2. 序
東京文化財研究所所蔵西洋美術関係図書と矢代幸雄
独立行政法人東京文化財研究所の前身、帝国美術院附属美術研究所は、画家黒田清輝(1866―1924)の遺志と美術史家矢代幸雄(1890―1975)の着想によって歩み始めたと言っても過言ではない。1924年、黒田清輝は死去にあたり、遺産の一部を美術奨励事業のために用いるよう遺言した。しかしながら、美術を奨励する具体的方法については明言されておらず、遺言執行人樺山愛輔にその事業選定を一任された牧野伸顕は、黒田と生前、交遊の深かった、東京美術学校校長正木直彦、帝国美術院長福原■二郎、画家・美術評論家久米桂一郎と共に、どのような事業を起こすか、熟慮することとなった。そこへ、イタリア美術史の大家バーナード・ベレンソンBeranrd
Berenson(1865-1959)に学び、1925年に英文の大著
《Sandro Botticelli》をロンドンのメディチ・ソサエティーから刊行して高い評価を受けた矢代幸雄が欧州留学から帰国する。東京美術学校教授に籍を置いて留学した矢代に、同校校長正木が黒田の遺言の事業化について意見を求め、矢代が、欧州留学中に多大なる恩恵を受けた「写真を主とする美術図書館」の意義について述べたところ、これに福原、牧野が賛同し美術研究所の構想が成った。
周知のように、矢代幸雄は1890年横浜に生まれ、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学英文科を1915年に卒業している。絵画に興味を持ち、日本水彩画研究所に学んで、帝大在学中の1913年第7回文展に水彩画「草原の赤い傘」で入選を果たす。これが契機となって同大卒業とともに東京美術学校講師となって西洋美術史を講じ、1917年同校教授となった。21年3月、西洋美術史研究のため欧州へ留学し、ロンドン滞在を経て、同年秋よりイタリア、フィレンツェでベレンソンに師事。25年2月に帰国し、美術研究所設立に参画。1930年に開所した同研究所の主事を31年11月からつとめ、36年6月に初代所長となった。しかし、42年1月に開戦の詔勅を誤読した事件により、同年6月に美術研究所を辞任。以後、神奈川県大磯に隠居したが、戦後の1950年文化財保護法が制定されると文化財保護委員となる。52年4月の美術研究所改組に伴い再度、同所長となり翌年10月までその任にあった。その後は大和文華館設立の準備にあたり、60年から70年まで同館の初代館長をつとめた。70年文化功労者に選ばれ、75年5月25日、84歳で死去している。
美術界に幾多の功績を残した矢代であるが、その生涯のうち最も心血を注いだのが美術研究所の事業であった。その志は、師ベレンソンがジョヴァンニ・モレリGiovanni
Morelli(1816-91)の着想を受けて完成させた「様式批判」Stylistic Criticismの方法論を継承する者としての自覚に根ざしていたと思われる。作家の様式研究を、多くの作例ないしはその写真を詳細に比較することによって実証的に行う方法は、矢代自身がボッティチェリ研究に用い、その著書によって欧州の美術史界で高い評価を得たものである。矢代は、帰国後、これを日本東洋美術に応用し、その方法を確立する仕事に個人的に着手していた。それが、美術研究所の構想となったことにより、英国ロンドンの
Sir Robert Witt家の欧州絵画写真コレクションなどを手本とする東洋初の「写真を主とする美術図書館」の実現につながったのである。
開所に際し、矢代は自らの蔵書を寄贈するなど、私財を投じて図書・資料の収集に当たった。矢代在職中に収集された図書・資料は、日本の美術史学史の考察に不可欠となろう。これらは、矢代の方法論の確立に資するものであったばかりでなく、昭和戦前期の美術史家の閲覧に供されてきたからである。特に西洋美術関係図書は、日本における西洋美術史研究史を跡づける上で貴重なものである。当所が現在所蔵する西洋美術関係欧文図書は約1500冊であるが、そのうちの3割が矢代の寄贈による。ルネサンス美術関係図書は全体の2割を占めるが、そのほとんどが矢代在任中に登録されている。ボッティチェリ研究で知られ、『随筆レオナルド・ダ・ヴィンチ』(朝日新聞社 1948年)などの著書を持つ矢代の関心が反映されている。西洋美術関係和書は約600冊所蔵されているが、そのうち2割が矢代の寄贈による。欧文図書の9割、和文図書の4割が1945年以前の刊行となっている。
戦前の美術研究所では、「研究第一部」が「東洋古美術」、「研究第二部」が「明治以降ノ美術」の調査及研究、「研究第三部」が「欧米美術ノ調査及研究」及び「欧米ニ於ケル東洋美術研究ニ関スル調査」「美術上ノ国際聯絡ニ関スルコト」の担当となっていた。戦後の改組によって、戦前に「研究第三部」で行われていた欧米美術の研究に関することは、「近代及び現代美術並びに西洋美術の調査研究」を行う「第二研究部」に吸収されて組織上縮小する。また、帰国後、日本に落ち着いた矢代自身の興味も、徐々に東洋に傾き、「美術研究所(中略)に対して日本の社会やまた世界全体が最も期待をかける働きも、従ってまた研究所自体に課せられたる最も主なる任務も、追々東洋美術に集中されて行った」という事情もあった。矢代の辞任後、田中豊蔵、福山敏男、松本栄一ら、日本東洋美術史研究者が歴代の所長となっているのも、そうした流れの中でのことであろう。こうしたことの反映が当所所蔵の図書・資料にも認められる。
矢代は、東京美術学校在職中、西洋画研究科教室で研究生とともに絵を描き、黒田に作品を見てもらった経験を持つ。西洋美術関係図書、資料の収集の一因も、「(美術研究所が)黒田清輝画伯の遺産寄付に始まり、そして黒田さんは油画の大家であったから」「西洋美術研究者や画学生たちの便宜も大いに考えておいた」というところにあったらしい。黒田の遺志に対する矢代の思いは大変律儀なものであって、美術研究所についても、「その関係者がどうしても忘れてもらってはならないこと」を「遺言のごとく明記しておく義務を感ずる」として、次のことをあげている。ひとつは黒田を記念し感謝の意を表すること、今ひとつは「一種の写真複製を主としたる社会への美術図書館的貢献」。黒田の「日本の美術界一般のためになってほしい」という好意で設立された機関であるから、その主旨を継いで「公開および公衆に対する奉仕、即ちPublic
Service」を旨とすること、「所内の研究者が自分の研究をしてさえおればよいというものとは、設立の主旨が根本的に違う」、その点を銘記することを促している。
このたび、西洋美術関係図書目録を端緒に、当所所蔵図書目録の刊行が始まったのは、矢代の遺志にも添うこととして喜ばしい。
(美術部 山梨絵美子)
註記 : 研究所についての矢代の回想は、矢代幸雄『私の美術遍歴』(岩波書店 1952年)の「東洋に帰る―美術研究所の設立」(234-264頁)に詳しい。また、詔勅誤読事件については同書および『美術研究』126号(1942年9月)の「美術研究所時報」を参照。
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