モノより思い出、思い出よりモノ

塩谷純
東京文化財研究所
主著等: 「容斎断章」『菊池容斎と明治の美術』(展覧会図録、練馬区立美術館、1999年)
「“理想画”への道程―橋本雅邦《龍虎》以後―」『美術研究』377号(2003年2月)
「再興日本美術院のひとびと―あるいは大正期の大観」『大正期美術展覧会の研究』(東京文化財研究所編、中央公論美術出版、2005年)
「団十郎の“腹芸”、雅邦の“心持”」『美術史家、大いに笑う 河野元昭先生のための日本美術史論集』(ブリュッケ、2006年)
「川端玉章の研究(一)」『美術研究』392号(2007年9月)

 いつだったか、国際的に名高い日本の前衛美術集団、具体こと具体美術協会の資料展示で出くわした一枚のポストカードに途惑ってしまったことがある。セピア色のポストカードに写っていたのは、1955年の第1回具体展で村上三郎(1925―96)が披露した“紙破り”。しかしそこに写っているのは、オカッパ頭にロイド眼鏡の村上が、木枠に貼られたハトロン紙をバリバリと突き破るお馴染みの光景ではなく、すでに行為を終え、破り裂かれて御用済みのはずのハトロン紙のオブジェだった。てっきり紙を破るというアクションが売りのパフォーマンスだと思っていたのに、その残骸ばかりを見せつけて、いったい何の意味があるのだろう? そもそも作家名と作品名の入ったポストカードという形式自体、従来の日本画や洋画の展覧会によくありがちなメディアじゃないか。そんなお決まりのフォーマットに自らの営為を託すあたりにも、具体という前衛集団の、意外にも作品(ル:モノ)本位のオーソドックスな一面をかいま見た思いがしたものだった。
 “紙破り”についてよくよく調べてみると、その残骸のハトロン紙は展覧会の会期中、あたかもタブローのように作品として展示されていたのだという。その一方で、村上の“紙破り”アクションはジャーナリストによって取材され、こぶしを突き出し破れた穴から顔をのぞかす村上の写真とともに報道される。さらには1960年代にハプニングの先駆として村上らの試みが海外に紹介されるや、具体の先鋭的な面は一層クローズアップされることになった。現代美術については初学者の私は、ついそのようなイメージにとらわれていたのだが、しかし村上三郎の“紙破り”をはじめとして、具体メンバーの試みは必ずしも絵画という表現形式を否定し乗り越えるべき対象として見てはいなかった、というのがどうやら現在の日本の研究者の一致した見解のようだ。
 ポストカードに写っていた“紙破り”の残骸、いや作品はその後どうなったのだろう。当の村上本人は、半永久的な作品として後世に伝えていく気はなかったらしい。そのあたりは旧来のタブローに対する感覚とは一線を画すところだが、それでも具体のリーダー吉原治良は村上の“紙破り”作品を長らく自分の家の納屋に保管していたそうだ。一方で村上は具体の第1回展以後も繰り返し“紙破り”を行い、その都度記事や写真や映像による記録を伴いながら、一過性のパフォーマンスとして人々の思い出に刻まれてゆく。破り裂かれた紙はお払い箱となったが、それでも現代美術の殿堂ポンピドゥー・センターには、1994年に村上がパリで行った“紙破り”の作品(ル:モノ)が残されているという。いったいオリジナルはモノに宿るのか、それとも思い出に宿るのか ―― 到底切り分けられるものでないことは百も承知だが、それでもこの世にモノに執着する人としない人がいて、伝えられるモノと捨てられるモノがあるのは確かである。