書画の巻物や帖冊の末尾に、制作の由来や、鑑賞録を記したものを題跋(跋、跋文、跋語、書後、後序などとも)と呼ぶ。中国では、宋代以降に題跋を記すことが盛んになったという。中国明清画を範とした日本の南画家たちの作品にも題跋をともなったものが少なくない。作者みずからが記した自跋はともかくとして、第三者が書き付けた他跋は、ふつう制作依頼者あるいは所蔵者の求めによるものである。また、依頼者、所蔵者自身が記すこともあった。題跋の筆者が著名な人物であれば、題跋そのものが鑑賞の対象となる。題跋が追加されるごとに作品の評価は確固たるものとなり、その価値も増してゆくと考えられた。複数の題跋が存在すれば、交友関係や伝来経路なども判明し、研究資料としての価値も高まるといえるだろう。
ここでは、ひとつの画巻作品を例として、制作依頼者がどのような意図のもとに、画家に描かせ、詩文家たちに題跋の揮毫を求めたのかを考えてみたい。
耶馬渓は大分県北西部の溶岩台地を山国川が浸食して形成した峡谷で、日本初の国定公園に指定された名勝の地である。奇岩秀峰に富んだ景観それ自体が南画的であるといわれるだけあって、頼山陽(1781〜1832)をはじめ江戸時代の南画家が好んで描いた。東京国立博物館所蔵の《耶馬渓図巻》は、長崎の南画家木下逸雲(1800〜66)の安政2年(1855)の作で、越後の勤皇家小柳春堤(?〜1880)の依頼によって描かれたもの。佐賀鍋島藩の儒者で画家でもある草場佩川が題字と題辞を書き、豊後日田の儒者広瀬淡窓・旭窓父子、伊勢津の儒者斎藤拙堂、紀伊有田の儒者菊池渓琴、江戸の儒者藤森弘庵のほか、画僧や漢詩人など計9名によって安政6年までに加えられた題跋がある。別の伝来経路で東京国立博物館に入った春堤宛の逸雲の書状にこの絵の制作過程が記され、儒者たちの日記の中に春堤の記事が見えることから、これらは春堤がそれぞれを直接訪ね、依頼したものであったことがわかる。まさに空間と時間の移動の中で、作品の価値を高めようとした行為といえよう。
興味深いのは、題跋を書いた9名のうちの5名および題辞を書いた佩川が、逸雲の絵を見ていないと想定されることである。本来、絵を鑑賞した上で順次書き付けられるべき題跋だが、滞在日程の制約からその手順が踏めなかったのであろう。なんとかして、著名人たちの題辞と題跋とをともなった画巻を制作しようとした春堤の意思が伝わってくる。その形式が春堤を含む当時の中国趣味愛好家たちにとって理想的なものであったものと思われるのである。
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