にまじって、この梵天・帝釈天像の姿が写されている。その写真によると、梵天像は頭部が半分欠け、帝釈天像にいたっては頭部がすべて失われており、いずれも大破したいたましい状態であったことが知られる。そのため、従来、いずれの像も、制作当初のいわゆるオリジナルな部分はほとんど残されていないと見なされることが多かったようである。
 本像は、現在につながる仏像修理の基礎を築いた、美術院第二部の初代院長新納忠之介によって、大正時代初頭頃までには現在の姿に整えられていた。残念ながら、本像の修理仕様書は見当たらず、どのような修理が行われたかを直接的に知ることはできない。そこで、アジア美術館が所蔵する本像のX線透過撮影画像などを利用しながら、当時の修理がどのようなものであったかについて検討を行う。また、明治時代に興福寺から流出した脱活乾漆像のいくつかと比較することによって、近代的な修理がはじまった明治時代の修理方針や修理に対する認識を、あわせて考えてみたいと思う。
 また、これらの作業を踏まえ現在の作品の姿を明らかにしたうえで、本像の位置づけについて、説き及びたい。  作品の現在の姿を、その歴史的な変化の様子を踏まえて明らかにすることは、作品研究の土台となる基礎的な作業であることは言うまでもない。本発表は、きわめてありふれた作品研究のための基礎作業を述べているにすぎない。ただ、こうした基礎作業の積み重ねが、結局のところさまざまな資料の蓄積となり、それがいわゆるアーカイブを形作ることに繋がるのだろう。