敦煌大仏の生命―コンテクストの変化と機能の変化―

寧 強(ニン チャン)
ミシガン大学
主著等: Art, Religion, and Politics in Medieval China: The Dunhuang Cave of the Zhai Family(Honolulu: The University of Hawaii Press, forthcoming in 2003)
"Diplomatic Icons: The Social/Political Meanings of the Khotanese Images in Dunhuang Cave 220" Oriental Art(1998/99)
「佛教與図像―敦煌第220窟北壁壁画新解―」『故宮学術季刊』15 巻3期 (1998)
Dunhuang Buddhist Art: An Art Historical Approach(Taiwan: Fuwen Press, 1993)

 新千年紀のはじまりである2000年の夏、大規模な国際会議が敦煌莫高窟の九層の楼閣で覆われた大仏の前で開催された。中国各地および海外から300人以上の学者たちがこの会議に出席し、そのほとんどが楼閣正面に新たに拡張された広場に集まり、儀式的な開会式に参加し、その後の壮大な催し物を楽しんだ。しかし、この国際会議は九層閣の前で開かれた重要な社会的、文化的イベントに留まるものではない。
 過去20年、この場所は政治的宣伝や宗教儀式のための公共空間として使われてきた。そのなかには中華人民共和国の国家主席であり中国共産党の書記長である江沢民の歴史的訪問も含まれている。彼はここで古代芸術の記念物の修復と研究を援助すると宣言した。
 この広く開かれた遺跡には492の窟が残っている。何故、この場所が開会式や写真撮影などの儀式を行うための遺跡全体の中心部として選ばれたのであろうか。この歴史的な遺跡において何がこの空間を他よりも重要にしたのであろうか。本発表は九層閣に覆い隠された大仏の本来の意味を検討し、さまざまな歴史のコンテクストのなかで変化したその機能を考える。この研究は、初唐時代に施主によって宗教的イコンがどのように造られ、政治的目的のために使われたか、この仏像が現代を含む様々な時代において辺境政策のコンテクストのなかで、どのように帝国の権威の視覚的な象徴と変化していったかを明らかにするであろう。
 九層閣内の大仏は像高34メートル、敦煌莫高窟に残る約2000もの彫像のなかで最も背丈が高い。大仏は未来仏である弥勒仏とされており、晩唐以来、北大仏として知られている。この大仏は則天武后の治世の695年に造立された。僧服をまとった男性の形に仏を造るという一般的な慣習に倣わず、この大仏は女性の体型と着衣によって造形された。堂々たる胸によって仏像の性別は明らかである。さらに、女性の着物によって仏像が女性であることは確実である。仏像のこれら独特の特徴はこの遺跡の他の仏像には見ることができず、則天武后に対する地方の支持を表明し、都で起こった政治的改革、とりわけ初唐時代における女帝の合法性の確立に対する地方の返答を示すものである。
 晩唐に、地方長官である張匯深が自己の地位を確立しようとした時、彼は中央の皇帝の権威と唯一結びつく北大仏の隣に大きな窟を造営し、敦煌地域における彼の支配権を正統化しようとした。曹氏が敦煌の実質的な支配者として張氏にとって代わったのち、曹議金もまた北大仏の近くに大きな窟を開削して自己の政治的地位を公に明らかにした。新たな窟の造営に加えて、北大仏を覆った建物はそれぞれの時代の地方支配者たちによって幾度も改修された。建物と彫刻の修復は現代まで続いている。これら再建の目的は様々であるが、それらはすべて大仏とそれに付随する建物の本来の意味と機能を変え、あるいは、それに新たなる層を加えることとなった。

(津田徹英訳)