黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎故床次正精君

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慥か明治二十六年だつた、私が仏蘭西から帰ると間もなく尋て来て下さつて、私も至て画が好きで自己流でやつて居ります、是から又時々話に来ますと云はれたが、残念な事には其後一向逢ふ機会が無かつた。
 床次君は、同郷の人であるから、私の父抔は無論能く知つて居る。現に同君のかゝれた父の肖像が内に有る。あんなに不自由な時代で、しかも自己流で能くあれ程に油絵が出来た者だと思はれるものが沢山残つて居る。が然し、もう今では人が余りよく記憶しない。同君が油絵に熱心であつたことは、実に想像外で、役所から帰つて来られてから、筆を執られて、徹夜して、画を作られたことは珍らしくない。又夢で或る処に遊んで、其の景色がいかにもいゝので直ちに筆を執らうとしたが、道具が無いので困つて居る、其のとたんに夢は覚めたが、其の景色を忘るゝことが出来ず、とうとう明け方までかゝつて、其図を画いたと云ふ位で、云はば、寝ても覚めても、絵の事を考へて居る人で、画と来たら飯よりも好きだと云ふのは、全く此人の事である。
 慶応元年の十二月に島津久光公の命で、外国の事情を探りに藩士数十人づれで、長崎へ出張せられたことが有る。是れはつまり英艦と戦つた結果で、英艦はどうやらこうやら退却させて仕舞つたやうなものゝ、彼我の兵器は到底比べ物にならないことを悟つたのであつた。其処で、英人のガラハと云ふ者に就て、色々取調をされた。丁度英国の艦隊が碇泊して居て、床次君等一行の為めに態態湾内で演習をやつて見せたり、戦艦内へ導いて其構造設備の完全な所を示したりしたので、一行は大に敬服したそうだが。又一日ガラハが皆を招いて、大に饗応したそうだが、其時四壁に洋画の額が掛けてあつた。元より画好きの床次君の事であるから、直に其額に目が着いて、見れば見る程真に迫つて、只驚くの外は無かつた。是れが床次君の洋画の見初めで、亦是れから始めて洋画をやつて見たいと云ふ念も起つたのである。
 同君は子供の時に、能勢武右衛門(浄川軒心斎一清)と云ふ人の弟子に為つて、狩野家の画風を学ばれたのだが、時勢が時勢で、なかなか呑気に画をかいて居る訳にも往かずに時が立つた。明治九年には宮城上等裁判の検事を勤めて居られたが、もう此頃には切りに洋画を研究して居られた。丁度其時に讃州高松の人で、梶原昇と云ふ洋画家が東京から来たので、其人と知り合になり、互に助言を仕合つて大に研究せられた。兎に角仙台の事だから、何も彼も不便で、顔料や画布なども二人で手製をやつて使つて居られたそうだ。此の梶原氏がまたなかなかの変りもので、髯をはやし耳たぼに金の環を下げて居た。明治十二年頃に床次君の世話で、銀座に看板を出して肖像画をかいて食て居たが、其後大病に罹つてどうすることも出来ず、とうとう東京を去つたが、夫れからどう為つたか分らない。
 米国のグラント将軍が来た時に、其肖像を写真に拠て画き、其れを将軍に贈られたので、此事が新聞に出て、始めて床次君が洋画をやられると云ふ事を人が知つた。是れが抑も、君の画家としての名誉の始まりで、夫れから、元老達の依頼は勿論の事、勅命によつて、沢山の画を作られたのである。今君の作品の主なるものを挙ぐれば、明治十五年に勅命で日光の名勝を尽く写され、又憲法発布の時にも、矢張勅命で御式場だの、御祝宴などの図を都合八枚程画かれた、今此に掲ぐる所の正殿式場と豊明殿夜会の二図は、其後紀念として別に作られたもので、今は貴族院に保存されてある。
 老西郷の肖像は、君の最も苦心の作で、明治二十年の夏に着手せられて、山下房親君の意見を聴き幾度となく修正を加へて、出来上つたのだ。実に記憶を基礎として、此れ程に作り上げる事のむづかしさ加減は思ひやられる。今日南洲翁の面影を見る事の出来るのは、全く君の賜である。
 君は天保十三年五月九日の生で、初めは児玉と云つたが、後ちに床次家を継がれたのだ。丈の高い痩形の色の浅黒い人であつた。明治三十年に辞職して、久し振に墓参かたかた国へ帰られたのだが、十月の二十日に急病でなくなられた。
 今の徳島県知事の床次君は即ち正精君の次男である。
  (「光風」2-1  明治39年1月)
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