現代美術とオリジナル

松本透
東京国立近代美術館
主著等: 「鎮魂と再生―草間弥生の芸術」『草間弥生』(展覧会図録、東京国立近代美術館ほか、2003年)
「キュビスムにおける身体」『アジアのキュビスム』(展覧会図録、東京国立近代美術館ほか、2004年)
「光の芸術の可能性―倉重光則の場合」『戦後の日本における芸術とテクノロジー』(科研費報告書、2007年)
“Modernisation et indépendance dans l’art: le cas Sri Lanka et de l’Inde,” exh. cat. Cubisme: l’autre rive ― Résonances en Asie, Maison de la culture du Japon à Paris, 2007.
“When Digital Media Were New and Thereafter,” International Symposium “Turn and Widen: Media Art Now and Future,” Seoul Museum of Art, 2007

 モノの序列において、芸術作品に格別高い地位が与えられるのは、この世に1点しか存在しないオリジナルの作品こそが、そのモノの芸術性なり芸術的オリジナリティー(独創性)を支えていると信じられてきたからであるが、この通念は、現代美術においてはとうに(20世紀初頭には)大きく揺らぎはじめている。そのもっとも原理的な批判者は M. デュシャンであり、彼の「レディ・メイド(既成品)」は、あるモノが芸術作品であるか否かを決定するのは、そのモノの物理的・形式的様態ではなく、制作者による認定と受容者による追認であること、さらにいえば芸術作品の認定・追認をめぐる諸々の「制度」や「文脈」であることを明らかにしたのである。
 アンデパンダン展に出品された(しかし実際には展示されなかった)男性用小便器《泉》(1917)がそうであるように、デュシャンのレディ・メイドは、近代の芸術制度(美術館、展覧会など)を当面の標的としたダダ的、反芸術的デモンストレーションたる一面をもつが、他方、彼ほど、みずからの作品(「レディ・メイド」を含めて)の芸術作品としての地位を守ることに細心の注意をはらった作家も珍しいのではないだろうか。芸術作品と実用品、一点もののオリジナル作品と大量生産品、ファイン・アートとサブ・カルチュアといった区別が最終的には歴史的文脈に拠るのであれば、みずからの創作史の文脈を可能なかぎり保存することは、個々の作品の地位を維持することにも繋がるだろう ―― と、彼が記しているわけではないが、彼のレディ・メイド以後の活動は、2つの大作、《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称「大ガラス」、1915―23)と《1. 落ちる水、2. 照明用ガス、が与えられたとせよ》(1944―66)が示すように、作品の構成要素のあいだに緻密な関係性の網の目を張りめぐらせることによって、作品の内部に強固な文脈を内包させる方向へと向かった。また、「大ガラス」の構成要素のミニチュアや折々の覚え書きの複製を一つの箱に収めた通称「グリーン・ボックス」(1934)をはじめとして、普通であればアーキビストがするような図像・文書群の一括保存が、彼の重要な活動の一環となったのである。
 みずからの活動の歴史的文脈を意識的に保存したり、いわば個人アーカイブを念頭におきながら作品を制作することは、デュシャンだけに見られる例外的現象ではないだろう。ある時期以後、制作年だけでなく完成した日付けを必ず作品に記すようになったピカソ、産業考古学者の図像収集にも似たベッヒャー夫妻の写真作品、自身の絵画のソースとなった写真などを「ATLAS」の名で発表している G. リヒターなど。本発表では、デュシャンを起点にして、現代美術における「オリジナル」の問題と、アーカイバルな思考の関連について二、三の考察をくわえる。