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白馬会関係新聞記事 第11回白馬会展

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白馬会展覧会評
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| X | 読売新聞 | 1907(明治40)/10/20 | 6頁 | 展評 |
文部省展覧会(もんぶしやうてんらんくわい)は近々開(きんきんひら)かれる為(ため)、この秋(あき)の白馬会(はくばくわい)はスケツチを多(おほ)く集(あつ)めて開会(かいくわい)してゐる。幅(はゞ)の広(ひろ)い絵(ゑ)が少(すくな)いから見栄(みばえ)はせぬが、実質(じつしつ)に於(おい)ては例年(れいねん)のに劣(おと)るとは思(おも)へない。元来日本(ぐわんらいにほん)の洋画(やうぐわ)はまだ幼稚(えうち)の境(さかひ)にあつて、大作(たいさく)を充分(じうぶん)に書(か)きこなすことは六(むつ)ケ敷(しい)ので、小(ちい)さい作(さく)に完全(くわんぜん)に近(ちか)いのが多(おほ)い。今回(こんくわい)の出品画(しゆつぴんぐわ)を見(み)るに、少壮画家(せうさうぐわか)が痴者嚇(こけおど)かしをせずして自然(しぜん)を忠実(ちうじつ)に研究(けんきう)しやうとする態度(たいど)があつて喜(よろこ)ばしい。画題(ぐわだい)に殊更(ことさら)に奇抜(きばつ)な者(もの)を取(と)つて俗眼(ぞくがん)を驚(おどろ)かすよりは、矢張自然(やはりしぜん)を真面目(しんめんもく)に研究(けんきう)した方(はう)が画界(ぐわかい)の発展(はつてん)を促(うな)がす所以(ゆゑん)だ。出品画中(しゆつぴんぐわちう)黒田氏の花(はな)の小品(せうひん)五六枚(まい)は流石(さすが)に群(ぐん)を抜(ぬ)いてゐて他(た)の作(さく)の如(ごと)くゴタゴタいろんな者(もの)を不整頓(ふせいとん)に列(なら)べることなくサツパリして品位(ひんゐ)もある。山本森之助氏の「海岸(かいがん)の松(まつ)」は風景(ふうけい)の写実(しやじつ)に於(おい)て近代屈指(きんだいくつし)の人(ひと)たる程(ほど)ありて場内(ぢやうない)の傑作(けつさく)。但(ただ)しユツタリした所(ところ)なく見(み)た所窮屈(ところきうくつ)なのが欠点(けつてん)。中沢弘光氏の「裸体美人(らたいびじん)」は厭味(いやみ)な作(さく)だ。左(ひだり)の二(に)の腕(うで)が鯉(こひ)のやうで人間(にんげん)のらしくなし。右(みぎ)の手(て)は働(はたらき)きがなく無意味(むいみ)だ。物(もの)の反射(はんしや)も厭(いや)な気(き)がする。それに裸体画(らたいぐわ)を作(つく)るに何故(なにゆゑ)あんな場所(ばしよ)を選(えら)んで朦朧不自然(もうろうふしぜん)に描(ゑが)いたのであらう。裸体(らたい)を描(ゑが)くなら肉(にく)の色(いろ)を充分(じうぶん)に描(えが)くのを目的(もくてき)としたらよからう。但(たゞ)し同氏(どうし)の「奈良(なら)の小品(せうひん)」及(およ)び水彩画(すゐさいぐわ)は特得(とくとく)の技倆(ぎりやう)を見(み)せてゐる。色彩(しきさい)も佳麗取材(かれいしゆざい)も清新(せいしん)で、小品中異彩(せうひんちういさい)を放(はな)つてゐる。長原孝太郎氏の「裸体(らたい)」は氏(し)の作(さく)として佳作(かさく)といふべく、今迄(いまゝで)の様(やう)に不真面目(ふしんめんぼく)でない。欠点(けつてん)は目(め)や鼻(はな)や口(くち)に締(しま)りがなく、骨(ほね)も肉(にく)も充分(じうぶん)に描(ゑが)かれてゐるとは思(おも)へぬ。それに後(うしろ)の石膏(せきこう)がボンヤリして前(ぜん)の美人(びじん)とは不調和(ふてうわ)。小林萬吾氏の「京(きよう)の舞子(まひこ)」は色彩(しきさい)は美(うつく)しいが鼻(はな)が低(ひく)かつたり着物(きもの)が不格好(ぶかつこう)であるのは不注意(ふちうい)。岡田三郎氏の肖像画(せうぞうぐわ)は氏(し)の肖像画中(せうぞうぐわちう)の佳作(かさく)、和田英作氏の肖像(せうぞう)はホンのスケツチで楽(らく)に書(か)きこなしたのが取所(とりどころ)であるのみ。三宅克己氏の水彩(すゐさい)十二三枚例(まいれい)の如(ごと)く版(はん)にでもしたやうで生気(せいき)がないが、見物向(けんぶつむ)けはよいやうだ。高木誠一氏の「風景(ふうけい)」は西洋(せいやう)のはバタ臭(くさ)く、帰朝後書(きてうごか)いたものは腕(うで)が逆戻(ぎやくもど)りした気味(きみ)がある、又氏(またし)の大作(たいさく)「夕(ゆう)やけ」は徒(いたづ)らに大(おほ)きい計(ばか)りで愚(ぐ)にもつかぬもの。跡見泰氏の風景(ふうけい)は色彩(しきさい)が落付(おちつ)いて俗気(ぞくけ)なし。小林鐘吉氏の「嵐(あらし)の跡(あと)」は色(いろ)が寒(さむ)く且(か)つ汚(きた)なし。嵐(あらし)の跡(あと)といふ趣(おもむき)のあるのはよいが、遠方(えんぽう)の波(なみ)をわざわざ赤(あか)くしたやうで、夕日(ゆふひ)を受(う)けて赤(あか)くなつたやうではない。近藤浩氏のスケツチは落筆大膽(らくひつだいたん)で意匠(いしやう)も面白(おもしろ)い。また客気(きやくけ)にはやり、あまり物(もの)を無雑作(むぞうさ)にする弊(へい)はあるが、吾人(ごじん)はこんな作(さく)を好(この)む。薄拙太郎氏の「富士(ふじ)」の空(そら)は山(やま)の調子(てうし)が不快(ふくわい)の感(かん)を起(おこ)させる。蒲生氏の「少女(せうぢよ)」は顔(かほ)と手(て)がよく出来(でき)て衣服(いふく)も日向(ひなた)らしいが、抱(だ)いてる猫(ねこ)が死物(しぶつ)のやうに見(み)えるのが欠点(けつてん)。其他学生無名(そのたがくせいむめい)の人(ひと)のに随分佳品(ずいぶんかひん)がある。しかし予(よ)が縦覧(じうらん)した時(とき)にはまだ目録(もくろく)が出来(でき)ぬので画題(ぐわだい)も分(わか)らず、記憶(きおく)にも止(と)まらなかつた。(X)

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