都鄙の振幅―青木繁の場合―

田中 淳(たなか あつし)
東京文化財研究所
主著等: 『萬鉄五郎』(新潮日本美術文庫35 新潮社 1997年)
『明治の洋画―黒田清輝と白馬会―』(日本の美術351号 至文堂 1995年)

 明治以降の日本の近代化を考えるとき、首都としての「東京」と「地域」、「地方」の問題は欠くことのできない視点となっている。しかしながら、政治史、経済史、社会史、文化史といったそれぞれの分野では、この問題のとらえ方も研究の状況も、かならずしも一様ではない。なかでも、これまでの近代の美術史研究では、「東京」を中心に語るか、「地方」のみを独自のものとして語るか、どちらかであり、相互の視点からみようとすることは、少なかったといえる。たとえば、東京に出て学び、画家として制作し、また、郷里にもどり、制作をつづける。こうした画家自身の往還の営為のなかから生まれた作品は、どのような背景をもち、意味をもちうるのか。もし、このことを検討しようとするのなら、画家がいる「場所」にたちかえってみていくことが必要だろう。
 こうした問題意識をもとに、本発表では、青木繁(1882〜1911)を例に考えてみたい。すでにこの画家については、河北倫明著『青木繁 生涯と芸術』(養徳社、1948)における評伝以来、今日まで研究の蓄積があり、回顧展等の開催により、その評価も史的な位置付けも確定しているようにおもわれる。そうした諸研究で明らかにされているように、青木は、明治40年(1907)の東京府勧業博覧会に《わだつみのいろこの宮》を出品した後、父の危篤の知らせをうけて、郷里福岡県久留米に帰っている。これを最後に、画家は、ふたたび上京することなく29歳で夭折している。その帰郷後は、たとえば、「明治41年10月 家族と衝突して家を出、放浪生活にはいる」(「青木繁略年譜」、河北倫明『青木繁』日本経済新聞社、1972)と記されているように、「放浪」という言葉で括られている。
 発表者は、昨年8月から、3度にわたり、北部九州の久留米、佐賀、小城、唐津、福岡といった、青木が「放浪」した場をたずねてみた。その足どりをたどっていくと、画家が描いた風景、自然を確認することにとどまらず、その町の風情が画家にどれほどの影響を与えたかを考えさせられる。また、なによりも、青木は「放浪」という言葉からイメージされるように、あてどなくさまよっていたのではなく、友人、知人という人脈のネットワークのなかで移動していたこと。さらに画家は、その場で、つねに「東京」を意識し、「東京」という看板を背負いながら描き、語りつづけていたこと。また周囲も、「東京」の画家として迎えていたことを指摘したい。そして、それぞれの「場」で描かれた作品は、画家の評価のたかまりとともに、売買の対象として取引され、移動をはじめる。一方、描かれた「場」にとどまり、場合によっては、目にふれることなく時間のなかに沈潜する作品もある。本発表では、そうした作品に焦点をあて、真贋の問題をふくんだ評価とその形成について、あらためて検討してみたいとおもう。