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◎二十余年前のバルビゾン村

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私の初てバルビゾンに往つたのは、今から二十年余りも前のことで、私は二十三四歳の頃であつた。其頃コランの塾に一緒に居て、最も親しく交際して居た、私なぞの兄弟子に当る、グリフィンと云ふアメリカ人に誘はれて一緒に往つたのであつた。グリフィンは其頃二十八九歳であつた。
 私はまだ画を始めて余り長くならない時分であるし、ミレーの画などは、まだ余り深く知らなかつたが、バルビゾンはよい処だと聞いたので、往つて見る気になつたのである。
 我々はバルビゾンに着いて、オテル・シロンと云ふのに泊つて居た、それは丁度フオンテヌブラウの森の入口の処にあつた。其前に写真屋があつた、写真屋の主人は二十六七歳位の男であつたが、面白い男であつて、其庭に大きな鹿を一匹飼つて居た。
 其頃はミレーやルウソーなどがバルビゾンを開拓した次の時代であつたから、まだ余り開けてはゐなかつた。画かきも皆猟師の様な皮の脚袢を着けて、黄いろい皮の靴を穿いて、チヨッキは着て居るものもあるが、チヨッキを着ないで、毛糸で編んだシヤツを着て居るのもあつた、広い襟飾を付けて、ビロードの上衣を着てベレー帽子を被ぶつて、太い頑丈な頭の曲つた天然木の杖を持つて居た、其頃は其村では、画かきと云ふものは、そんな風をして居るものとなつて居たのだらう。
 そんな風で、画かきは、半分猟師の様な、樵夫の様な風をして居て、夜は宿屋に集つて話をした、いつも話が自然ミレーやルウソーの事に及ぶのであつた。今から思ふと、あれが画家の生活の理想の様な感じがする。巴里で煙草の煙りの中で、酒に酔つて、白首を相手にして居るのも、美術家の生活であらうが、又バルビゾンのあの頃の様に、素朴な純潔な生活振が、却て本当の美術家の生活だらうと思ふのである。
 近頃はバルビゾンも、非常にハイカラになつたさうだが、ミレー時代と、まだ余り変らない当時に、バルビゾンに居たことを、私は今でも仕合せに思つて居る。
 ミレーの家は、つまらない平家だ、画室がなけりや佳い画が出来ぬなどゝ云ふのは嘘だ。其家は其後修繕をして、見せ物みたいになつて居る。
 秋の末から、冬の初にかけて、我々は居たのだが、今でも其時候の頃に田舎などに往つて居ると、きつと当時のことを想ひ出す。霜はまだ降らなかつたが、雨が降つてジメジメして居る頃で、ストーブを焚くのが、よい気持の時候であつた。
 森の中に、「ルウソーの樫の樹」と云ふのがある、枯れた大きな樹で、枝が手を拡げた様になつて居た、其樹の下に、ブルイエルが一パイに生へて居た。ブルイエルと云ふのは、ちよつと柘植に似て居て、高くても七八寸から二三寸の、木と云ふよりも草に近いもので、紫つぽい、桃色みた様な花の咲くものである、それが羊歯と雑つて、樹の下に一面に生へて居る、其処を、雨の降るのに、合羽などを着て毎日画きに行つたことがあつた。  其頃は、バルビゾンへは、亜米利加人が多く行つたものだ。グリフィンが我々の先導で、又紹介者になつた呉れて、村に居る人達と交際をした。
 ミレーの息などとも交際をした、其息は画は中々巧かつたが、とうとう名を成さなかつた様である。名は矢張りフランソワ・ミレーと云つて、ミレーの次男であつた。其兄は商売をして、矢張り其の村に居た。フランソワは、其頃三十二三でもあつたか、髯の多い、頭の少し薄い男で、跛であつた。
 我々から見ると、ミレーの息は、画は余程巧いと思つたが、何度サロンへ出品しても、どう云ふものか及第しなかつたさうである。当人は、親父の名が余りに輝いて居るので、非常に損だ、サロンの審査員の側では、名家の子としては、もつと上手でなくては困ると云ふ訳なのだらうと言つて居た。どうも彼より下手な画が、実際サロンに通つて居たのを見ると、事実らしい。
 其息から、ミレーに関する面白い話を種々聞いたが、其中でも最面白いと思つたのは、ミレーの画の拵へ方の話である。
 ミレーは非常に記憶のよい、又た観察力のあつた人と見える、いつも手帖を持て出て、野に立つて、畑をする人などを、長く見て居たさうである。そしてモデルを使はずに、記憶を土台にして画いたらしい。それで居て、あの自然に近い絵を画いたのを見ると、記憶力が確かであつたことが察せられると云ふのである。
 併しそれは、ミレーの息が、子供の時に見た記憶からの話であるから、全然少しも間違はないと断言することは出来ない。其後ち、私はミレーの画いた其附近の風景の画などを見ると、どうも記憶ばかりでは出来ないと思はれるのがあつた、それに、いつも手帖を持つて居たと云ふだけでも、やはり写生をしたらしく思はれる。
 それから、さすがに大家の子だけあると思つて、今でも感心して居ることがある。彼が日本人に会つたのは、私が初めてゞあつたさうだが、私がバルビゾンに行つたよりも数年前の事だが、日本から、浜尾さんや、岡倉さんや美術取調の為に、欧米を巡回した一行が、巴里へ着いて、ミレーの絵を見て深く感心をして、「仏蘭西の絵を沢山見たが、ミレーの絵が一番いゝ」と言つたと云ふことが、新聞に出て居たさうである。ミレーの息はそれを見て遺憾に思つたと言つて居た。そして言ふには、私は個人としては、親爺の名誉だから喜ぶが、遥々仏蘭西の美術を調べに来て居ながら、ミレーの絵ばかりを褒めるのは遺憾だ、仏蘭西には、まだ外にも立派な美術が沢山あるのに、それが見られないのは遺憾だと言つて居た。それには私は感心した。
 も一つ思ひ出しても面白い話は、元来ミレーとルウソーとは、一緒に紀念碑に肖像を刻つてある程、無二の親友であつたのである、それが、或時ミレーが怒つて、十日も、ルウソーに口を利かなかつた。子供らしいが、其無邪気なところが面白いではないか、喧嘩の原は日本画のことからである、其頃巴里あたりでは、まだ日本のことなどは深く知られて居なかつたが、何でも日本と云ふ国があると云ふ様なことで、錦絵などが珍しがられて売られて居た。ミレーが或時巴里へ往つた時に、錦絵に感心して買つて来た。ミレーの曰ふには、「日本は野蛮ではない、野蛮人にこんな絵が描ける筈がない」と、そして大変其錦絵を大事にして居た、それをルウソーに見せた、ルウソーも深く感心して借りて行つた。そして幾日経つても返さぬので、ミレーが怒つたのであつたさうである。
 私の居た頃、バルビゾンにはバートレットと云ふ老人が居た。亜米利加人で、伝記家で、ミレーの伝を書きに来て居た。其息は彫刻家で、其頃はグリフィンよりは三つ四つ年が若かつた、二十五六でもあつたか、其後大家になつて、今は亜米利加では第一流の彫刻家である、先頃亜米利加の婦人達が拠金して、仏蘭西の将軍で、亜米利加の独立戦争に加勢したラファエットの像を造つて仏蘭西に寄附した、それはルウヴルの庭に建てられたのであつたが、バートレットは其依頼を受けて製作した。仏蘭西の政府からも、久しい以前に勲章を貰つた。今は名誉ある地位に立つて居る。子供の時分から仏蘭西に居たので、英吉利語より仏蘭西語が達者な位だ。先達も、元私の居た学校に彫刻の教師をして居ると言つて、学校の引札を送つてよこした、爺さんの書いて居た、ミレーの伝記は、其後、出来たかどうか、それは知らぬ。
 又た亜米利加人で、バブコックと云ふ老人の画家が居た。六十歳位の独身の、元気な爺さんであつた、寒い時分にも、池の氷を破つて冷水浴をするなどゝ言つて居た。ミレー崇拝家で、ミレーの直弟子で、当人は絵は余り巧くなかつたが、大分沢山ミレーの絵を持つて居て、自分の画室に懸けて居たが、其中に、森の中に裸の女が、水浴をして居るところか、水浴から出た処かを画いた絵があつた。バブコックの話では、非常に安く掘出したのださうである。何でもミレーが、まだ頻りに裸の絵を画いた頃のことであるが、バブコックは、ミレーの画室で、其絵を画いて居るのを見た、其後二三年程経つてから、バブコックが再び仏蘭西へ来たとき、偶然古道具屋で、其同じ絵を見付けて二十フランで買つたのださうである。
 グリフィンは、私と一緒に外の村にも居たことがあつた。私は日本に帰る前にグレーに居て、グリフィンは、バルビゾンから十町許り距つたフラウリーと云ふ村に居た。バルビゾンの村はづれの畑に出ると、向ふの方に見える村である。此林檎の花の絵は、其フラウリーの村で画いたのだ。其頃私は度々グレーから、フオンテヌブラウの森を通り抜けて、グリフィンの処へ遊びに往つた。グリフィンの処で晩飯を終つてから帰途に就くと、森にさしかゝるまでが十四五町、それから森をぬけて、私の居たグレーへ帰り着くのが、十一時過から十二時近くであつた。
 フオンテヌブラウの森は仏蘭西には珍らしい森で、岩石があつて、凸凹が盛んにあつて、鹿が沢山居る。無論狩猟は禁じてあると思ふ、森の中では沢山な鹿の群に出会ふことがある、鳴声は盛んに聞かれる。唯日本の山と違つて谷川などはない、水溜りが少しある位なものだ、此森を通ると、どうも西洋に居る様な感じはしない、どこの世界に居るか分らぬ様な気持がする。
 グリフィンは、コランの塾で、私と最も懇意にして居たのだが、前に言つた通り、兄弟子で、サロンも、私とは一年前に及第した。サロンの開会日には、及第者は、午前に一人、午後に一人を伴れて行かれることになつて居る、それで前年にグリフィンが及第したときに、私を伴れて行つて呉れた、翌年私の及第したときは、グリフィンを伴れて行つた。
 グリフィンと分れたのは、一八九二年(明治二十五年)で、互に紀念に、自分の画いたものを一枚宛分けて帰つた、其後暫らく音信がなかつたが、一九〇〇年に、私が巴里へ往つた時、バートレットに聞いたら、亜米利加の何処とかに教員になつて居ると言つて居た。一昨年、偶然元バートレットの女房であつた女が、其後離縁をしてマダム・ラングとなつて居るのが、日本に遊びに来たので、方々案内などしてやつた、其時に其女の話に、グリフィンは紐育に居て、相変らず、暢気な生活をして居ると云ふことであつた。其後ち、グリフィンはボワニヴヰルに行つたと云つて手紙をよこした、又たグレーに行つたと言つて手紙を呉れた、そして、自分は相変らず絵を画いて居るから、他日日本で大博覧会でも開かれたら、其時絵を送るから批評して呉れと言つて来た。それで近況を知つたのだが、今は巴里に居て、昔なじみの田舎を巡り歩いて居るらしい。
 コランの塾で、私の懇意にしたのは、グリフィンの外に、ジョンスと云ふ英国人であつた。私とは同年輩で、常に技術の上で競争をして居た。学校では互に一番になつたり、二番になつたりして、競争したものだが、私は絵を画き始めた日が浅いので、製作の力は、まだなかつた。グリフィンは年上でもあり、先輩でもあり、ジョンスは年輩は同じであつたが、技術は一日の長があつて、グリフィンと同時に、サロンに及第した。
 ジョンスはミケランジュ崇拝で、デッサンは巧かつた。極厳格な、戯談一つ言はぬ人物だつたが、併し極人の好い人間で、常に柔和な顔をして居た。今考へて見ると、あゝ云ふ風な学生は、日本の昔の道徳の高い先生の塾でなくては居らぬと思ふ。巴里の美術学生は、実際の堕落如何は別として、女の話は普通であるが、ジョンスは、決して女の話などはせぬ、酒も飲みに行かなかつた。いつもミケランジュの話などをして居た。惜いことに、其後肺病になつて、澳太利亜で死んだ。
 其外同塾でバードとウォスパーと云ふ、二人の英人とも親しくして居た、ウォスパーは、滑稽趣味のある人で、能くポンチを画いた。一九〇〇年に巴里で再び会つた。相変らず暢気な生活をして居た。技術は進んで居た。西洋人は、一たい淡泊だから、書生時代の様に、互に絵の批評をした。其助言に依つて、私は益を得たこともあつた。其後ち英国に帰つて達者で居る、先達て久米から音信を聞いたし、一昨年私が帝室技芸員になつた時など、態々祝詞みた様なことを言つてよこした。此二人とも真面目な人物であつた。
 バードとは、グリフィンと私と三人一緒にボワニヴヰルに居たことがある、又私と二人で外の田舎に居たこともあるが、二十六年に私が帰朝してから、其後音信がない。(文責在記者)
  (「美術新報」11-5  明治45年3月11日)
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