日本の輸出漆器の歴史は、16世紀後期、キリスト教の布教が拡大し、ポルトガルを主な相手国とする交易が本格化するなかで始まった。ヨーロッパの文明にはじめて触れ、生み出されたその輸出様式は、それまでの日本漆器とはかなり異なる。形態はもとより、幾何学的な文様の帯で各々の器面を縁取り、区画し、その内部の空間を細密な文様で埋め尽くす装飾には、非日本的な雰囲気があふれている。
技法は日本の蒔絵と螺鈿であり、動物や植物の文様の種類はそれまでの日本漆器によく描かれてきたものが大半だが、幾何学的文様による縁取りには、中国や朝鮮半島の螺鈿からの影響が認められ、縁取りの内側に窓枠を設けることも中国風と言えるだろう。形態の起源は西洋や中東など様々で、この様式の源流については、インド=ポルトガル美術と呼ばれる折衷様式の存在が指摘されている。
これに対して、交易の窓口がポルトガルからオランダへと移行する1630年代以降、とくに17世紀後半の輸出漆器には、日本国内の市場に見られる漆器との共通点が多く認められる。形態はやはり異国性に富んでいるが、山水や花鳥、或いは文学や故事にちなんだ図様が、余白を大きくとって描かれ、作品に日本風の趣を与えている。黒漆塗りの地に金の高蒔絵を多用する技法も、伝統的な漆器に見られる感覚に近い。
様式の変化は、漆器交易を手がけるオランダが求めたものだった。東アジアやヨーロッパの市場で売買される東洋の漆器の中から、日本製の漆器を差別化し、商品価値を高める必要があったからである。しかし、だからといって17世紀における輸出様式の装飾が、異国性を完全に排除したわけではない。たとえば仙人や唐子、或いは漢画系の絵師が好んだ中国起源の画題の図様も、意外に多く見いだされる。
このように見てくると、大局的には非日本的なものから日本風なものへの展開が想定される17世紀の輸出漆器においても、西洋風のみならず、中国的や朝鮮的な要素が失われることなく盛り込まれていたことに気付く。この段階における商品イメージとしての日本風は、受容する側の西洋世界が共有する東洋風というイメージを損なうことなく、確立されることが望ましい。ここには、そんな商人たちの思いが感じられる。
東アジアの東端に位置する日本は、中世以来、中国各地を中心にいくつもの線で結ぶばれる通商ネットワークに深く組み込まれていた。ポルトガルやオランダをはじめとするヨーロッパ諸国はこのネットワークに参画し、東アジア地域での交易をおこなった。そして、その交易の在りようと、日本の関わり方は、18世紀から19世紀にかけて大きな変化をみせる。輸出漆器の形態や装飾に認められる異国性は、交易史的背景を反映しつつ、変容した。今回はこうした視点に立って、明治時代に至るいくつかの作品を見てみたい。
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