本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1884(明治17) 年2月9日

 二月九日(香港日記) 九日午後四時過ギ同行橋口氏ト墓見物ニ出掛ク 道ヲ知ラザルヲ以テ旅宿ヨリ駕籠ニ乗ジテ行ク 左方ニ進ム 然ルニ此方ハ右方ノ雑踏トカハリ仙境ニ入ルガ如キ所アリ 又文明国ニ遊ビシガ如キアリ 壮快ナル家屋アリ 運動場アリ 競馬場アリ 其間ニ軍人等相携ヘテ歩行ス 又本日ハ土曜日ナル故カ運動場ニ於テ衆人戯遊ス 楽隊ハ楽ヲ奏ス 実ニ心自愉快ナリ 山ヲ見レバ遠方カラ見シトハカワリ岩石起伏ノ有様画ケルガ如シ 山頂ハ植木無シ 麓ニ近ツクニ従ヒ樹生ス 麓ニ松樹多シ 併シ甚タ大ナル者ヲ見ス 却説橋口氏ト駕籠ニテ行ク 道路平坦也 而一本道也 路傍樹有リ 之ヲ見レバ枝多クシテ繁ル 而葉ハ榊ノ葉ノ如クニシテ小ナリ 根ハ四方八方ニマタガリ網ヲ張リシガ如シ 又枝ヨリ根ヲタル其長サ一間余ニ至ルモノ有リ 此木ハ生等ノ旅宿ノ辺ヨリ左方ノ路傍ニ植エタリ 右方ノ市街ニハ樹木ヲ見ズ 少シク進ミ行ケバ小坂アリ 登リ又下ル所ナリ 此ノ坂ヲ下リ右折シテ二三丁行ケバ競馬場ナリ 此辺四方山ニシテ景色美ナリ 偖此ノ競馬場ノ屏ワキニ竹ヲ植エタリ 是則鹿児島ノ金竹ナリ 而鹿児島ノ垣ナドニセシモノニ比スレバ至大也 又此ノ所ニハ小屋多ク作リ居タリ 是レ競馬ヲ見ルサジキト推察セリ 其柱等ハ小ナル丸木以テ作レリ 四ッ谷丸太ノ様ニ美ナルモノニ非ス 屋根ハ株梠ノ葉ノ如キモノヲ以テカヤ葺ノ如ク作リタリ 此辺路傍ニ草ノ様ナ木ノ様ナ其葉ハ細クシテ長ク葉ノフチニ針有リ而衆葉束ネタルガ如ク一ツ所ヨリワントヲヱタリ 余初メテ見聞セリ 此競馬ノ入口ヨリ籠ヨリ下リ遅々歩シテ墓所ニ至ル 到レバ其風日本ノ公園地ノ如クニシテ樹木雑植松アリ 蘇鉄アリ 其樹間ニ墓アリ 而此ノ所ニ植エタル樹木ハ余ノ未ダ夢ニモ見ザル者多シ 而カモ尤モ奇ト云可キハ夏ノ草花多ク咲キタリ 第一桜草又葵ノ如キ葉ニテ桃色ノ一寸桜ノ如キ花ヲ咲ク草日本天神ノ市ナドニ沢山有ル者也 其他名ヲ知ラザル草花等コテト咲キタリ 蜜柑ノ木ノ花咲キタルモアリ 松樹等緑ヲ争ウ中ニ又此ノ紅色ヲ交ヘ夏ト冬ト一度ニ来リタルガ如キ心地ス 又モウソウチク位ノ竹ニテ縦ニシマアル者有リ 又鹿児島ニテヘゴト云草アリ 其葉一本ノ長サ二間斗ニ至ル 而幹長ク地上ニ出テ殆ド蘇鉄ノ如キ風ヲ為ス 余此ノ墓地ヲ徘徊スルノ間奇妙美麗ヲ云ヒツヾケタリ 又一ツノ奇談アリ 今夜当地在留陸軍士官三浦氏(此ノ人ハ平田氏 大迫氏等ト同ジク士官校ニ在リシ人ニシテ十年戦争ニモ出ラレタリシ由 又楠公ノ墓前ニ於イテ衆人ト写シタル写真アル由ナリ 此段ハ無用ナレドモ一寸千田嘉吉兄ニ申上候 若シ写真デモ有之候得バ御覧ナサル可ク候)ト共ニ三人連レニテ食事ヲ為サント食事室ニ至リ三人机ヲ囲ミテ座ス 此ノ三浦ト云人ハ髪及ヒ服ニ至ル迄皆支那風ニ変ジ言語ヲ交エザレバ其日本人タルヲ弁スル能ハズ 已ニ昨日日本領事館ニ於テ始テ対面ノ日橋口氏支那人ナラント思ヒ其能ク日本語ニ通ズルヲ云ウ 其人答テ曰ク 我日本人ナリ 於是余モ亦始メテ其日本人ナルヲ知ル 然ルニ今夜食事室ニ入ルヤ外人亦其支那人ナルヲ思フ 亭主ラシキ白人来リ曰ク 支那人此ノ処ニ於テ食スルヲ得ズ 此ノ言タルヤ支那人ヲ入ルレバ他ノ客ニ失敬ニナル由ナリ(此ノ食事室ハ一机ニ四人ヅヽノ者数十アリ而今夜モ多人数食事ヲ為シ居タリ) 橋口氏大声叱シテ曰ク 彼ハ日本人也 非支那人 白人去ル 此時衆客皆何事ナルカト思ヒシヤ此ノ方ヲ見タリ 又直ニ黒人来ル 此ノ黒人ハ甚ダ黒クアラス 白人ニ類ス(当地ニハ日本人ニ甚タヨク似タル人多シ 併シ言葉ヲ聞ケバ外国人ナリ 是レ即チ黒人ト白人ノアイノコ也ト云) 此人ハ当家ノ幹事ノ如キ者ト見ヘタリ 橋口氏ニ言ウテ曰ク 彼ハ日本人ナリト雖モ服変ズ故ニ支那人ノ如シ 当家ニ於テ支那人ヲ此室ニ入ルヽヲ禁ズルハ規則也 請フ他室ニ行カン事ヲ 橋口氏曰 規則ナレバ止ヲ得ズ 故ニ共ニ倶ニ此ノ室ヲ去リ他室ニ至リ食ス 黒人拙者等ノ去リシヲ甚ダ気ノ毒ニ思ヒシト見ヱ色々小使ニ指揮ヲ為シソコツナカラシムルガ如シ 而シテ又来リ謝シテ曰 英人ハ自己ニ驕ル 実ニ只今ノ事ハ実ニかなしき次第ナリ 橋口氏答テ曰ク 心配スル勿レ 此一事ヲ以テ支那人ノ権利ヲ失フ又見ル可シ 我領地ヲ取ラレ其所ニ来住スル旅宿ニ行キテモ常人ト同室ニテ食スルヲ得ス 長嘆息ノ至リナリ 三浦氏曰ク 船ニ乗スルモ支那人ハ上等ニ乗ル事ハ出来ズト 諸君ヨ勉哉

1884(明治17) 年2月11日

 二月十一日附 香港発信 父(清綱)宛 封書 寸紙謹呈仕候 益御安康之筈奉大賀候 私儀海上無事八日午前七時当地ニ安着仕候間乍憚御休神可被下候 扨テ船中ハ万事直右衛門様御世話ヲ以テ都合宜敷七日間中等室ニテ起臥仕候 着港スルヤ直ニ領事館ニ至リ書記生平都氏之案内ヲ以テホンコンホテルト名クル旅店ニ止宿仕候 同夜領事館ニ於テ日本料理之馳走有リ 昨日ハ東京寿し本日ハ鹿児島寿し之馳走有リ候 当地ハ日本ニ近キニ依リ日本之物ニハ不自由無之候 此ノ香港ト申所ハ桜島ヨリ少々大ナル島ニテ市街等ハ美麗ニハ無之候得共皆三四楷也 通路ハ大抵阪也 是山麓ニ家屋ヲ建築セシ如キ処ナルヲ以也 委細ハ写真ニテ御一覧可被下候 此地ニテ第一ノ驚愕ハ八日橋口氏ト断髪セシ所其賃金八十銭余九十銭計但シ一人分ニテ実ニ閉口仕候 清仏一件ハ未ダ戦場之様子無之由ニ御座候 当港ニハ仏軍艦数個定泊致シ候 領事町田氏ノ話ニ広東ニ於テハ彭玉〓ト云大将砲台等ヲ築キ軍備ヲ為ス由 此ノ彭玉〓ハ主ニ戦家ニシテ衣食ヲ飾ラズ極テ質朴ナル人也ト云 町田氏ハ小生等着セシ時ハ広東ニ行シ旨ニテ不在 二三日前帰館セラレシ故氏ノ話ハ実説ニ可仕候 先ハ安着御報迄 早々 頓首 父上様 下ノ父上様 叔父様 平信  清輝拝

1884(明治17) 年3月21日

 三月二十一日附 パリ発信 父宛 封書 寸紙拝呈仕候 益御清適奉大賀候 次ニ私二月十二日香港出航 海上至極平穏数所港ヲ経テ本月十五日無事マルセイユ港ニ着 同十八日同処発 気車ニテ同夜十一時半巴里府ニ安着仕候間御休神可被下候 兼而承リ候通リ当地ハ実ニ繁華ノ地ニシテ華美ナル家屋或ハ物品等不少候 学校モ公使館書記生宇川盛三郎ト云人ニ依頼致シ候ニ付御安心可被下候 此ノ宇川ト云人ハ井田氏ノ朋友由ニ御座候 先ハ安着之御報迄如此 余附後便 父上様 平信  清輝

1884(明治17) 年

 三月二十一日附 パリ発信 母(貞子)宛  文して申上候 ますます御きげんよくいらせられ候はづめでたしめでたし わたくしもそのごはますますげんきで三月十八日よる十一じ半ようやくこのちにこぎつけました 御あんしんくださりまし これからどうちゆうのおはなしをいたしませう 二月十二日ほんこんをたちましておくしゆすといふふねにのりました このふねはよこはまからのりてきたふねよりよつぽどをゝきなふねにてこのふねでふらんすまできました こんどはまゑとはちがいふらんすにつくまでふねがちつともゆれずきぶんもよくめしもはじめからたべつゞけました さてふねではめしは一日ににどにてあさは九じはんばんは五じでしたからのちにははらがへつてめしのたびになんでもどつさりたもんした 十三日の日よりちんちんあつくなりだしました 十四日の日よりなつのふくをきました 十五日にさいごんといふところにつきました このところはおゝさかのかわぐちのやうにながくかはをのぼるところなり なをゑもんさんとばしやでこうゑんちやてらをけんぶつしました そのけんぶつのうちでいちばんめづらしかつたものはしろのきです そのしろのまわりわふたかゝへばかりではのながさが三げんか四けんばかり またこのこうゑんちにはおゝきなとらが二ひきかつてありました こんなものをけんぶつするときのあつさはたまらない あせがだらだらだらだらひはにしにしにしにしかさわもたずはちろさんのこまつた――でした このとちのやつはみちをあるきながらなにかむしやむしやむしやくつています それゆゑはわまつくろになりちようどはぐろをつけているようです このくつているものわきのはにしろきおしろいのようなものをぬりそれになにかのこなをつゝんでたべるのなり このところにはとまりそうなやどやがなかつたからふねにかゑりました かゑりがけにみづちややによりましたらかべやてんじやうにはやもりがべつたりついていました 十六日こゝよりしつぱん 十八日しんがぽるにちやくしました このところにつくと十二三より二十四五ぐらいのくろんぼがちいさきふねにのりてきました これはぜにをうみのなかになげるとすぐにとびこんでそのぜにをとるのです ちやうどゑのしまでゑびやあわびをとるのゝやうでした なをよんさんとりくにあがりこんやはほてるどぺいといふやどやにとまりました 十九日しつぱん 二十四日ころんぼといふところにちやく このところはおしやかのぼうずがうまれたところなり なをよんさんとばしやでてらけんぶつにいきました きいろいきものをきたぼうずが三にんばかりいました ほとけはちやうどにつぽんのにおなじもの これはこのとちのやつのすがたをつくりたるものです これからてらなんどにいくのはおやめなさい くろんぼをおがむとおなじです ろやるほてるといふやどやにとまり二十五日はまたばしやでほうぼうけんぶつしましたげな このとちのやつはおとこがべつこうのくしをさしております このくにはべつこうとぞうげのさいくものがたくさんあります こんにちしつぱん 三月三日あでんにちやく こんにちはおせくではしぐちどんのはつびなじよのおきやくさまにおぢやつただろうとなをよんさんとおわさをしました しかしこのところはなにごともなし なをよんさんとまたばしやでけんぶつにでかけたり こゝであかいしやつぽをかいましてこれからふねのなかでしじゆうかぶつておりました こんなふうのしやぽです〔図〕 このあでんにてはらくだにものをうせたりくるまをひかせたりしております またまちをとうるとやぎがたくさんおります またたべものなどのあるみせにははいがぶんぶんぶんじつにきたなし ばしやでとうるとばしやのなかまでもはいがとんできます まことにはいのをゝきところです このところはあつきところであめがいちねんに十四五たびぐらいふるところできもなし それゆゑやまのしたにおゝきないけのようなみづためが十一あります これはあまみづをためておくところです 今日しつぱん 八日すゑすにちやく こゝにはただちよつととまつたばかりであがることはできず これからはかはのようなせまきところをゆくのです こゝはもとはとうれなかつたのをひとがほつてじようきせんがとうれるようにしたところです そのかわりにむしのはうようにしづかにゆくのです そうしてむかうからふねがくるとこつちのふねはとめるのです ふねがいきするときにはどつちのふねかいつぽのほうはとめていつぽのふねをとうらせます そうしてよるはいかずにいすめりやというところにふねをよせました つくとすぐになをよんさんとあがつてみました 九日あさはやくこのところをしつぱんしました 十一じ十五ふんまへひとつのふねといきすりました このところはせまきところですからふねがいきするときにはいつでもりようほうのふねからみんなみてとうります すぐそばをとうりますからかをがよくみゑます こんどのふねもとうるときにはわたしはかとうのかんばんのたるのうへにのりてみていましたらにつぽんのひとがにさんにんみゑたり これはぶんぞうさんがをりはせぬかとあかめをひつぱりいつせうけんめてにみていましたけれどもみゑませんでした とうりすぎてからなをよんさんとあひましたところぶんぞうさんがあのふねにいていろいろはなしをしたときゝましてざんねんせんばん しかしまういきすぎたからどうすることもできずなをよんさんとまへのひにはなしをしてこんなせまきところでぶんぞうさんのふねといきあつたらよかろうといつていましたらこんにちいきすりました しかしあわれず ざんねんざんねんざんねんざんねん こんばんつくところはぽるとさいどといふところにてぶんぞうさんのふねがこんばんつくところはいすめりやといふところです ゆゑにそんなにとふきところではありませんからなをよんさんとこじようきせんをかりてぶんぞうさんにあひにいこうとはなしをしてはやくこのふねがとまればよいよいよいとおもつて一日くらしさてついてみたらこんや十一じにしつぱんのよしにてじかんがすくなくいくことはできませんでした まことにざんねんざんねんざんねんざんねんしかたなし これは九日の事なり 十三日いたりやといふくにのねぶるといふところにつきました こゝにはあがることはできずきれいなところのようにみゑていました なぜあがれないかといへバいまより九かつきまへにこれらびようがはやつたからといふわけだそうです こんばんこゝをしつぱんしまして十五日あさ十一じ十ぷんまへふらんすのうちのまるせいゆといふみなとのまへにあるちいさいしまにつきたり すぐにまるせいゆにふねをつけないのはやつぱりまへのこれらのわけさ このしまに一日おりました 十六日あさ九じ十五ふんすぎまるせいゆといふところにつきました こゝでふねはおしまい ほてるどぷちるぶるといふやどやにやどをしましてなをよんさんとばしやではうばうけんぶつしました このところはたいへんきれいなところでいゑはたいていろくかいかしちかいでわたしたちがとまつたところはごかいめのところでしたをとうるひとをみるとむしがぞやぞやぞやぞやはつているやうでありました またまちをあるくひとがあんまりたくさんいてあるくのにじやまになります ひとがみんなおしやれにておかしきことです 十八日八じ二十ぷんのきしやでぱりすといふみやこにいきました このところはにつぽんのとうきやうのようなところでせかいだいいちのきれいなところです こゝにわたくしがおるところです この日はしゆうじつきしやにてよる十一じはんぱりすにつきました ごあんしんくださりまし ついてからまだたくさんかいてあげることがありますけれどもこんにち四じはんにゆびんがでるそうですからまづこれだけにしておきます いそいでかきましたからわからないところがあるかもしれません なをよんさんがうちにくわしきてがみにやくしよのようがあつてかきださないからおまんさあがはしぐちどんにおぢやつたときこのてがみにかいてあつたことをはなしをしてくださるようにゆつてあげてくれとぎやることでござりましたよ みんなげんきでしよ あざぶのめらのこはいかヾ よつぽどおゝきくなりましたろ こんどはいそいでみんなにはてがみをあげだしませんからよろしくよろしくよろしく せんちゆうでみんなのしやしんをだしてみましたら新二郎やおゑいさんたちのしやしんがないようですがもしやまだもらわずにきわしなかつたかとかんがへます もしのこしてありましたらおくりてください わたくしのしやしんはあとでうつしてあげます あねさんによろしくよろしくよろしくよろしくあねさんのおしやしんももつてきませんでした どうかあねさんにくださるようゆつてください うちからもつてでたくすのきのぼくとうはふねにのりましたときになをよんさんのかばんのうへにのせておきましたらそれぎりなくなりました わたくしもほんこんまではよつてしまいへやよりそとにはでませんでしたからたづねることもせずほんこんについたときにおもひだしさがしましたけれどもなし しかたなし とけいをみましたら三じはんですからまちつとかきませう さてこのちにちやくしひとばんこうしくわんにとまりよくじつ十九日ぶんぞうさんのふたばんかみばんおとまりなさつたやどやにやどをとりました またこうしくわんのうがわといふひとがせわをしてくれましてよきがつこがあるそうです 二三日のうちにがつこにはゑりますけれどもまだしれません このちでおかしきものはひとのしやれなり くわしきことわぶんぞうさんにおきゝなさい このしやれにはなをよんさんもびつくりなされたよふすなり わたくしわみんながきれいなようすをしてわたしにみせるとおもつてせけんをあるきます いゑはきれいまちはきれいひとのようすわきれい よきけんぶつなり こつちのやつはせうぐわつきぶんとみへ申候 まいにちこうゑんちなどにあそびにばしやにてゆくものがたいへんおゝし さくじつなをよんさんとこうゑんちけんぶつにいきました ずいぶんきれい こつちのかしばしやのかぢとりはみんなれいふくのたかぼうし むまはりつぱなこゑたむまにてにつぽんのようなやせごろのちいさきむまはみろとおもつてもなし ばしやは一じかんが四十銭 てつどうばしややのりあいばしやはどこまでゆいても六銭なり このふたつばしやにはにかいができております にかいのほうにのるとやすし さくばんなをよんさんとうんどうにでかけなをよんさんはうがわといふひとのところにゆきわたくしはけいこのためひとりでむちやくちやむちやくちやむちゃくちやにまちをあるきしやまぐれそれよりのりやいばしやにのりしにばしやのかねをとるやつがわたしになんとかいゝましたけれどもわからずたいがいどこでおりるかといふことだろふとさつしましたけれどどこというあてがわかりませんでしたからだまつていました そうするとわきやまへにのつているやつがはなしをしてわらつております それからばしやがとまるとすぐにおりどこだかしれないけれどあとのみちにかへりむちやくちやにゆきしにとうとうもんのところにでたり このもんといふはおゝきなもんでこれからまちのすぢがみんなわかれております このもんのうへにさくじつなおよんさんとのぼりてみました たいへんたかし くるくるまがつたはしごだんをのもるのです もんのうへにはむまとひとのおゝきなつくりものがのせてあります こんにちはあられがふりました とけいがやつぱりしじゆとまつてこまります へいきちおぢはやつぱりをつとめのごべんきようでしよ よろしく まづこれだけ ほかのことはあとより めで度かしく 母上様 無事  新太郎  したのおとつつあんやおぢさんにはべつにてがみはあげだしませんからおまへさまよりくわしくおはなしを なさりてくださりまし

1884(明治17) 年4月3日

 四月三日附 パリ発信 父宛 封書 一書拝呈仕候 益御清適奉大賀候 私儀至極元気ニ御座候間乍憚御放念可被下候 扨て直右エ門様及ヒ宇川氏ノ御世話ヲ以テ去月二十三日ブルバルバチニヨルト云町ナルゴツファルト云人ノ私塾ニ入塾仕候ニ付御安心被下度候 此ノ学校ハ日本ノ小学校ノ如キ者ニシテ五六歳ノ小児ヨリ十八九歳二十歳位迄ノ生徒都合二百五十人位有之其中過半ハ入塾生ナリ 私ハ言語ノ能ク通ズル様ニナル迄ハ特別ニ朝八時頃より一時間計修業仕其他ハ衆生徒ト同室ニテ勉強仕候 食事ハ教師及教師ノ妻等ト共ニシ寝室ハ三畳位ノ小室ヲ借受テ万事不自由無之候 食料及授業料ハ百五十フランクニ相定メ申候 此百五十フラントハ我三十円位ニシテ一フランハ即我二十銭ニ御座候 規則ハ余程厳ニシテ日曜日ノ外ハ外出ヲ許サズ 日本ノ塾ノ如キ自由ナルモノニハ無之候 木曜日ハ午後休業ニ御座候得共証人ノ証書ナケレバ外出ハ許サズ候 今ノ様子ニテハ余程宜敷様ニ御座候 昨日ヨリ久松ト云人入塾致候 此人ハ華族ニシテ家ハ東京浜町ニ有之三ヶ月計前ニ此ノ地ニ来リシ由ニ御座候 先ハ入塾之御報迄 草々如此御座候 頓首 父上様  清輝拝  二白 此ノ地ハ時候至テ不順ニシテ到着セシ頃ハ余程暖気ナリシガ入塾後四五日ハ曇天ノミニテ寒気甚ダシク此頃ハ亦少シク暖気ニ御座候

1884(明治17) 年4月18日

 四月十八日附 パリ発信 母宛 封書 一ふで申上度候 父上様御はじめおまへさまそのほかあざぶのあねさん したの父上様 おぢ様そのほかみなみなさまますますおげんきのはず御めでたくぞんじあげまいらせそうろ わたくしはいつもげんきにてべんきよういたしをり申候あいだ御あんしんくだされたくそろ にちようにはいつでもなをよんさんのところにいきましてごちそうになります このごろはやすみでござりますけれどもたゞのひにはでることはできずやつぱりにちようともくようびのふつかだけそとにでられますけれどももくようびはひるからさきだけです あしたはもくようびですからそとにでます せいとがこのがつこにのこつておるのはわづか十二三にんばかりでみんなほかのやつはやすみですからうちのあるやつはうちにかえつてしまいさみしきことです このがつこにはいりてからにちようにそとにでゝなをよんさんやほかのにつぽんじんにあうのがなによりのたのしみでござります(中略) さる五日にひぽどろむといふきよくばのみせものをみにいきました このひぽどろむはよるするみせものでござりますからこのひになをよんさんがわざわざがつこにむかいにきてくださいましてみにいきました なおよんさんがきてだしてくれとぎやればいつでもでることができます さていつてみるとたいへんきれいなおゝきなところでがすとうやでんきとうがたくさんついていてひるのようにあかるくいえはまるくつくりてありそのまんなかでいろいろなげいをいたします またひだりのほうのたかきところではづんづんづんおんがくをしております またそのするげいは(かるわざ)これはをとこがふたりおんながふたりでてきましていたします またおんながさんにんにてへんなくるまにてうまかけをします まけたやつはすぐにひつこみかつたやつばかりのこりておりまたひとまわりいたします そのくるまはこんなかつこのくるまでむかしのろまといふところのくるまのかつこだそうです このくるまにのつているおんなおきものなどはずいぶんきれいです こちらのかるわざをすつやつはまるではだかでをるようなふうにみえます それははだかでをるのではなくからだにぴつちやりとくついたきものをきてをるのです そうしてからだのところだけもようがかいてあります またしたにはあみがはりてあります かるわざがすみしときにはうえのたかきところからあみのうえにおちてきます こんなかるわざやうまかけはあんまりかんしんでもありませんがうまやいぬがするげいはじつにかんしんです〔図〕 またおとこがさんにんにてうまかけをします それはひとりにてふたつのうまのうえにまたがりひとつのあしをひとつのうまのうえにのせひとつのあしをもうひとつのうまのうえにのせたちながらけいばをします ずいぶんかんしん またあしのながいやつがさんにんでてきていろいろなあしのげいをします あしをかてつぽのやつのあたまのうえからくるくるくるとまわしたり またばんこのようなものをもつてきてそのうえをとびこしてさきにいつてべつくわつてしまいます そんなことをいくどもします たいへんおもしろい しんじろやなおぼんにみせてやりたきものなり(中略) 十三日 このひはにちようにていつしよにをるひさまつさんといふひとゝいつしよにでかけましてかぢみるどらびいにゆといふまちなるかとうさんといふひとのところにいきました このかとうさんというひとはひさまつさんのおなじくにのひとでひさまつさんがこのひとゝいつしよにこのちにきたそうです このかとうさんのきんじよにいちがいのせんせいまつなみさんがおります さてかとうさんのところにいきましたらまつなみさんもこのところにちようどきていておいでなされいゝあんばいでした このひはひるめしをこゝでごちそうになりそれからひさまつさん かとうさん まつなみさんほかにあめりかじんがひとりほかにごせだといふにつぽんじんがひとりとつがうにつぽんじんがごにんせいようじんがひとりにてぼわどぶろにゆにふねこぎにいきました このぼわどぶろゆというはこうえんちにしてたいへんひろきところにしてこのにはのなかにおゝきないけがありそのいけにばつてらがたくさんあり一じかん四十銭にてかします このふねにのりあすびました こんにちはにつぽんじんが五にんですからまるでにつぽんにかへつたようでした これからまたこのこうえんちのうちにあるけだものをみせるところにいきました こゝにはぞうがにひきそのほからくだやうまのからだにしまのあるやつやじらふといふたいへんたけのたかきうまのやうなけだものにてけのいろはかのしゝのけのようなものなり このけだものやそのほかいろいろなけだものがおります このところのうちにむろのようないへがひとつあります そのいへはやねもがらすばりにてなかにはつゝじのはななどがきれいにさいております〔図〕 わたくしたちがまちをあるくとみんなおんなやおとこがしなじんだしなじんだしなじんだしなじんだといゝます そうしてみんながみます おもしろいことです こんどはまずつこれだけにいたしませう めでたかしく 母上様  新太郎 いちがいのせんせいまつなみさんよりよろしく申上候 みなさまによろしくよろしく(後略)

1884(明治17) 年5月22日

 五月二十二日 パリ発信 母宛 日記  五月十六日附 金曜 朝ハ曇リ少シ寒シ 午後ハ一層暖也 諸事如前日 午後三時頃日本ヘ日記及ヒ母上様ニ奉ル書状一通出シタリ 夜靖献遺言ヲ読ム 十時頃寝  十七日 土曜 本日ハ昨日ヨリモアツキ様也 午後五時過直衛門ニ面ス 本日ヨリ夜ノ稽古六時半ヨリ始マリ九時ニ終ル事ニ改マリタリ 但シ今迄ハ六時ヨリ八時半迄ナリシ 帰室後久松氏ニ日本ノ鹿児島発生ノ琵琶会等ノ話ヲ為シ聞セタリ 而独リ日本ノ朋友ノ事等ヲ思ヒ出シ夢中ニナリ話ヲ為シ不知不識時ヲ過シタリ 十時半過入床ス  十八日 曇時々雨 午前例の八時半頃ヨリ外出ス 久松氏ト門外ニテ別レ橋口氏ニ行ク 十時頃より直衛門及ヒ松方氏ト公使館ニ行ク 少シク止まり夫レヨリ直衛門ト米国人計リ行ク米国ノ寺ニ行ク 十二時過キ寺ヲ出デ直衛門ノ下宿屋ニ帰ル 時ニ十二時半頃也 午後三時過ヨリ直衛門及松方氏ト遊歩ニ行ク トロカデロノ少シ先キノ処ヨリ川蒸気ニ乗シ先日直衛門ト行キシポンドジュルトカ云処ニ到ル 上陸シテ三人共ニ少シク運動シテ一ノカツフエニ寄リレモンヲ飲ミ又川蒸気ニ乗シテ帰ル 此ノ地ハ巴里府ノ城壁ノ処ニテ場処ハ至テ小ナル処ナレバ来遊者甚ダ多シ 併シ大抵ハ巴里ノ市中ノ開化人デ無ク少シ田舎風ノ人車也 故ニ美服等ヲ着シ居ルモノ少シ 夜食後又三人ニテ下宿屋ヲ出デ余ハアルクドトリヨンフノ処ニテ別レ帰塾セリ 時ニ九時半頃也 直ニ寝ス  十九日 月 雨 今日ハ曇ニテ又少シク寒シ 朝ヨリ冬ノ上着ヲ着シ居リタリ 扨テ先日最早寒キ事ハ有ル間敷ト思ヒ冬服ヲ盡クカバンノ中ニ入レ夏服ノミヲ出シ居キタリシニ又今日ハ寒キニ依リ不得止又冬服ノ上着ヲ出シタリ 夜久松氏ト日本ノ話等ヲ為シ十時五分過入床  二十日 火 曇 本日モ気候ハ昨日ノ如シ 朝ヨリ今日モ冬ノ上着ヲ着シタリ 午前十一時頃教師ゴツファル君教場ニ来リ余及ヒ久松氏ヲ呼ビ別ノ一小教場ニ併ヒ到り素読及書キ取リヲ少シク為サシメタリ 是レ余輩ヲ試ミン也 夜帰室後当地ノ小学校生徒ノ風ヲ記シタリ 十時半頃入床  二十一日 水 晴 本日ハ又少シク暖也 午後例ノ素読ノ稽古無シ 其他無事 夜少シク靖献遺言ヲ読ミ後希臘語ノ文典ヲ読ミタリ 十一時寝  二十二日 木曜 本日ハ当地ノ祭日ノ由ニテ終日休業也 併シ朝ノ八時迄ノ稽古ハ有リタリ 朝食後即チ八時半頃ヨリ久松氏ト外出ス 共ニ吉村氏ノ下宿ニ到ル 幸在宅ニテ面会ス 此ノ吉村氏ニハ先般公使館の門ニテ始メテ面シ今度ニテ二度目也 時ニ九時半頃也 十分計ニシテ此ノ家ヲ出デ久松氏トジヤルダンチユルリー公園内ニテ別レ直衛門方ニ行キタリ 達セシ時ハ十時半頃也 已ニ而直衛門及松方氏ト公使館ニ行キタリ 公使館ニテハ今夜夕食ノ大御馳走ガ有ル由ニテ小使等客室ノ片附等ヲ為シ居リタリ 余本日始メテ公使館ノ客室ヲ見タリ 隨分美也 暫時ニシテ又三人共ニ下宿屋ニ帰リ食事ヲ為ス 而又三人共ニ同処ヲ出デ直衛門及松方氏ハ公使館ニ行カレ余ハ分レテ独リ画ノ見物ニ行キタリ 此ノ画トハ此頃画ノ共進会ノ如キモノ有リ其ノ見物也 画数甚ダ多クシテ美悪ヲ詳スルニ勝ヘズ 其内日本人ノ画ヲ一ツ見付ケタリ 是レハ日本人ガ画キシカ又ハ西洋人ガカキシカ知ラザレドモ日本ノ宮内省ノ女中ノ様子ニテ例ノ平タキ頭ニテ大礼服ニ木ノ扇子ヲ持チ座シ居ル処ノ風也 甚ダ良ナラズ 多分日本人ガ画キシナラン 立タル風ナラ座セシヨリ少シハ良カリシナラント想像セリ(余計ナ心配) 午後二時半同処ヲ出デ直衛門ノ下宿屋ニ帰ル 時二三時少シ過也 直衛門ハ留守ナレバ少シク室内ニテ休息シ同四時半ノ御出門ニテ五時無事平隱ニ御着校遊サレタリ 目出タシ 本日直衛門ニヅボン一枚貰ヒタリ 縱横ニ小ナル囲碁盤島の夏ズボン也 今夜例ノ夜ノ稽古有リ 併シ今日ハ六時ニ始マリ八時半ニ終ワリタリ 帰室後此ノ手紙ヲ記シタリ 今時計ヲ見タルニ十時十分過也 以上(以下次号) 今朝学校ヲ出ズル時夏服ヲ着シ上ニ外套ヲ着シ行キシニ思ヒノ外善キ天気ニ成リ甚ダアツクシテ汗迄出デタリ 夫レ故外套ハ直衛門処ニヌギテ置キ終日着セズ 帰塾の時モ手ニ持チテ帰リタリ 此ノ頃ハ午後八時頃ニ真黒ニ夜ガ入リマス 頓首再拝 乱筆御仁免度被下候 東京ニテ 母上様 無事  清輝拝  みなさまによろしく

1884(明治17) 年7月10日

 七月十日附 パリ発信 父宛 封書 五月一日ノ御書状去月二十二日到来 早速拝読仕候処御地御尊公様御始め皆々様御揃益御清適之由大慶至極ニ奉存候 次ニ爰元ニ於テ橋口直右衛門様及小生ニモ不相変大元気ニテ毎日勉学罷在候間御休心可被下候 当地学校之儀ハ他物ノ華美柔弱トハ異リ規則等余程厳重ニシテ日曜日及木曜日ノ午後ノ外ハ外出ヲ許サズ 平常ハ朝六時ヨリ教場ニ入リ夜九時に寝室ニ帰ル事ニ御座候 其間午前八時より同半迄朝食及運動 同十一時半ヨリ一時迄午食及運動 午後二時半ヨリ三時迄運動 同五時ヨリ六時半迄夜食及運動 都合四時間ノ遊歩時間有之而巳ニテ其他ハ教場ヨリ出ルヲ得ズ 而小生等ハ未ダ衆生徒ト共ニ学ブ能ハザルニ依リ午後九時頃より十時頃迄一時間計リ別ニ授業致呉れ候 一週間ニ二回程生徒ト共ニ水練ノ稽古ニ罷越候 其場処ハ巴里府ノ外ニシテ此ノ学校ヨリ路程凡ソ一里計ノ処ニ御座候 御存之通此ノ巴里府地位ハ海岸ニハ無之候得共セイント申川此府ノ中央ヲ貫キ候故運輸便宜敷様ニ御座候 而此ノ川ニハ小ナル川蒸気常ニ往来シ殆ンド陸ノ鉄道馬車及ヒ乗リ合馬車ノ如クニ御座候 而其賃銭を馬車ノ如ク場処ノ遠近ヲ問ハズ一人分六銭ニ御座候 此ノ地ノ水練ハ日本ノ水練ノ如ク衣ヲ解キ直ニ水中ニ投ズル様ナ軽便ナルモノニ非ズ文明国ダケ万事面倒也 先ツ水練ヲ為サン欲セハ水練場ニ行キ銭ヲ払ヒテ水ニ入ル事也 其水練場トハ木製ノ家ニシテ其家屋中ニ水練場有リ 即チ此ノ家ハ川中ニ建築セシモノ也 而其水練場ハ長方形ニシテ一口ニ云ハヾ温泉湯屋ノ大ナル如キモノ也 此ノ地ノモノ之レヲ名ツケテ冷湯ト云 此ノ冷湯ヲ分チテ大小二トス 其大ト云モノハ深キ処ニシテ小ト云ウモノハ浅キ方也 浅深トモ水底ハ皆板敷也 水練場ノ周囲ニ幅一間計リナル長キ板敷アリ 而其先キニ小ナル室並列セリ 此ノ室内ニテ衣ヲ解キ或ハ着スル処也 又西洋褌ヲ着セシマヽニテ入水スル事也 水練場ノ有様ハ右ノ如クニ御座候 小生等ノ行ク処モ同断 右ニモ申上候通リ当地小学校ハ余程厳ナルモノニ御座候得共尚万事注意致シ勉学可仕候ニ付御休神度被下候 昨日より私及ビ久松氏ノ両人ニテ剣術ノ教師ヲ雇ヒ撃剣ノ稽古ヲ相始メ申候 此ノ地ノ撃剣ハ我国ノ撃剣トハ異リ只衝クノミニテ御座候 併シ身体ノ為メニハ余程宜敷ト申事ニ御座候 此ノ華美柔弱ノ世界ニテハ撃剣ニテモ学ヒ少シク気分モ養成セザレバ自然女子ノ如クニ相成可申候ト愚考仕候 此ノ撃剣ハ一週間ニ三回即チ月水金曜日ニ午後七時半頃ヨリ八時半頃迄一時間計リ夜食後ノ運動旁此ノ校内ニテ相学ビ申候 而謝金ハ一ヶ月分一人ニ付二十仏即チ我四円ニ御座候 熱海より御帰京後御尊体益御壮健ニ被為入候由雀躍此事ニ御座候 併シ盛夏之砌折角御保養専一ニ奉存候 七丁目叔父様御家族及平田氏御家内等御上京被成候由此頃ハ余程御煩ハ敷事と奉推察候 私儀両三年モ此ノ地ニ住居セシ後ハ幾分カ我国ノ事情ニモ遠サカル可クト相考ヘ申居候 依テ若シ善キ新聞紙ニテモ有之候ハヽ御送リ被下度奉願上候 併シ書生ノ身ニ新聞紙ハ不善ザル場合モ可有之候ニ付若シ悪キト御考被有候得ば御取リ止メ被下度候 此ノ新聞紙一件ハ敢テ至急ヲ要スル事ニハ無御座候 先ハ御左右伺旁御返詞迄如此御座候 頓首再拝 父上様 平信  清輝拝  二白 井田 荒木氏等ヘハ可然御伝聞奉願候

1884(明治17) 年8月8日

 八月八日附 パリ発信 母宛 封書 一ふで申上度候 あつさにもおよわりなくますますます御げんきのはづおんめでたくぞんじあげまいらせそろ みなみなさまもおげんきでしよ めでたし わたくしはいつもげんきにておりますからごあんしんくださいまし さてさる五日よりがつこうはなつのやすみになりましたからすぐにそのひにがつこうからでましてなをよんさんのやどやにまいりました そうして一つのちいさなへやをかりましてたゞいまこゝにおります このげしゆくやはろうるびろんと申まちにてござそろ そうしていへはろくかいです にわもございます なをよんさんのへやは五かいめです わたくしのへやはいちばんうへですけれどもそんなにいへのたかさはたかくはございません いまこのやどやににつぽんじんが四にんおります そんしてめしばかりたべにくるひとがひとりです つがうにつぽんじんが五にんです なをよんさんにわたくしそれからまつがたさん さかもとさんです それからうがわさんといふひとがめしばかりたべにまいります にぎやかなことです このごろはまたあつくなりました きのうなどはあついことあついことあせがでどうしでした けふもあついあついあつい ことしのあつさはめずらしいと申ことです いつもこんなにあついことはないそうです これらはどこかにあつたそうですけれどもだんだんへつてしまうそうです めでたし その御方にてはいかゞですか ことしはあんまりありますまい めでたし わたくしはへやのなかにおるときにはじゆうふくのようなあつくるしいめんどくさいものはきません につぽんのひとへを一まいきております よいことよいことよいこと めしをくひにしたにおりるときばかりじゆうふくをきてゆきます こんなかつてなことはがつこうではできません がつこうではたゞねるまへばかりにつぽんのきものをきておりました やつぱりまいにちまいにちまいにちおきゆうをすへますからごあんしんくださいましよ わたしはこのごろはすこしはこのちになれてまいりましたけれどもはなしはまだできません むずかしいものです かいものなどはいつでもひとりでいたします こんどはたいへんみじかいてがみですけれどもまづこれだけにいたしておきます どうかみなみなさまによろしく あねさんによろしく おゑいさんにべつにあげなければならないはずですけれどもなんにもかくことがありません いくつてがみをかいてもおなじことばかりですよ めで度かしく 母上様  新太郎  おからでがだいいちです おしんぱいはおやめです よこやまやたかねがたびたびてがみもやつてくれます からうちにあすびにきたときにはごちそうをしてやつてくださいまし てがみのうらがきはいつでもわたくしがかきます

1884(明治17) 年8月14日

 八月一四日附 パリ発信 母宛 封書 六月二十日の御てがみさる十日にあいとゞきありがたくさつそくはいけんいたしましたところみなみなさまおんかはりなくおげんきのよしなによりけつこうでございます こゝもとにてはなをえもんさんもわたくしもしごくのげんきにてたつしやなことたつしやなことたつしやなことですからごあんしんくださいまし けつしておしんぱいなどはめしもすな ばかげたことですよ このまへのびんに申てあげましたとうりなをえもんさんとおなじげしくやにげしくをいたしております そうしてごぜんも一しよにたべます よるなんどうんどうにも一しよにでます またしじゆうなをよんさんのへやにいつておりましてはなしなどをいたしております よいことよいこと このげしくやはたいへんよいものをたべさします につぽんでゆえばせいようけんのごちそうとでもいふようなあんばいです あさはうしのちゝを一がうばかりのみます それとぱんをたべます おひるのごぜんはたまごににくがふたしなばかりそれからあとでくだものをたべます ばんのめしにはそつぷにむろん このむろんというのはかぼちやのとうりのかたちにてあぢはちよつとまくわうりのあぢです それからほかにうしかひつじのにくがふたしなばかり それから一ばんあとでおくわしとくだものです このくだものはすもゝかぶどうです まいにちまいにちまいにちこんなけつこうなごちそうをたべております いつもいつもくわしきにつきをおんおくりくださいましてまことにまことにありがたくおんれい申あげます さてそのおにつきのうちにしたのおぢさんがおいでなさいましたときぎゆうのごちそうをめしもしたよしがかいてございましたからなをよんさんとはなしをしておゝわらいをいたしました こちらではぎゆうやひつじなんどをまいにちまいにちまいにちたべております こちらはまいにちまいにちごちそうですよ あなたのおてがみやにつきをよむときにはにつぽんにおるようです せんだつておくつてくださいましたにつきのうちにしばやまどんのおばあさんとおつよさんとおいでなさいましたよし おつよさんとはかごしまであそんだことをおぼへておりますけれどもかをはわすれてしまいました まういまはおゝきなおばさんになつておいでなさるでしようとかんがへております ともだちのやつたちがやつぱりときどきあすびにまいりますよしまことによいことでございます とちぎけんのけいぶさん うらはのぴいこおぢのところからたびたびおたよりがございますよし またおてがみをおだしなさるときにはよろしくゆつてやつてくださいまし かごしまのめがねのおぢさんやしらをぢいちさんもおげんきでございませう おついでのときよろしく おきゆうはやつぱりまいにちまいにちまいにちすゑますからごあんしんくださいまし ことしはとちがかわつておりますからかつけはでないだろうとおもつております こちらにすこしこれらがあつたそうですけれどももうすつかりきえてしまつたそうです そのおんちはいかゞですか ことしはこれらはあんまりありますまい よこはまのすこしさきによいおんせんがございますよしまことにちかくてよいことです もしそこのおんせんがわるかつたときにはすこしとをくつてもよいところにあすびながらおいでなさいましよ こちらのやつはみんななつのあいだはぜひいなかにあすびにまいります これはからだのためにもなりまたおもしろいからさ こちらはてつどうがたいへんべんりですからひやくりやにひやくりぐらいのところまでも一にちぐらいにてちよつとゆくことができます べんりべんり したのちゝうえさまからおてがみをくださいましたけれどもべつにかいてあげることはございませんからおへんじはあげません どうかおまへさまよりおてがみのおれいとおへんじをべつにあげないことゝをよろしく申上げてくださいまし おぢさんにもよろしく ひろしさんにもよろしく こちらにやまもとといふあぶらゑをかくひとがをります このひとはじぶんでうちをかりておりましてげぢよを一ぴきつかつておりまいにちまいにちにつぽんのめしをたきにつぽんのりようりをこしらへてたべておるそうです そうしてだれでもにつぽんのめしがたべたいときにはそこのうちにたべにゆきます わたくしもなをえもんさんとあしたばんめしをたべにゆくはづです こんにちたべるつもりでそのやまもとのうちにゆきましたけれどもこんにちはあいにくそのひとがよそにごちそによばれてゆくといふことにてとうとうこんにちはこめのめしをくひだしませんでした けれどもめようにちはきつとくひだしませう まづこんどはこれぎり めでたくかしく 母上様 無事  清輝  なによりおげんきがだいいちです いつも申上ることですけれどもしんぱいほどばかなものはありませんよ おやめおやめおやめおやめになさいまし あざぶにてはぶんぞうさんもあねさんもおしげぼうずもおげんきのはずめでたし あねさん やどのしんるいのまえへださんががつこうをそつぎようなさいましたよし なをよんさんからききました まういまはりつぱなおやくにんさまでしよう めでたし もしおあいなさいましたときにはよろしくよろしく おゑいさんにはまたこんどもあげだしません まことにもうしわけなし どうかおまへさまよりよろしくぎやつたもんせ

1884(明治17) 年8月28日

 八月二十八日附 パリ発信 父宛 封書 七月十一日附之貴書本日相届キ謹而拝誦仕候処御尊公様御始御一同御揃御壮康之良奉大賀候 お当地橋口氏及小生至極元気ニテ小生ハ当分学校休業中故橋口氏方ヘ同居罷在候 左様御休意可被下候 此ノ下宿屋ニハ日本人都合四人下宿致居候間朝夕相集ひ談話等致し殆ント日本ニ居ル心持ニ御座候 即チ其四人ハ橋口氏 松方正作氏 海軍中尉坂本氏及ヒ小生ニ御座候 松方氏ハ大蔵卿二男ニテ当地公使館書記生ニ御座候 先般郵便切手一件申上候処早速伊地知氏へ御願ひ被下好都合ニテ已ニ相調ひ後便より御送与被下との旨拝承仕奉万謝候 不日相達可申と相待チ申候 御地ニテハ今般華族増加シ又公侯伯子男ノ五等ニ分たれ候由 付テハ樺山氏ニモ小華族連中ニ御加入之由慶賀至極ニ奉存候 右華族令ニ付テ御地諸新聞之説ハ如何ニ御座候や承リ度候 諸華族中疏球王ニノミ未ダ爵位ノ下賜無之ハ如何ナル都合ノモノニ御座候や奉伺居候 平河町相撲興行中ハ棧敷御貸切御見物被遊候由定而よき御楽ミニ相成申候事ト奉推察候 当地此頃ハ時候最早少々涼しく相成申候 当地ハ文明第一の地ニハ御座候得共随分野蛮ノ野郎モ多ク有之小生等市街ヲ歩スレバ支那人ト呼ヒ相顧ミ申候 日本人ト呼フ者ハ甚ダ稀ニシテ百人中一人モ無之程ニ御座候 清仏戦争ハ御当地如何評番致シ候や 去る二十三日頃当地在留支那公使ハ已ニ当地ヲ引キ払ヒ而戦争モ已ニ相始マリ清兵少シク敗北セシ由承リ候 先ハ御返詞旁御左右伺迄如此御座候 草早 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専一ニ奉存候 七丁目父上様及叔父様ヘ可然御伝言奉願上候 再伸  本日清仏戦争之確報ヲ橋口氏より承り申候 其報ノ略曰ク 去る二十三日仏兵清ノ軍艦九艭及小船十二艭ヲ撃破シタリ 而清兵死者一千人手負三千人 仏兵死者七人手負三十七人也ト云

1884(明治17) 年

 八月二十八日附 パリ発信 母宛 封書 七月八日七月十二日つけのおてがみと六月二十一日より七月十一日まてのくわしきおんにつきこんにちあいとどきありがたくさつそくはいけんいたしましたところおまへさまおんはじめみなみなさまおんかわりなくおたつしやのよしおんめでたくぞんじあげます さてこないだのびんにゆうびんきつてをおくりくださいましともうしてあげましたらすぐにいぢちきぞうさんにおたのみくださいましたよし そうしてよいあんばいによくそろつてございましたよしまことによいあんばいでした そうしてこのゆうびんきつてをわざわざ八郎さんがよこはままでとりにいつてくださいましてこのつぎのびんからおくつてくださいますよし もうたゞいまごろはぎちぎちぎちとどこかこゝのちかくにきておるでしようとおもいます ひらかわてんじんのなかのすもうにたびたびおけんぶつにおいでなさいましたよしおもしろいことでございましたろう しばやよりすもうのほうがおもしろいでしよう なみだをださないぶんがとくですよ おてがみのうちにかみなりもぢしんもこわくないとかいておやりなさいましたけれどもこればつかりはどうもほんとらしくございません どうもやつぱいせんこにひをつけるやらまたろうそくにあかりをおつけなさるだろうとかんがへます こないだはなをよんさんとやまもとといふあぶらゑのえかきさんのうちににつぽんのごぜんをたべにいきました うまかつたことうまかつたことうまかつたことうまかつたことうまかつたことおさしみににざかなそれからゆはしのやいたのをたべました めしはならちやぢやはんのやうなのでろくはいくひました このやまもとさんといふひとはかをからようすからおかじまさんによくにております そうしておもしろいことをしじゆうしやべつております そうしておまけにたかちようしにてしやべります ひとをわらはせてばつかりおります このひとはじぶんでうちをかりておりましてばゞのおさんとんをひとりつかつております そうしてまいにちまいばんこめのめしをたきにつぽんのおかずをこしらへたべておるそうです につぽんのめしがたべたいときにはみんなこのやまもとさんのうちにいつてたべます やまもとさんはたいへんおりようちがじようずです まるでりようりやのとうりです わたくしのたんじようゆわいにびやひきがありましたよしまことによいことでございました しんじろやきよし なをぼんなどがこゑをかけただろうとをもいます ともだちのやつたちもあいかわらずときどきまいりますよしよいことでございます さる二十四日にはなをよんさんとさんくるうといふきんじよのいなかにあすびにまいりました そのさんくるうまではかはのこじようきがかよいますからそれにのりてまいりました ちようどそこのおまつりでめずらしいものをみました このゑのようなあんばいにふねがにそうございましてそのふねのあたまのほうに一だんたかくたつておるところがございます そのたかいところに十五六のおとこがうすいぢばん一まいにさるまたのやうなみじかきもゝひきをはきにけんばかりのながきぼうをもちてたつております そうしてりようほうからそのふねがだんだんよつてきてちやうどそのふねがゆきするときながきぼうのさきがひとりのやつにあたればふねのすゝむいきおいでおつしやりますからおされたやつはみづのなかにどんぶりことおつこちてしまいそのおちたやつはすぐにおよいであがつてしまいます りようほうのふねがりようほうからよつてくるあいだはたいこたゝきがたいこをたゝいております そうしてしようぶがついたときにがけのうえにおるらつぱふきがらつぱをふきます このらつぱはたゞのへいたいのふくらつぱではございません がくたいのふくようならつぱです〔図〕 こちらはこのごろはもうすこしはすゞしくなりました よいことです おきゆうはやつぱりおこたらずすゑておりますから御あんしんくださいまし あなたさまのとうぢゆきはどうもとじまらないとみゑますね このごろはすもうがたいへんはやりますからうちの新二郎 きよし なをぼんなどもすもうとりをするでしよう すもうとりなんどがうちにもまいりましたよし そのときは八らうさんが一しようけんめいですもうとりのごあいてをなさいましたろうとおもいます いかゞでしたか このごろはやつぱりまいにちはたけにごしつきんでございませう よろしくゆつてくださいまし あざぶのあねおばさんとおしげぼんはいかゞですか いつもおげんき めでたし おしげぼんはまだあるくようになりませんか ことばはどうです したのまさひこはどうです このごろはもうことばもわかるでしよう わたくしはこちらではあかんぼどうぜん こまつたものです うちのおしやちまめはだんだんたつしやにしやべるでしよう なまいきにすこしはしやれたりなんかするでしようとおもいます まずこんどはこれぎり めでたかしく 母上様 ぶじ  新太郎拝  まいどながらしんぱいはおやめのほうがだい一です おからだをせつかくせつかくげんきにしておいでなさいまし わたくしはいつもげんきですからおしんぱいにはおよびませんよ みなみなさまよろしく かきそへ申上候  こんどこそおてがみをおゑいさんにもあげませうとおもつておりましたけれどもまたまたとじまりませんでした どうかあなたさまよりよろしくゆつてくださいまし

1884(明治17) 年9月26日

 九月二十六日附 パリ発信 母宛 封書 八月十五日の御てがみ九月十九日あいとどき 八月九日の御てがみ につき せんだいはぎのほんさんさつ よこもじのほんさんさつ あざぶのおしげぼんのしやしん九月二十二日あいとゞき まことにまことにうれしく(中略)こちらにてはなをえもんさんもわたしもしごくしごくげんきにてくらしおりますからまづまづごあんしんくださいまし こないだももうしあげましたとうりことしはところがかわりましたせいかいつものかつけせんせいはおいでがなくまことにしやわせいたし候 けれどもおきゆうはやつぱりすゑますからあんしんくださいまし(中略)こちらにおるとにつぽんのこめのめしがくいたいことです またたべようとおもへばいつでもたべられます べんりなことです なぜならやまもとといふあぶらゑをかくひとはげぢよをひとりつかつておりまして三どともこめのめしをたいてたべております そのやまもとさんのうちにゆけばいつでもたべられますけれどもたゞひとつたらないものがございます それはみそです みそのおめつけがたべたいものです こちらはまいにちまいにちせいようりようりのごちそうです こめのめしやみそのおめうつけなんどはそこあたいにでることもできません(中略) さくじつひるすぎにぢようだんに父上様のおしやしんをみてゑをかきました すこしもにてはおりませんけれどもまんざらほかのひとゝもみゑませんからおなぐさみのためにおくります わたくしがたつときにちいさなゑのぐいれをもつてはゆくまいとおもつたのをあなたさまがたのしみになるからもつてゆけとぎやつたゆへもつてきましたのがいまはよきたのしみになります わたくしはすこしくゑをかくもんですからゑのけいこをしたらよかろうとすゝめるひとなどがございます(後略) 日本東京 母上様 ぶじ  仏巴里より 清輝拝

1884(明治17) 年10月3日

 十月三日附 パリ発信 父宛 封書 寸紙拝呈仕候 秋冷相催候処御全家御揃御安康奉大賀候 次ニ私事至極壮健去る一日旧ノ小学校ニ入塾仕勉強罷在候間御休意可被下候 今度ハ特別ニ稽古せず衆生ト共ニ通常の課目を修業仕心得ニ御座候 先は用事迄 草々 頓首 父上様  清輝  御自愛専一ニ奉祈候〔図〕

1884(明治17) 年10月16日

 十月十六日附 パリ発信 父宛 封書 八月二十二日附之御尊簡並ニ大岡政談 後藤半四郎伝三冊 天一坊伝三冊本月十二日慥ニ相届謹而拝受仕候 右厚く御礼申上候 お同地御尊公様御始母上様其他皆々様御揃御安康之由奉大賀候 次ニ当地私儀至極壮健ニて勉学罷在候間乍憚御放念可被下候 先鞭より新聞一件申上候処早速御承諾被成下難有奉万謝候 金百六十二円私学資金として御送り被下候旨御書状ヲ以テ承知致居候処其後七月三十一日仏貨ニテ六百九十八仏 公使館橋口仕方ヘ慥ニ到着セシ旨橋口氏より承り候 右ハ其節御礼旁一寸申上候ニ付已ニ御承知之事と奉存侯 今度之御尊簡中金百三十二円仏貨ニテ七百仏御送りくだされし旨有之候 然ルニ当地到着セシモノハ六百九十八仏ニ御座候 右ハ如何ナル都合ニテ如此差異生ゼシヤ存じ不申候得共定而相場変換之都合ニ依ルモノト奉存候 右ハ僅カ二仏ノ差異ニテ多額ノ金子ニ無之候得共一寸為念申上置候 荒木氏ハ英公使川瀬氏赴任之砌随行ニて自費洋行御企被成候由九月末頃已ニ出発相成候ハヾ只今頃ハ最早洋中ノ事ト遠察罷在候 いつれ此ノ巴里ヲ通リ英国ノ方ヘ赴かる可く左候得共不日荒木氏ヘハ面会シ可得ト屈指相待申居候 清仏葛藤一件モ其後絶而評判ヲ不承候処此頃仏軍少シク勝利ヲ得シ由両三日前ノ新聞ニ仏兵三千ノ清兵ヲ斬リシトノ事有之シ由承リ申候 松波氏モ至極壮健ニテ赴任致し被居候間御休神可被下候 小生久松氏ト木曜日等休業之折松波氏ノ下宿屋ニ会シ仏書ノ教授ヲ受ケ申居候 当地別ニ珍事無御座候 閑暇ノ折ハ大岡仁政録ヲ読ミ相楽み申候 先ハ御礼旁御返事迄如此御座候 頓首  十月十六日夜認 父上様  清輝拝  二白 御自愛専一ニ奉存候 此頃当地気候寒気相催毎日曇天ノミニ御座候 冬時ハ好天気ハ甚ダ少キ由承リ申候

1884(明治17) 年11月13日

 十一月十三日附 パリ発信 父宛 封書 荒木氏便よりの貴書去る九日拝受早速拝見仕候処お同地御一同御揃御安康之由大慶至極奉存候 当地橋口氏及私不相変壮健ニテ毎日勉学罷在候間御休神可被下候 九月十五日御地暴風雨にて潰屋死傷人等も多少有之候由 併シ親類一同御無事之段先大幸と奉存候 去三日ハ天長節ニ付先鞭デ申上候通リ公使館ニテ夜会有之依テ私も夜食後より久松氏ト公使館ヘ参リ候 公使館ノ門上ニハ日輪ノ形ヲ瓦斯灯ヲ以テ作リ又皇国ノ旗ト仏国ノ旗ヲ立テ加之日本ノ提灯ヲ数十個横ニ掛ケタリ 其提灯ハ日本ニテ夏時用ユル処ノ惰円形ニシテ画有ルモノ也 来会者ハ都合四十人計リ 大倉喜八郎ト申者モ来会致居候 公使蜂須賀氏ハ小礼服ニ立派ナル勲章ヲ付ケ橋口氏 松方氏等いづれも小礼服 其他陸軍少佐南田氏等数名同ジク小礼服 余ノ人ハ皆美ナル長キ服ヲ着セラレタリ 其中尤モ立派ナリシハ陸軍ノ原田氏ハ軍服ニ勲章ヲ付ケ海軍ノ坂本 伊藤ノ二氏ハ海軍ノ服ナリシ 公使館御雇ノ外国人コレシヤルトカ云者其妻及娘ノ二人ト共ニ来会シ公使ノ妻妾二人モ出席セラレタリ 私ハ日本ヲ出立仕候時着シ居候服ニテ出席致候 如此短衣之者ハ他ニハ無之只私ト佐藤ト申書生ノ二人ノミニテ有之候 会場ハ公使館ノ客座ニテ余程立派ナル処ニ御座候 菓子及果物ヲ少シク食イ又葡萄シャンパン酒等ヲ飲ミ又茶碗ニテソツプヲ吸ヒ後又豚肉及小ナル麺包等也 十二時頃衆人退会シタリ 今夜ハ久松氏ト加藤氏方ヘ到リ加藤氏ノ一床中ニ三人寝シタリ 其翌日橋口氏方ヘ到りし処田代清定氏同夜立発帰朝セラルヽ旨承幸ヒ暇乞ヲ為し橋口氏の証書ヲ持テ帰校仕候 天長節前一日即チ本月二日日曜日ニテ午前例之通り八時半頃より外出仕久松氏ト加藤氏方ヘ到リ同処ニて食事シ午後少シク読書シ後近処ナルヲデヲン茶店ニ到リ申候 是レ当日ハ二時より同処ニ会シ先便で一寸申上候処ノ会ノ事ヲ議セシガ為メ也 当日来会者十三名 原田 加藤 松波 久松 藤島 工藤 藤枝 中西 吉村 郷田 花島 五姓田等也 今度ノ会ニ付テハ皆同意ニシテ毎月第二第四日曜日午後第三時ヲデヲン茶店ニ会ス可キ事但シ不参之者ハ其旨会場迄報道ス可キ事ト相談定マリ申候 去九日も日曜日を久松氏ト松波氏方ヘ行キ後加藤氏之下宿所ニ到リタリ 食事後読書ヲ為シタリ 終リテ久松氏ト湯屋ニ行キ而私ハ別レテ乗合馬車ニ乗シ橋口氏方ヘ向ケ出掛ケタリ パレロハイヤルト申処ニテ乗リ替ル為メ馬車ヨリ降リ直衛門方ヘ行ク馬車ヲ待チタリシニ三輌来リシト雖皆人員満数ニテ不得乗 依テ不得止歩シテ直衛門方ヘ到リシニ折悪ク直衛門ハ不在 松方氏斗在宅也 依而松方氏方ニ於テ暫時談話致居候処英公使川瀬氏到着せられし由承り早速荒木氏ノ事ヲ相尋ね申候処同氏モ同しく到着一同ホテルダルブト云旅店ヘ止宿之由故ニ直ニ右旅店ヘ罷越し面会仕種々御直左右等承リ大ニ安心仕候 談話中食事時ニ相成荒木氏ノ御馳走ニテ於別室両人而已ニテ食事仕候 食後九時頃迄談話仕遂ニ再会ヲ約シ帰室仕候 是より先キ荒木氏ハ私ヲ尋ね橋口氏方迄度々御光来被下候由 又包物モ直衛門方ヘ御届ケ被下候 私帰路又直衛門方ヘ立寄リ包物ヲ開キ申候処ナリ 御書状并ニ種々結構ナル御品等沢山ニテ誠ニ難有奉存候 荒木氏ハ去る七日夜中当地着十日午前九時頃独逸国ヘ向ケ発セラルヽ旨承リ候 定而安着被致候事と推察罷在候 当地此頃ハ寒気相催候得共未だ降霜ハ無之候 併し朝夕ハ霧ふり申候 朝ハ八時頃迄午後ハ三時過より教場ニハ瓦斯ニ火ヲ点ジ申候 是レ三時過より夜ト為ルニハ無之曇天ノ如ク少シク暗ク相成故ニ御座候 当時お同地ハ非常ニ独逸流行之由 又今年ノ洋行人ノ多キニハ実ニ驚入申候 独逸国ニハ正ニ百人計リノ書生在留之由承リ候 此頃ハ加藤ト申人ノ方ニテ久松氏ト毎木日ノ両日シヤルヽ十二世記(仏史)ヲ訳読仕候 始メ両三回ハ松波氏方ニテ読ミ申候得共今後ハ右加藤氏方ニテ読書仕候 松波氏ノ下宿屋ト加藤氏ノ宿所ノ間ハ半町モ無ノ甚ダ近キ処ニ御座候間時々面会仕候 先ハ御機嫌伺旁御礼迄如此御座候 頓首 十一月十三日夜認 父上様  清輝  二白 御自愛専一ニ奉存候 打田氏ハ時々御光来被下候由御序ノ折可然御伝言奉願上候

1885(明治18) 年1月8日

 一月八日附 パリ発信 母宛 封書 十一月十四日の御てがみ一月の一日になをよんさんのところにてうけとり十一月二十一日の御てがみ四日にこうしくわんにてにてうけとりました いつもかわらずみなみなさまおげんきのよしなによりなによりけつこう ねんとうにはわたくしがちよつとおねんとうの御しゆうぎにおみまいかたがたあがりましたからべつにあなたさまにも又父上様にもしんるいのおかたさまがたにもだれにもあげませんでした どうかあのつらにてねんとうのてがみはおかんべんをねがいますよ 父上様やしたの父上様 おぢさん おゑいさんたちにどうかそうゆつてくださいまし さてそちらにてはみなさまよいおとしをおとりなさいましたでしよう おめでたし こちらにてはどうもとしをとることはできませんでした なぜならおぞうにもまたもちもなんにもありませんからさ そちらではいつものとうりおゝきないもにおやしでよいおとしをおとりなさいましたでしよう こちらにはいものおゝきなのなんどはないかはりにはかまをはきもんつきのはをりにきぬのきものそれからあたらしいげたをはき一しようけんめいにしやれこんでゑねんとうごあんすなんどゝゆつてしんるいのおかたがたのおうちをまわつてあるくことがないだけはまことにけつこうなことでした しようぐわつにはくれの三十一日よりおやすみにて四日のにちようまでつがう五日のおやすみでした せけんはきたいなものにてこちらでもおせいぼやおとしだまをやることがたいへんはやりますよ そうしてくれにはやつぱりにつぽんのとをりおゝきなまちのりようがわにこやがけをしていちをだしましておせいぼにやるいろいろなきれいなものをうつておりました またひとがたくさんたくさん おしようがつのがんじつにはなをよんさんたちはたいれいふくにてきれいなことでした またせけんをあるくひとたちもみんなきれいなようすをしてあるいておりました またきれいなばしやがたくさんたくさん につぽんではばしやにのつてあるくひとはちよくにんさまでなくてはありませんけれどもこちらのやつはかねもちですからあらびやうまのにひきうまにていばつてあるきます じんりきしやとはたいへんなちがひですよ あねさんたちはことしはほくかいどうのさむいところにてどんなおとしをおとりなさいましたでしようか あちらはとうきようより一そうひどいところだそうですからおゝきなおいもはとてもむずかしいとぞんじます けれどもしんるいのおきやくさまなんどがないだけにまずらくなことでしたろうとぞんじます おついでのときよろしくゆつてあげてくださいまし ねんとうのてがみはあげませんとかいてあげてくださいまし ぐわんじつのばんにおきゆうのすゑはじめをいたしましたからごあんしんくださいまし そちらにてはまいあさおひばつをとかなんだとかいうものをおあげなさるよしまことにばかげたことゝぞんじます 新二郎かなをぼんでもたべたときにはよろしゆうございますけれどももしだれもたべなかつたときにはまことにばかげたむだなことゝぞんじます そんなきゆうへいなことはおやめになさいまし おしんぱいをなさるとおなじことにてなにのやくにもたちませんよ やまもとといふゑかきがまいにちにつぽんのめしをくつているといふはすこしもふしぎなことではなくかねさいあればどんなことでもできます なぜならこちらにはこめもありまたしようゆうもありますけれどもないものはみそです これだけはこまつたものです またやまもとゝいふひとはりようりがたいへんじようずにてじぶんでいろいろなおりようりをこしらへてたべておるのです そのつかつておるげぢよはせいようじんのばゞです そのやつがこめぐらいはよくたきます なつのやすみのうちにかいておくつてあげました父上さまの御かをのゑをがくになさいましたよし がくはりつぱでもゑはあんまり父上様にはにておりませんでしようよ けれどもうちにかけてあればまさかほかのひとゝもみへますまいよ さくねんのくれにまたひとつおゝきなかみにおんなのかをゝいとつかきました それはあんまりおゝきうございますからおくつてはあげません それでそのゑを三十一日のひにかいてしまいそのひにすぐにんをよんさんのところにもつていしかしてかべにはりでさしておきました なをよんさんやほかのひとがほめました そのゑはすこしよくできました またこんどほかのゑをかきはじめました 一しゆうかんに三ど一じかんぐらいづゝかきます そちらにてはいつものとうりにくわじがまいばんありますよし またあかさかのくわじのときにはうちのにかいからよくみえましたよしおゝせのとうりわたくしがをつたならばすぐにみにゆくのでしたけれどもおしいことをいたしました こちらはけつしてくわじはありません たまにはあるかもしれませんけれどもはんしよはならずちつともしれません またいえがきではなくいしですからやけても1つか2つのへやだけでおしまいです またたくさんやけても一けんやけです わたしはまだみません またくわじのあつたことをきゝません このごろはすこしさむいことにてまいにちまいにちくもりでんきばかりです やつぱりこないだごろのてんきのようです このころはゆきはふりません しようぐわつの四日にひさまつとふねこぎをせんとぼわどぶろにゆというこうえんちにゆきましたらひろいいけにすつかりこうりがはつてをりなかなかふねをこぐどころではなくいけのふちのほうのあついところのうへにのつてこうりすべりのまねをしておるひとなどがありました またこのいけのこうりがたいへんあつくなるとはんぞううちのほりでせいようじんがするようにこうりすべりをするそうです そんなになつたらわたしもすべりかたのけいこにゆこうかとおもいはやくこうりがあつくなればよいとまいにちまつております こんにちはもくようびにてひるごはおやすみですからそとにでられるのですけれどもくもつてはおるしまたこんにちはよほどさむし それゆへひつこんでおりこんなにながいてがみをかきました なかにかきおとしやまたわからないところがたくさんありませうからよくよくおかんがへなさつてよんでくださいまし わたくしがてがみをかくとみんながめづらしがつてみておりますけれどもばかとかいてもくそやろうとかいてもわかりませんからなかなかべんりですよ まづこんどはこれだけにいたします せつかくせつかくおからだをおたいせつになさいましよ わたしはいつもげんきですからおしんぱいは一せつめしもすな めでたく申上候 母上様 ぶじ  清輝  おゑいさんがすこしおめがわるいとかいふことがおてがみのうちにございましたがどんなごあんばいですか やつぱりつうれいのはやりめですか なにしろせつかくおだいじになさるべしとぞんじます こんどはべつにてがみはあげませんからおまんさあよりよかごつぎやつたもんせ みなみなさまによろしくよろしく  したの父上様よりわたくしにてがみをくださいましたけれどもわたくしはべつにおへんじをあげません なぜならなんにもかくことはなくまたあなたさまおひとりにあぐればこちらでわたしがげんきでべんきようしておるといふことはよくしれますからさ それゆへにべつにしたの父上様にはおへんじをあげませんからどうかおまんさあからよかごつおでんごんをねがいますよ 東京ニテ 母上様  巴里 清輝

1885(明治18) 年2月6日

 二月六日附 パリ発信 父宛 封書 一書拝呈仕候 暖気相催候処御全家御一同様御揃御壮康之筈大慶奉存候 降而私儀不相変小学校中ニ勉学罷在候間御放念可被下候 光陰如矢已ニ満一年ニ相成候得共思ひの外語学之上達セサルニハ実ニ閉口此事ニ御座候 併し此頃ハ少しく欧洲之風ニ慣レシ心地仕候 来年よりは是非共専門学致し度ものと心算罷在候 橋口氏も御壮健ニて御勤務被遊候間左様御承知被下度候 又同氏は当公使館会計主任トカラ外務省より被仰付近頃余程事務御繁忙之由承候 独逸荒木氏方より一月中旬頃年始状到来 序之節御尊公様宜敷申上呉れとの伝言ニ御座候 又一月三日ニハ独逸国ニテ日本留学生の新年宴会の催シ有リ 其節日本料理ニテ其跡ハ各自持ち寄りし物品ヲ以テ福引ヲ為し近年に無キ盛会也シ由 又新年宴会は今年ヲ以テ初会トスルトノ趣申来リ候 当地ニハ少シモ珍事無御座候 気候は此ノ一週間位前より一変シ当時少シク暖気ニ御座候 又此ノ頃ハ先キ頃ニ比スレバ天気よき方ニ御座候 御催促申上候ニハ無御座候得共良キ新聞紙有之候ハヾ御送り被下度偏ニ奉願上候 決シテ急ク訳ニハ無御座候間左様御承知被下度候 先便より写真差上可申旨母上様迄申上置候得共未ダ出来不申依テ次便より御送リ可申上候 先は御左右伺迄 草々 不具 父上様 平信  清輝拝

1885(明治18) 年3月6日

 三月六日附 パリ発信 母宛 封書 一ふでしめしまいらせ候 おいおいとあたたかになりますがみなみなさまいつもおかわりなく御たつしやのはづとぞんじ上ます こちらではなをよんさんもわたしもまことにまことにげんきなことにてりつぱなみやこのなかにねたりおきたりくつたりべんきようしたりしておりますからどうぞどうぞ御あんしんくださいまし なんだとかかんだとかゆつておるうちにもうはや一ねんになつてしまいました まことにはやいことです ほくかいどうのほうからもたびたびごそうがありますよし またみなさんおげんきとの事なによりなによりけつこうなことです こないだひさまつさんのくわぞくさんもこのがつこうをでてしまいましたからこのごろはわたしはひとりになりかへつてよいことです またわたしはなをよんさんのおかげでときときりつぱなくるまになをよんさんやまつがたさんとのつてうんどうをいたします きのうはもくようびにておやすみでしたからこうしくわんにまいりました そうしてなをよんさん まつかたさんそれからかいぐんのはちださんといふひとたちとりつぱなちようどありすがわさんのばしやのやうなばしやにのりぼわどぶろにゆというこうゑんちにまいりました まことにおもしろいことでした こんなばしやにのつてこんなあんばいにていきました 〔図〕なをよんさんたちはみんなたかしやつぽをしじゆうかぶつておいでなさいます こちらのやつはみんなたいていたかしやつぽをかぶつております こちらはこんなばしやわはいてすてるほどたくさんあります けれどもにつぽんにてはさんぎかみやさんたちでなければもちますまいよ よきびんのときすみとまきがみをおくつてくださいまし おねがい申上ます けつしていそぐことではございませんよ なくならないまへにゆつてあげておきます こんどはこれぎりにいたします めでたしめでたしめでたしめでたし おからだをおだいじになさいまし おしぱいはおやめおやめおやめ めで度しめで度し 母上様 ぶじ  清輝拝

1885(明治18) 年3月27日

 三月二十七日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)さてそちらにてはおいおいとおはなみのじせつになるとかんがへますがせつぺせけんにでておあるきなさいまし うちにひつこんでばかりおいでなさつておちやとおたばこばかりではどうもあんまりよろしくありますまいとかんがへます こんなあんばいにばしやはばしやひとはひとにてそれぞれみんなせけんにでてあるきますよ それですからげんきげんき こんなばしやがぞろぞろとつながつてとうりますからもしにつぽんのようにひとだのうまだの一しよにおなじみちをあつくときにはけがにんのありどうしでしよう〔図〕 こんどはあまりみじかうございますけれどもこれぎりにいたします めでたしかしく 母上様 ぶじ  清輝

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