黒田記念館
  黒田記念室 KURODA Memorial Hall
  黒田記念室沿革
 

日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13(1924)年に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和3(1928)年に竣工したのが黒田記念館です。館内には、遺族の方々から寄贈された遺作を展示して画家を顕彰するために黒田記念室が設けられました。昭和5(1930)年には、同館に美術に関する学術的調査研究と研究資料の収集を目的として、現在の東京文化財研究所の前身である美術研究所が設置されました。この館で永らく業務をつづけてまいりましたが、平成12(2000)年、新庁舎が竣工し、現在では当研究所の業務は、この新しい施設でおこなわれています。そのため、同記念館を再利用することになり、昭和初期における美術館建築(岡田信一郎設計)として貴重なものであることから、創建当初の姿に復することとし、2階部分を中心とする改修の後、平成13(2001)年9月にリニューアルオープンいたしました。

改修にあたっては、同記念室にくわえてギャラリーを増床し、これまで以上に充実した内容で作品を鑑賞していただけるようになりました。なお、同記念室では、黒田清輝の油彩画126点、デッサン170点のほか写生帖、書簡などを所蔵しています。

平成19(2007)年4月1日から独立行政法人文化財研究所と独立行政法人国立博物館が統合し、新たに独立行政法人国立文化財機構が設置されました。これにともなう組織改編により、黒田記念館は東京国立博物館に移管されました。

 
黒田清輝
 

黒田清輝(1866〜1924)は、近代日本の美術に大きな足跡を残した画家であり、教育者であり、美術行政家であったといえます。ことに明治中期の洋画界を革新していった功績は大きく、その影響は、ひろく文芸界全般におよびました。現在の鹿児島県鹿児島市に生まれた黒田は、幼少時に上京、伯父黒田清綱きよつなの養嫡子となりました。

17歳で、法律の勉学を目的にフランスに留学しましたが、二年後には絵画に転向し、フランス人画家ラファエル・コラン(Louis-Joseph-Raphael Collin)に師事しました。九年間にわたる留学中、アカデミックな教育を基礎に、明るい外光をとりいれた印象派的な視覚を学びました。明治26(1893)年に帰国し、日本にそれまで知られていなかった外光表現をもたらし、その背後のリベラルな精神と思想とともに大きな影響を与えました。明治29(1896)年には、美術団体白馬会(はくばかい)を結成、またこの年創設された東京美術学校(The Tokyo Art School)の西洋画科の指導者となりました。以後、黒田は、この白馬会と東京美術学校において、多くの新しい才能を育てるとともに、やがて美術界の中枢となりました。

また、画家としても、外光表現だけではなく、「智・感・情」(Wisdom,Impression,Sentiment)、「昔語り」(Talk on Ancient Romance)など、アカデミズムとしての「構想画」(grand composition)の制作をこころみるなど、本格的な西洋絵画の移植につとめました。後年には、絵画制作のかたわら、貴族院議員や帝国美術院長を歴任し、美術行政家として活躍しました。

 
フランス留学ゆかりの地 グレー・シュル・ロワン
 

黒田清輝は、フランス留学中の1888(明治21)年5月に、日本人画家としてはじめて当時小村であったグレー・シュル・ロワン(Grez-sur-Loing)をおとずれました。その後、この村に部屋をかりて滞在し、「読書」(Woman Reading)(東京国立博物館)、「婦人図(厨房)」(Portrait of a Woman(Kitchen)(東京藝術大学 大学美術館)、「赤髪の少女」(A Girl with Red Hair)(当研究所 黒田清輝記念室)など、留学中の代表作となるような数々の作品をえがきました。そのため、この村は、黒田にとって、パリとともに画家としての成長をうながした地であったといえるでしょう。

このグレー・シュル・ロワンは、パリ市街から南東に約60km、そしてフォンテンブローの南西約12kmに位置しています。セーヌ川の支流ロワン川沿いにあり、いまも当時の風景がのこされています。2001年10月、現在の同市によって、黒田が滞在したことにちなんで、市内にrue de KURODA Seiki(黒田清輝通り)が命名されました。   グレー紀行はこちら


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