写真 ― オリジナルという認識の共有

岡塚章子
江戸東京博物館
主著等: 「小川一真の『近畿宝物調査写真』について」『東京都写真美術館紀要』2号(2000年)
『写された国宝―日本における文化財写真の系譜』(展覧会図録、東京都写真美術館、2000年)
『庭園植物記』(展覧会図録、東京都庭園美術館、2005年)
「黒船の記録者 写真家エリファレット・ブラウン・ジュニア」『開国と異文化の交流』(神奈川県立歴史博物館総合研究報告書、2005年)
『建築の記憶―写真と建築の近現代』(展覧会図録、東京都庭園美術館、2008年)

 私たちが美術館や博物館に行って絵画や彫刻などの文化財を鑑賞する。この行為の根底には「本物を一目見てみたい」と思う気持ちがあるからである。また、いわゆる名作と言われる作品の展示に多くの人々が殺到する背景には、事前にそれが名品であるとの共通認識があり、それには視覚情報としての写真が大きな影響を与えてきたと言えよう。
 今から約170年前の1839年に発明された写真術は、その草創期から文化財を記録するという役割を担ってきた。発明の地であるフランスでは、世界で最初の写真術であるダゲレオタイプを公表する際、その特性を示す例として、「エジプトのピラミッドの文字を記録するためには、多くの日数と人手を必用とするが、ダゲレオタイプを用いれば、それを僅かな時間に、しかも正確に記録することができる」と解説している。発明から10年後の1849年には、マキシム・デュ・カンは東方に旅立ち、エジプト、ヌビア、パレスチナ、シリアなどの異郷の地で古代遺跡を撮影した。それらは写真集となって1852年に刊行され、人々の目にするところとなった。そして1851年にはフランス政府内に歴史的記念物委員会が設置され、国内の歴史的建造物や記念碑を記録するプロジェクトなど、写真を使用した文化財の記録が行われていた。
 日本においても同様の流れはあった。幕末期に日本に渡来した写真術の撮影対象は、初期においては人物や風景が中心であったが、明治期になると、文化財調査にも用いられるようになる。
 1872年(明治5)に横山松三郎が撮影を行った古社寺調査(壬申検査)では、正倉院が開封され、御物の撮影も行われている。この時の撮影の様子は蜷川式胤の日記「奈良之筋道」に記述されており、試行錯誤の様子が伺える。
 壬申検査から16年後の1888年(明治21)に行われた近畿宝物調査では、小川一眞が写真撮影を行った。この時の調査は質、量ともに大規模な文化財調査であり、近畿宝物調査時に撮影された写真は、翌年創刊された『国華』(1889年〈明治22〉10月〜)に使用され、コロタイプ印刷の複製図版となって人々の目に触れることとなった。
 明治初期に横山松三郎によって試みられた写真による文化財の記録は、その後、小川一眞によって確立されたといえる。そして写真によって古美術に対するさまざまな価値観が変化し、新たな鑑賞方法も生まれることとなったのである。