「日常性への下降」から「芸術性への上昇」へ
─赤瀬川原平・他《模型千円札事件》における作品空間の生成と移動―

富井 玲子(とみい れいこ)
インディペンデント・スカラー
主著等: "State v. (Anti-)Art: Model 1,000-Yen Note Incident by Akasegawa Genpei and Company," Positions 10.1 (2002)
"Thought Provoked: Ten Views of Tokyo, Circa 1970" Century City: Art and Culture of the Modern Metropolis, exh. cat. (London: Tate Modern, 2001)
"Concerning the Institution of Art: Conceptualism in Japan" Global Conceptualism: Points of Origin, 1950s - 1980s, exh. cat. (New York: Queens Museum of Art, 1999)
「宮川淳再読─『アンフォルメル以後』を中心に」『美術史のスペクトルム─作品・言説・制度』(鹿島出版会 1996年)

 美術史において、現代美術・前衛美術は、論者によって定義が一定しない部分もあるとはいえ、むしろ「既成のモノの価値に異議申し立てをすること」を定義とすることで、その本質がより鮮明になってくるのではないだろうか。たとえば、日本の1960年代に、批評家・宮川淳に「日常性への下降」と評された反芸術は、近代的な絵画彫刻が標榜する自律するモノとしての芸術性の否定を標榜するものであり、現代美術的な「異議申し立て」の代表例だろう。
 ところで、現代美術の「作品」は、「既成のモノの価値に異議申し立てをする」という性格上、その出発点においてはコレクターや美術館などによってモノとして収集展示されることを拒否する傾向にある。だが、現代美術それ自体が制度化すると同時に、写真記録、再制作などを通じて美術館収蔵品の地位を確立した作品例も少なくはない。言わば、日常性へ下降した現代美術はUターンして、芸術性に再上昇したのである。
 ただし、ここで注意すべきは、「芸術」や「制度」、また「モノ」ですら、必ずしも静止的な概念ではなく、その内実は過去半世紀の間に、現代美術をふくめ批判的な諸動向に誘発されて構造変化をとげている点である。
 さて、このダイナミックな構造変化を跡付け、その意味を知るための格好のてがかりを提供してくれるのが、赤瀬川原平・他による《模型千円札事件》である。
 ただし、これは通常の意味における「作品」ではない。反芸術の代表作家・赤瀬川は、63年頃からオフセットで複製印刷させた千円札を個展の案内状や梱包作品に使う作品を制作していた。その複製千円札が64年に違法の嫌疑を受け、事情聴取、起訴から裁判に発展し、70年に最高裁判決で有罪・執行猶予が確定した。
 核となるモノとしては、くだんの複製が《模型千円札》と命名されている。これは紙切れに過ぎないモノなのだが、それが無名の存在として日常空間に潜み、裁判所という公空間に引き出され、複製出版物として情報空間に流通、最近では美術館に展示・収蔵されて芸術空間の合法的住人となり、画廊が扱う商品として市場空間にも出回る。この移動の過程で、紙切れは「作品」としてのアウラを獲得・増加していく。
 さらに、裁判自体が一種のイヴェント作品となり、千円札事件懇談会が一種の言説空間を形成するなど、複製千円札にまつわる行為すべてを取り込んで《模型千円札事件》がある。こうして、複製作品をめぐるマトリックス、すなわち「作品空間」が形成されていく。
 かくなる「作品空間」に実体はないが、モノの持つ価値のあり方を従来のベンヤミン的礼拝価値・展示価値や資本主義的市場価値だけに限定せず、情報価値にまで拡張して考察するためには不可欠の概念になるのではないか、と思われる。