燈明寺(東明寺)「六」観音像をさぐる

シェリー・ファウラー
カンザス大学
主著等: “Distance Far and Near in the History of Japanese Temple and Shrine Precinct Prints”, Artibus Asiae 68/2, forthcoming.
“The Muroji Golden Hall Wall Painting or “Taishakuten Mandara”, Georges Bloch-Jahrbuch, Universität Zürich Kunsthistorisches Institut, forthcoming.
“Travels of the Daihoonji Six Kannon Sculptures”, Ars Orientalis, vol. 36, forthcoming.
“Between Six and Thirty-three: Manifestations of Kannon in Japan” and two catalogue entries in Kannon, Divine Compassion: Early Buddhist Art from Japan (Kannon Gottliches Mitgefuhl Fruhe buddhistische Kunst aus Japan), Zürich: Rietberg Museum, 2007.
Muroji: Rearranging Art and History at a Japanese Buddhist Temple, Honolulu: University of Hawai’i Press, 2005.

 京都府相楽郡加茂町にかつて所在した燈明寺(東明寺)の5躯の仏像は、日本における六観音信仰の像を研究する上で大変貴重な作例である。観音菩薩は、一切の衆生のためにさまざまな姿形で顕現するが、その中でも六観音菩薩はひとまとまりとなって、六道に堕ちた衆生を救済するという特別な役割を担っている。六観音信仰は10世紀から15世紀にかけて流行したが、六観音像の大半は散逸もしくは破壊されたため、その全体像は未だ明らかではない。文献史料によれば、燈明寺にはかつて6躯の観音像があったようだが、現存するのは5躯であり、うち1躯には1308年の銘がある。像の幾つかは、大きさや様式が異なっており、複数の工房で造られたようであるが、ほぼ同時期の作と考えてよいだろう。これは、15世紀に新しく本堂が建てられた際、六観音の概念に見合った像を各地から寄せ集めた結果であると考えられる。当時大変つつましい寺であった燈明寺にとって、新しい本堂に安置する観音像を新造するよりも、これが容易な方法だったのであろう。そして、後に燈明寺が観音信仰の巡礼路の札所になると、これら六観音像が燈明寺の呼び物とされたのである。
 現在、観音像は、かつての寺地に建つコンクリート製の収蔵庫内に安置されており、1919年に成立した仏教団体からの援助を受けた御霊神社により管理されている。5躯の像は、収蔵庫内の祭壇に擬せられた壇上に横一列に並べられているが、ここはもはや寺としては全く機能していない。像の回りには、歴史的に重要な資史料、たとえば古いセンや、歴史的な写真、かつての寺の小さな模型などが陳列されており、寺の歴史を語るためのいわばアーカイブとなっている。
 一方、仏教寺院が機能しなくなったとき、その建物には何が起こるのだろうか。15世紀の燈明寺本堂は、六観音像の安置場所であったが、1948年の台風によって被害をうけ、横浜の三渓園に寄贈される1982年まで放置されていた。三渓園に移築・改築された後は、礼拝の場としての機能を完全に失い、園内に設置された建造物、即ちアトラクションの一つとなっている。建物内部には、かつて六観音像を擁していた厨子が復元され、そこには六観音のうち十一面観音像のレプリカが陳列されている。
 燈明寺の「六」観音の物語に引きつけられるのは、それらの過去の断片が、こんなにもちりぢりに散逸してしまっているからである。6躯の像は、15世紀までに各地から集められ、のちにその1躯が失われたと考えられる。また現存する5躯の像はもとの寺地に建てられた収蔵庫に納められる一方で、寺の本堂は横浜の庭園に移築された。本発表では、かつての本堂、そしてこれらの仏像を六観音の一群として再構築することを通じて、六観音と燈明寺をめぐる歴史の中での寺/庭園名所、聖/俗の役割を考察する。
(皿井舞 訳)