古典芸能の伝承と変遷 ― 人形浄瑠璃文楽の場合 ―

飯島満
東京文化財研究所
主著等: 「虚構の中の桶狭間―『木下陰狭間合戦』小論―」『2003年度演劇研究センター紀要III』(2004年)
「二代目鶴沢清八『義太夫 名人の型』―「明治文楽」追懐―」『芸能の科学』32号(2005年)
『義太夫節浄瑠璃未翻刻集成5 尊氏将軍二代鑑』(玉川大学出版部、2006年)
「歌舞伎SPレコードの行方」『歌舞伎 研究と批評』38号(2007年2月)
「吉田兵次「とやぶれ」」『無形文化遺産研究報告』1号(2007年)

 いま仮にオリジナルを、原初の姿という意味で用いるならば、日本の古典芸能では、実演者にしても、研究者にしても、「オリジナル」すなわち初演時の上演形態を、回帰すべき(あるいは到達すべき)目標として意識するといったようなことは、少なかったのではないかと思われる。古典芸能の伝承の実際は、それぞれの芸能で事情が異なるので、ここでは人形浄瑠璃文楽を事例に取り上げる。
 人形浄瑠璃文楽の歴史は1684年に始まる。現行レパートリーの中では、初演年が1710年前後となる作品が、年代的には最も古い。文楽の舞台は、太夫と三味線弾きが演奏する義太夫節浄瑠璃と、人形遣いによる人形の演技で成り立っている。浄瑠璃の演奏も、人形の操作も、初演当時から現代に至るまでの間、変化し続けてきている。音曲面についていえば、太夫の語りには、現在でも規格化された記譜法がない。文字通り、口承で伝えられてきたのである。三味線には譜が存在するものの、記譜法が整理されたのは1800年代に入ってからであった。浄瑠璃の音楽上の要素は、伝承の過程で変化してきたものと考えるのが自然であり、事実、それを指し示す証左には事欠かない。
 一方、現在の文楽人形は、主要登場人物については、一体を三人の人形遣いが操作している。ところが、初期の人形浄瑠璃は一人遣いであった。通説によれば、三人遣いが用いられたのは1734年からである。しかも、その当初は、場面によって一人遣いと三人遣いが併用されていたのだという。主要登場人物全てが三人遣いとなった時期は特定されていない。しかし、1700年代後半を溯ることはないであろう。
 人形の操作方法の変化は、音曲面にも影響を及ぼしたと考えられている。人形一人遣いの時代に初演された作品が1800年代に上演された際には、三人遣いの動きに合わせ、浄瑠璃の曲節にも手を加えなければならないからである。ただし、その改変がどの程度のものであったのかは、譜が残されていない以上、厳密には分らない。
 人形浄瑠璃の人形遣いは、人形の動きをより人間に近付けるべく、三人遣いの技術を編み出し、改良しつづけてきた。太夫や三味線弾きも、上演を重ねる中で、曲節に様々の洗練を加えてきた。人形浄瑠璃文楽が、今なお、鑑賞に堪えうる演劇として上演されているのは、そうした努力の賜物なのであろう。確かに、1700年代の作品の多くが、初演時は一人遣いで演じられていた。浄瑠璃も現在とは異なった曲節で演奏されていたに違いない。そうではあっても、浄瑠璃も人形も初演当時のものに復そうと考える文楽技芸員はおそらくいない。一般の観客もまた、敢えてそれを望まないのではあるまいか。
 勿論、文楽には、伝統芸能としての一面も存在する。芸能は、再演のたびごとに、以前と同じ舞台を再現してきたのではない。上演を繰り返すごとに、新たな工夫が生れていたであろう。それが次に活かされることもあれば、得手勝手な改悪と見なされ、別の工夫に取って代わられることもあっただろう。時代時代の風潮に合わせて変わることができた芸能が、古典として生き残ったのだともいえる。先人達によって積み重ねられ、ときには取捨選択されてきた工夫、師匠から弟子へと受け継がれて現在に至ったその総体、変化し続けているその最先端こそ、現代の我々が目にしている伝統的古典芸能の姿なのである。