作品があれば、その作り手がいる。もちろん、今日的な美術史の議論を前提とすれば、時代や地域によっては、必ずしも、作り手が作品のすべてを先験的に支配しているわけでもない。作品とその作り手との関係は、密接不可分でありながら、それぞれが別の領分を主張することもある。ときとして、作品と作り手が、別の時空に解き放たれ、異なる旅の歴史を歩むことさえあるだろう。
しかしながら、作品にとって作り手とは如何なる存在なのか。その問いかけに対して発表者はこう考えてみたい。作品は、それ自体が、本来的に分割できない個別なもので、無名性を帯びている。したがって、作品にとって作り手とは、作品の生涯のなかで、個々のアイデンティティを保証しうる伴侶であり、外部世界との間に介在する接点として、また外部世界に対する代弁者として機能していく存在であると。
発表者が研究対象とする請来仏画は、この問題を考える上で、きわめて示唆的な事例が多い。請来仏画とは、中世以来、いわば古渡りの仏画として寺院を中心に伝来してきた宋元および高麗時代の仏画のことである。その作り手は十数名を数えるが、なかでも西金居士と張思恭はとりわけ異色である。西金居士は、羅漢図の担い手として、長らく、もっとも重視されてきた一人であるが、じつは、南宋時代の寧波で活躍した金大受と金處士という二人の仏画師の落款が誤読された結果として生まれた架空の仏画師である。一方、張思恭は、同じく南宋時代の寧波あたりで阿弥陀画像を専門に手がけていた可能性をもつ仏画師であるにもかかわらず、近代以降は、伝説の画家とされ、また高麗仏画の作り手と考えられた時期もある。
古渡りの請来仏画は、そのほとんどがすでに母国で過ごしたより長い年月を日本で生きてきた。欧米や韓国のコレクションも、近代以降に日本から再び海を渡ったものである。彼らは、母国の失われた過去の証言者であり、同時に、それに続く日本の過去の証言者であるといってもよい。しかし、彼らの母国における記録はほとんどない。彼らは異国の地日本で、室町時代、将軍家の目にさらされる過程で『君台観左右帳記』という目録に掲載され、中国の画家の名前に代弁されるかたちで、はじめて歴史の舞台に浮上する。彼らは、この目録が規範とされ鑑定における制度として機能するようになると、伴侶となった画家たちに連れられて時空を旅し、有為転変の歴史を経験することになった。西金居士や張思恭が描いたとされる仏画の場合は、その象徴的な事例である。
西金居士筆あるいは張思恭筆という伝承とともに、鑑賞され、鑑定され、売買され、収蔵され、美術作品あるいは文化財となってきた仏画たちにとって、そのアイデンティティを揺さぶりつづけた二人の画家は、如何なる存在だったのか。虚実相半ばしてきた画家の実存は、請来仏画の生涯のなかで、すくなくとも簡単に負の遺産として消去できない記憶として作品の身体に刻み込まれているのではないだろうか。請来仏画の評価では、作品に付随する画家の伝承は、今もなお、依然として大きな意味をもっているのである。
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