『諸説不同記』と「現図」胎蔵曼荼羅

津田徹英
東京文化財研究所
主著等: 『中世の童子形』(日本の美術442号、至文堂、2003年2月)
『中世真宗の美術』(日本の美術488号、至文堂、2006年12月)
「横浜・龍華寺蔵 脱活乾漆造菩薩半跏像をめぐる知見」『龍華寺蔵菩薩半跏像 美術研究作品資料4』(中央公論美術出版、2007年)
「統一新羅時代の八大明王像をめぐって」『韓国の浮彫形態の仏教集合尊像(四仏・五大明王・四天王・八部衆)に関する総合調査』(科研費報告書、2008年)
「滋賀・錦織寺不動明王像の周辺―不動明王彫像の額上髪にあらわれた花飾りへのまなざし―」『佛教藝術』299号(2008年7月)

 『諸説不同記』は法三宮真寂(886―927)が胎蔵曼荼羅にあらわれた360余の各尊について「現図」にもとづき像容を記述したものである。この「現図」とは、空海が延暦25年(806)に中国から持ち帰った金胎両部曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅を指す。この原本は空海在世時から損傷が進んだようであり、今日、原本を忠実に伝えるとみられるのは、空海が神護寺灌頂堂に安置すべく金剛界曼荼羅ともども天長6年(829)に制作したと推定される紫紺綾地に金銀泥をもって描かれた神護寺本の大曼荼羅(いわゆる高雄曼荼羅)である。ただし、高雄曼荼羅の現状は絵絹の破損剥落が著しく、そこに描かれた各尊の図様の詳細を肉眼で確認することは困難を極める。むしろ、各尊の図様の詳細を知ることができるのは、長承3年(1136)に兼意が「高雄金泥曼荼羅」の諸尊を逐一模写した白描本の系統に属する長谷寺本(巻子装)と高山寺伝来本(帖装)であり、さらには後者を底本として明治2年(1869)に開版された「御室版両部曼荼羅」である。そうとみるとき、『諸説不同記』は文字史料であるものの、兼意による「高雄金泥曼荼羅」の図様模写を約200年遡り、かつ、「現図」胎蔵曼荼羅の彩色諸尊について詳述した現存最古の史料ということになる。史料性は極めて高いといえよう。
 この『諸説不同記』の活字本には、京都・東寺観智院金剛蔵に伝来した現存最古の完本である建武2年(1335)の写本十帖を底本として、昭和8年(1933)に活字翻刻された『大正新脩大蔵経』図像第一巻所収本(以下、『大正蔵』本)が知られる。10巻に及ぶ大著『諸説不同記』が、中世に遡る写本を得て活字翻刻され、広く一般の目に触れるところとなり胎蔵曼荼羅研究が進展したことを思うと恩恵は計り知れない。しかし、活字化することで原本のもつ様々な情報が制約、あるいは、削ぎ落とされ、結果、底本が本来有していた豊富かつ有用な情報の一部が見えなくなってしまったことも心すべきである。ことに『大正蔵』本は、翻刻に際して江戸後期の写本(東北大学附属図書館蔵狩野文庫本)をもとに活字化した『大日本仏教全書』所収本を対校本に用いて返り点を付し、適宜字句も改められている。結果、『大正蔵』本は底本である建武本はもとより『大日本仏教全書』本とも別物の様相を呈し、問題は胎蔵曼荼羅諸尊の尊容の記述にまで及んでいる。
 本発表では、そのような事例をこれまで5年がかりで当該の建武写本をもとに詳細に検討を行ってきた遍智院・蓮花部院・金剛部院・持明院(巻三、四に相当)を中心に改めて眺めてみるとともに、記述の検討を通じて浮かび上がってきた空海請来の現図胎蔵曼荼羅の第二転写本である高雄曼荼羅と真寂が見た「現図」の図様との間に小異が存在することにも及んで、「現図」胎蔵曼荼羅研究における『諸説不同記』の問題について考えてみたい。