皇帝コレクションから国宝へ―20世紀前半における中国美術と故宮博物院―

石 守謙(シ ショウチェン)
國立故宮博物院
主著等: 「隠逸文人の内面世界−元末四大家の生涯と芸術−」『元』(世界美術大全集東洋編7巻 小学館 1999年)
「元時代文人画の正統的系譜−趙孟から王蒙に至る山水画の展開−」展覧会図録『元時代の絵画』(大和文華館 1998年)
『風格與世變』(臺北: 允晨文化出版公司 1996年)

 本稿は、20世紀前半の政治的、文化的環境の中で美術品に対する考えが変化するというコンテクストの中での初期の故宮博物院に関する研究である。故宮博物院のコレクションは本来皇帝コレクションであり、乾隆帝(在位1736〜95)期にその基礎を置く。コレクションは乾隆帝の個人的な所蔵物であったにもかかわらず、大帝国の要求を満たすべく形づくられ、明白なダイナミズムを表すに至った。これらの美術品は宮廷の中に移され、さまざまな象徴的な機能とともに保有され、最終的には複雑だが特色ある秩序を構築した。しかし、19世紀末、清朝皇帝の力がしだいに弱まり、もはや防衛力も逸してしまったころ、その秩序は崩壊する。最後の王室は深刻化した政治、財政問題を解決する方便としてコレクションを使ったのである。そのため、モノは本来のコンテクストから引き離されることとなった。王室ばかりか、外国軍人、宮廷の宦官、そして堕落した役人までもがコレクションが散逸していく過程に関わっていった。その結果、国内的にもまた国際的にも古美術品市場がにぎわうことになった。
 清朝コレクションの散逸という危機は、1925年、故宮博物院の創設に向けた大きな運動を生み出すことになった。最後の皇帝が宮廷の宝物を手にしたことは、清朝復興という謀略の一環と考えられ、樹立間もない共和国政府の運命を左右するほどの脅威であるとも信じられた。これらの美術作品の地位は国宝、新国家の象徴というレベルにまで達した。そして、このきわめて象徴的なコレクションを保護することは、当時、多くの新知識人にとって栄光ある国家の革命を完成させるのに必要な行為の一つとなった。
 その後、第2次世界大戦と国共内戦の時代、国宝としてのイメージはさらに強調された。モノの移動の規模もまた拡大していった。コレクションの中でも最も重要な部分は大陸内を転々とすることを余儀なくされたが、最終的には1965年台北に落ち着いた。こうしたドラマティックな過程にあって、その芸術的な価値はもちろん大切にされたが、コレクションが国家のアイデンティティを具有していることは、何よりも故宮博物院の指針を定める上で決定的な役割を果たしたし、それは建物のデザインにさえも強く作用した。台湾における中国美術史研究の展開はこの時期の歴史に深く影響されており、「純粋美術」と「応用美術」を区別するという西洋的概念に左右されることからは自由でありつづけることができた。

(勝木言一郎訳)