とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化―日本人が自ら葬り去った異文化―

佐々木 利和(ささき としかず)
東京国立博物館
主著等: 『アイヌ文化誌ノート』(吉川弘文館 2001年)
『アイヌの工芸』(日本の美術354号 至文堂 1995年)
「東京国立博物館のアイヌ民族資料(上)」『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』3号(1994年)
『アイヌ語地名資料集成』(草風館 1988年)

 日本列島に三つの異なった文化があることは存外知られていない。ひとつはいうまでもない、天皇を中心とした国家が育んだ「日本文化」であり、ひとつは琉球国王を中心とした琉球王国が育んだ「琉球文化」であり、いまひとつが北辺でアイヌの人びとが育んだ「アイヌ文化」である。これらは広い意味での「日本文化」ともいいうるのであるが、そうした扱いはなされてこなかったといっていい。
 それでも、狭義の「日本文化」と深くかかわる「琉球文化」については、近年、新たな視点からの研究・紹介がなされはじめている。しかるに、アイヌ文化は広義の「日本文化」の枠内には容れられないままなのである。
 アイヌ文化には三つの文化圏がある。すなわち「北海道」島に栄えた北海道アイヌ、樺太(ロシア領サハリン)島南部に栄えた樺太アイヌ、そして、中部千島・北千島(ロシア領クリール諸島)に栄えた千島アイヌである。
 このなかで、千島アイヌはそのひとを含め、文化・言語は今日にまったく伝わらないのである。国際交渉の陰で、しかもきわめて平和裡に、日本人は地上から一つの文化を葬り去ったのである。
 いまひとつの文章がある。主題とも深く関わるので一瞥してみよう。
「1884年の日露両国間の協定によって、樺太はロシアに、千島列島は日本に帰することになった。その後、日本は総人口わずか九七人のものが群島の各地点に分散している極北の新しい国民の憐れな状態に憐憫の情をもよおし、彼らを絶滅から救うことを願った。そのため、彼ら全員を、はるかに豊で気候も温暖なシコタン島へ移住させた。ここは蝦夷の根室地方とクナシリ島の間にあり、千島列島の最南端に位置する。しかし、憐れな彼らにとってそこが楽園となったであろうか。否、無益であった…」(鳥居竜蔵『千島アイヌ』序)。
 日露間で締結された「樺太千島交換条約」によって、樺太はロシアに割譲され、全千島列島が日本の版図となった。このとき、日本政府は先住民であるアイヌの人びとをも同時に自らの民に加えた。樺太アイヌは北海道に強制移住させられ、当初は樺太に程近い稚内のメグマに居住地が定められたが、じきに札幌近郊の対雁(ツイシカリ、現在の江別市内)に移された。
 シムシュ島、ホロムシリ島などに住む千島アイヌが移された先が、鳥居の序文にあるシコタン島である。
 このいずれもが、かれらがロシア人と通交をおこなって、結果的に日本に不利となる行為を働くことを危惧してのものであった。
 明治36年の戦争の結果、樺太アイヌはそれでも故郷に帰りえた。しかし千島アイヌは、そこが日本領土であったにもかかわらず、帰ることはできなかった。望郷の想いにかられながらも、かれらは北海道とその付属島嶼(島々)のなかで、みずからの文化を放棄せざるを得なかった。今日、千島アイヌの文化を伝えるひとはただのひとりも存在しない。