沖縄県における縦絣の木綿細帯
―その用途・社会階級・意味が変化して行く八重山ミンサー帯のうつりかわり―

アマンダ・M・スティンチカム
インディペンデント・スカラー
主著等: 「ミンサー帯・カガンヌブ―八重山縦絣木綿細帯の全史序説―(上・下)」『八重山博物館紀要』18・19号(2001・2002年)
"Mingei: Japanese Folk Art," Art Services International(co-authored with Robert Moes, 1995)
"A Common Thread: Japanese Ikat Textiles," Asian Art 3:1 (1990)
Sixteenth-Nineteenth Century Textiles from the Nomura Collection (New York and Japan: Kodansha International, 1984)

 服、布でできた他の製品、あるいは布自体が「美術品」であるかどうかは、刺激的な問題であるが、今までのところ未回答のままである。発表者は歴史家として、これまで「美術」の周辺にあるものである染織品にかかわってきたが、モノを「美術品」として見なすことの有用性と意味について深く疑ってきている。
 藍染めの絣模様の細帯であるミンサー帯は決して「美術品」と見なされることのない運命にある制作物のひとつであるかも知れない。ミンサー帯が賞賛されてきたけれど、その賞賛には「民芸」という問題の多い用語が常にまとわりついてきた。そのために、ミンサー帯を創ったり締めたりしてきた人々の間で長い時間を経て生まれた多様な意味と 価値は今まで研究されていない。
 ミンサー帯は日本の国立博物館に収集されることもなく、また、いわゆる「民芸」 コレクションのなかにも多くは見ることができない。「動くモノ」として見れば、「美術品」の価値体系の中にあるモノと異なっているミンサー帯の移動は、製作者の手からコレクターに、あるいは、作られた地域から別の地域へといった空間的な動きでは必ずしもなかった。ミンサー帯は八重山の5つの島々で今も織られ締められており、社会階級、用途、意味、技術といった領域を越えて移動していったのである。
 残念ながら、ミンサー帯の空間移動の軌跡は、始点と終点が分かっても、その間についてはほぼ欠落している。ミンサー帯の技術とデザインがどのように八重山の島々に伝播したのか、さらには、どこからどのように八重山に入ってきたのかという点は、まったく不明なのである。古文書に残されている唯一の空間的な移動は、1876年(明治9年)に八重山の役人が、琉球王国の所在地であった沖縄本島首里の士族や貴族の人々に贈答品としてミンサー帯を何本も持って行ったという記述である。この出来事の意義は、その当時にミンサー帯が庶民(平民)のものではなく、士族のものであったということを証明している。この空間的な移動は、八重山以外での製作を促すことがなく、一時的なものでしかなかった。
 これに対して、ミンサー帯は時間が経てくるにつれて、デザインと素材の移り変わりとともに、コンテクストと意味の複雑な変化も起こってきたことである。
 本発表は、1879年(明治12年)に行われた琉球処分・廃藩置県直前の士族とミンサー帯の結びつきから、「単純で素朴なしまびと」という八重山島民の創造されたアイデンティティを象徴するモノとして使用されるミンサーの移り変わりを検討してみたいと思う。最近のシンボルとしての価値形成は意図的なものであり、地域主体の開発に結びついているだけでなく、国と内地の企業の開発と政治的な利用とにかかわり合っている。

(アマンダ・M・スティンチカム訳)