本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,962 件)





重森弘淹

没年月日:1992/10/13

読み:シゲモリ, コウエン*、 Shigemori, Koen*  武蔵野美術大学教授、東京総合写真専門学校長の写真評論家重森弘淹は10月13日午前7時15分、心不全のため東京都大田区の東邦大学大森病院で死去した。享年66。大正15(1916)年7月27日、岡山県上房郡に生まれる。昭和19(1944)年京都府立桃山中学校を卒業し、同21年同志社大学文学部に入学するが同23年4月に中退。同25年8月から月刊誌「いけばな芸術」の編集に従事。同30年6月上京し、この頃から安倍公房らが結成した「夜の会」に参加。同年より写真評論を始める。同32年多摩美術大学講師となり写真理論を講じ、翌年より武蔵野美術大学講師を併任。同33年9月東京フォトスクールを創立する。同41年、同校を学校法人写真学園東京総合写真専門学校と改め、同校理事長、校長を兼任した。同48年写真評論誌「写真批評」を創刊。同49年日本映像学会の設立に参加。同55年多摩美術大学ならびに武蔵野美術大学客員教授となったが、平成2(1990)年に武蔵野美術大学に映像画科を新設するのに伴って同科教授となり多摩美術大学を退いた。東松照明、奈良原一高らを早くから紹介するなど写真界の若手育成に尽くしたほか、北海道東川町国際写真フェスティヴァル等の審査員をつとめるなど、写真芸術の振興に寄与した。著書に『現代の写真』(社会思想社)、『広告写真を考える』(誠文堂新光社)、『写真芸術論』(美術出版社)、『現代のいけばな』(八阪書房)等がある。

ジョセフ・ラヴ (Joseph Love)

没年月日:1992/04/15

 元上智大学文学部教授で、西洋美術、現代美術評論を執筆する一方、墨絵や木版画の制作にもあたったジョセフ・ラヴは、4月15日午後8時58分、急性肺炎のため、東京都多摩市の病院で死去した。享年62。1929年8月1日、アメリカ、マサチューセッツ州ウースターに生まれる。同56年ボストン大学神学部修士課程を修了し、同年イエズス会士として来日。64年に上智大学神学部修士課程を修了。67年にはアメリカ、コロンビア大学美術史科修士課程を修了した。後、再来日し、89年まで上智大学で美術史を教えた。現代美術評論もよくし雑誌「美術手帖」等に執筆。木版画や墨絵を制作する作家でもあり、61年の米国ワシントンD・Cにあるコーコラン美術館での個展をはじめ、66年ニューヨークのアロンゾ・ギャラリー、71年サンタ・クララのディセセット美術館、73年オーストラリア・シドニーのボニソン・ギャラリー等各国で個展を開いた。日本では1972年東京の南画廊での個展を皮切りに、75、76年東京のオオサカ・フォルム画廊で、78年から81年まで毎年ギャラリー手で、83、84年ギャラリーQで個展を開き、85年IBM川崎市民ギャラリー、90年にはINAXギャラリー、92年にはパルテノン多摩でも個展を開催した。80年代後半から体の自由を失なって車椅子生活に入り、詩人大岡信、谷川俊太郎ら友人の支援を得て活動していた。カトリック司祭でもあり、著書に『教えるヒント学ぶヒント』(新潮社 1982年)、『夜を泳ぐ』(リブロポート 1991年)がある。

藤本韶三

没年月日:1992/04/04

読み:フジモト, ショウゾウ*、 Fujimoto, Shozo*  「アトリエ」「三彩」「古美術」等の美術雑誌を刊行した美術ジャーナリスト藤本韶三は、4月4日午前0時8分、呼吸不全のため東京都目黒区の病院で死去した。享年95。明治29(1896)年10月3日、長野県下伊那郡に生まれる。同44年長野県立飯田中学校を中退して上京。写真製版印刷会社に勤める一方、白馬会葵橋洋画研究所に学び黒田清輝に師事する。のち、川端龍子、山本鼎の指導を受け、山本の農民美術研究所の仕事に参加する。同12年、山本らの勧誘により美術月刊誌「アトリエ」の編集に創刊時から従事。昭和14(1939)年まで編集長をつとめた。また同14年10月には雑誌「造形芸術」を創刊する。同16年、美術雑誌統制により「造形美術」を「画論」と改題、同18年再統制により大下正男らと日本美術出版株式会社を設立してその専務取締役となり、雑誌「美術」を発行した。同21年美術出版社から「みづゑ」を復刊するとともに月刊誌「三彩」を創刊。同32年造形芸術研究所出版部(のち三彩社と改称)を創立し、美術出版社から「三彩」を譲り受け、同誌の発行を続けた。同38年雑誌「古美術」を創刊。多くの画家、評論家と交遊し、また自ら多田信一、松原宿の名で評論にも筆をふるった。著者に『画室訪問1・2』(三彩社、昭和44年、同47年)『青龍社とともに』(美術出版社)などがある。

寺田千墾

没年月日:1990/12/19

 東京新聞美術記者として活躍した寺田千墾は、12月19日午後4時11分、腹部腫瘍のため川崎市の日本医大第二病院で死去した。享年72。大正7(1918)年8月4日、高知県室戸市に生まれる。昭和17(1942)年9月、早稲田大学政経学部を卒業し、同年10月都新聞社文化部に入社する。同19年4月、海軍に入隊。同20年11月1日、都新聞の後身である東京新聞に復職し、同42年10月1日、東京新聞が中日新聞と合併するに伴い中日新聞社社員となった。常に文化部にあって美術欄を担当し、同49年8月31日定年退職後も同社嘱託および寄稿者として美術評を執筆した。西洋美術史、日本近代史への興味にもとづく視点から現代美術への疑問を投げかける個性的な評論を紙上に展開したほか、作家論等も著し、著書に『現代日本の美術 第6巻 徳岡神泉・奥村土牛』(集英社)『裸婦 第4巻 国領経郎』(学習研究社)などがある。また、同49年より日本大学文理学部構師をつとめた。

谷川徹三

没年月日:1989/09/27

読み:タニカワ, テツゾウ*、 Tanikawa, Tetsuzo*  哲学者で、思想、芸術、文学など広範な領域で評論活動を行い、平和運動にも積極的にかかわった文化功労者、日本芸術院会員の谷川徹三は、9月27日虚血性心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年94。帝室博物館次長、法政大学総長、財団法人明治村理事長などを歴任した谷川徹三は、明治28(1895)年5月28日愛知県知多郡に生まれた。愛知県立第五中学校、第一高等学校を経て、西田哲学にひかれ京都帝国大学文学部哲学科へ進み、大正11(1922)年卒業した。その後、竜谷大学、同志社大学、京都市立絵画専門学校などで講師をつとめ、昭和3年法政大学教授に就任、のち文学部長となる。また、和辻哲郎、林達夫らと雑誌「思想」の編集に携わる。戦前の著作に『感傷と反省』(大正14年、岩波書店)、『生活・哲学・芸術』(昭和5年、岩波書店)などがあり、宮沢賢治の研究、紹介は戦後にも及んだ。戦後は雑誌『心』同人に参加。同20年11月から翌年11月までの間中央公論社理事、同21年11月から同23年6月まで帝室博物館(のち国立博物館)次長、同38年2月から同41年8月の間、法政大学総長をつとめた。同50年日本芸術院会員となり、同62年には文化功労者に顕彰された。この間、柳宗悦らとの交際をはじめ、はやくから映画を含む芸術活動全般に深くかかわり、卓越した鑑賞能力により芸術作品へもすぐれた洞察を示し、多くの評論、随想を残している。戦後の著作に、『東と西の間の日本』(昭和33年、岩波書店)、『芸術の運命』(同39年、岩波書店)、『茶の美学』(同52年、淡交社)、『生涯一書生』(同63年、岩波書店)などがある。没後、従三位勲一等瑞宝章が追贈された。

矢内原伊作

没年月日:1989/08/16

読み:ヤナイハラ, イサク*、 Yanaihara, Isaku*  法政大学名誉教授の文芸、美術評論家矢内原伊作は8月16日午前5時8分、胃がんのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年71。大正7(1918)年5月2日、愛媛県に生まれる。経済学者で元東京大学学長の矢内原忠雄の長男。昭和16(1941)年京都帝国大学文学部哲学科を卒業し、戦後、同22年宇佐見英治らと『同時代』を創刊する。同29年C・N・R・S(フランス国立科学研究所)の招聘により渡仏し、31年に帰国。この間、ジャコメッティと交遊し、その作品のモデルともなったほか、ミロ、ザッキン、シャガールなど美術作家たちを知る。学習院大学、大阪大学、同志社大学などで教鞭をとり、同45年より法政大学教授となる。サルトル、カミュの実存主義哲学を紹介する一方、西欧の作家たちとの交遊と独自の視点にもとづく芸術評論を行なった。著書に『ジャコメッティとともに』『芸術家との対話』『抵抗詩人アラゴン』『京都の庭』『宝生寺』『サルトル』『矢内原伊作の本』などがあり、訳書にはジャコメッティ著『私の現実』、カミュ著『ジンフォスの神話』、アラン著『芸術について』などがある。

村松寛

没年月日:1988/04/28

読み:ムラマツ, ヒロシ*、 Muramatsu, Hiroshi*  美術評論家、大阪芸術大学名誉教授の村松寛は、4月28日午前11時50分、胃ガンのため大阪府寝屋川市の青樹会病院で死去した。享年75。明治45(1912)年6月24日京都市中京区に生まれる。昭和11年京都大学文学部史学科(国史)を卒業し、同年滋賀県立八幡商業学校教諭となる。15年朝日新聞大阪本社に入社。20年同社学芸部勤務となり、美術担当記者として美術評論を手がける。37年同企画部となったのちも美術評論を続け、42年6月同社を停年退職。同年10月大阪芸術大学美術学科教授となり、のち同大学名誉教授となる。一方、47年より梅田近代美術館館長、のち大阪府立現代美術センター所長となり、美術館活動にも携わった。著書に昭和35年『美術館散歩』(河原書房)、42年『京の工房』(同)などがある。

久富貢

没年月日:1988/02/23

読み:ヒサトミ, ミツグ*、 Hisatomi, Mitsugu*  美術評論家、東京学芸大学名誉教授の久富貢は、2月23日午前8時45分、心筋梗塞のため東京都世田谷区の至誠会第二病院で死去した。享年79。明治41(1908)年8月28日福岡県山門郡に生まれる。広島高等学校卒業後、京都帝国大学に入学し、昭和7年同大文学部美学美術史学科を卒業する。同年東京帝国大学文学部大学院に入学したが、10年中退、日本大学講師となる。12年国際文化振興会に勤務し、21年4月同編纂課長となった。22年中央労働学園専門学校講師、23年3月法政大学講師を経て、25年4月東京学芸大学講師、26年同大教授となり、教鞭をとった。同26年「日本来朝前のフェノロサ(1)(2)」(『国華』712、713)、続いて27年「フェノロサについて」(美学2(4))、29年「アーネスト・フェノロサ-その思想と美術上の活動」(東京学芸大学研究報告第6集別冊(1))を発表。32年にはそれらをまとめ、優れた最初のフェノロサ研究書『フェノロサ-日本美術に捧げた魂の記録』(理想社)を刊行した。その後も、39年「Lawrence W.Chisolm,“Fenollosa;the Far East and American Culture”について」(東京学芸大学研究報告16(1))、42年「チゾムの『フェノロサ』を中心として」(本の手帖61)、同年「フェノロサとその周辺」(日米フォーラム13(8))などを発表する。34年より36年まで東京学芸大学附属図書館館長を兼任し、39年には文部省在外研究員として欧米に出張している。47年3月東京学芸大学を停年退官、同年6月名誉教授となった。翌48年4月共立薬科大学教授となり、49年跡見女子大学教授(共立薬科大学教授を引続き兼任)となる。この間、38年10月『小川芋銭・富田渓仙』(講談社『日本近代絵画全集』第19巻)、49年1月『前田青邨』(集英社『現代日本美術全集』第15巻)、『安田靫彦』(中央公論社『日本の名画』第14巻)などを刊行。さらに55年『フェノロサ-日本美術に捧げた魂の記録』に加筆訂正した『アーネスト・F・フェノロサ』(中央公論美術出版社)、56年ジョン・ラファージの日本旅行記を翻訳した『画家東遊録』(中央公論美術出版社、桑原住雄と共著)を出版するなど、フェノロサをはじめ近代日本美術研究に多大の貢献を残した。研究業績については、フェノロサ学会機関誌『Lotus』第9号を参照されたい。

洲之内徹

没年月日:1987/10/28

読み:スノウチ, トオル*、 Sunochi, Tooru*  美術評論家、小説家、画廊経営主の洲之内徹は、10月28日脳こうそくのため東京都文京区の駒込病院で死去した。享年74。大正2(1913)年1月17日、愛媛県松山市に生まれる。昭和5年東京美術学校建築科へ入学したが、左翼運動に加わり中退、帰郷し日本プロレタリア文化連盟愛媛支部を結成する。同10年雑誌『記録』同人となり、以後文芸評論を展開する。戦後は、日中戦争の体験などを主題に小説を発表、3回芥川賞候補にあげられた。同33年戦友で小説家の田村泰次郎が始めた現代画廊に入社し、のち経営を引き継ぎ、この間から美術評論の分野でも意欲的に執筆した。また、新人の発掘とともに、定評のある作家より世に知られない画家たちの優品を集めた“洲之内コレクション”でも有名であった。14年間165回にわたって『民芸新潮』誌上に連載した「きまぐれ美術館」でも、忘れられた作家たちへの熱い思いをつづった。著書に『絵のなかの散歩』(昭和48年)、『きまぐれ美術館』(同53年)、『洲之内徹小説全集』(全2巻、同58年)などがある。

永竹威

没年月日:1987/05/29

読み:ナガタケ, タケシ*、 Nagatake, Takeshi*  国際美術評論家連盟正会員の陶芸評論家永竹威は、5月29日心不全のため佐賀市の上村病院で死去した。享年71。大正5(1916)年2月23日佐賀県小城郡に生まれる。生家は南禅寺派常福寺。昭和12年東京高等工芸学校卒業。同16年から佐賀県庁に入り、同48年退職するまで、佐賀県文化館長、文化課長などをつとめた。この間、県窯業試験場兼務の時期に肥前陶磁史に関心を寄せ、同26年には肥前陶磁研究会を組織し常任理事として会の運営にあたった。また、陶芸評論の執筆活動も行った。同48年佐賀女子短期大学教授となる。同51年佐賀新聞文化賞、翌年西日本文化賞を受賞。財団法人田中丸九州陶磁コレクション理事でもあった。著書に『図説 日本の赤絵』(昭和35年)、『図説 九州古陶磁』(同38年)をはじめ多数ある他、共編執筆に『鍋島藩窯の研究』(同29年)などがある。

安田武

没年月日:1986/10/15

読み:ヤスダ, タケシ*、 Yasuda, Takeshi*  「わだつみ会」の再建などでも知られた社会・文化評論家の安田武は、10月15日午後10時25分こう頭がんのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年63。大正11(1922)年11月14日東京府北豊島郡に生まれる。昭和16(1941)年京華中学校を卒業して17年上智大学英文科に入学するが、18年学徒出陣し20年ソ連軍と闘って捕虜となり、22年1月帰国。上智大学へ復学する。23年上智大学を退学して法政大学国文科へ転入学するが同年中退。24年『きけわだつみのこえ』に衝撃を受け、出版関係の仕事に従事しつつ執筆活動を続け、34年「わだつみ会」の再建に加わったほか、38年『戦争体験』、42年『学徒出陣』を出版する。また、第二次世界大戦を風化させまいとする姿勢から独自の文化論を持ち、市井の生活を基盤として息づく日本の伝統に目を向け、芸人や職人の型に関する評論活動を行なった。著書に『日本の美学』(45年)、『芸と美の伝承』(47年)、『型の文化再興』(49年)、『を読む』(54年)などがある。

吉村貞司

没年月日:1986/01/04

読み:ヨシムラ, テイジ*、 Yoshimura, Teiji*  美術評論家で杉野女子大学教授の吉村貞司は、1月4日肺炎のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年77。本名弥吉三光。明治41(1908)年9月24日福岡県に生まれる。昭和6年早稲田大学独文科を卒業後、東京社、武侠社(のち婦人画報社)に入り『婦女界』などの編集長をつとめる側ら、詩作、評論活動を展開する。同10年文芸雑誌『翰林』同人となり、同誌上に小説や翻訳を発表する。また、日本伝統研究所をおこし、『伝統』を創刊した。同15年『近代文学と知性の歴史』を刊行。戦後は『新婦人』編集長となり歴史文学運動を展開する。同33年東京造形美術学校教授となり、のち杉野女子大学教授に転じ日本美術史を講じた。この間、美術評論、とりわけ現代日本画の評論を始め、日本画の改革をめざす主張に呼応した画家たちによる有明会、野火展、始原展などの結成に関与した。主著に『東山文化-動乱を生きる美意識』(昭和41年)、『日本美の特質』(同51年)などがあり、『吉村貞司著作集』(全8巻、同54~55年)が刊行された。

坂崎乙郎

没年月日:1985/12/21

読み:サカザキ, オツロウ*、 Sakazaki, Otsuro*  美術評論家で早稲田大学政治経済学部教授の坂崎乙郎は、12月21日心臓マヒのため東京都国立市の自宅で死去した。享年57。わが国へのドイツ表現派、ウィーン幻想派などの紹介で先駆的役割を果し、また、短編小説を思わせる語り口による独自の評論活動を展開した坂崎は、昭和3(1928)年1月1日美術史家で朝日新聞社学芸部長、早稲田大学教授をつとめた坂崎坦の次男として、東京都新宿区に生まれた。同26年早稲田大学文学部独乙文学科を卒業、引き続き大学院へ進み美術史を専攻しマネを研究、同29年修了した。同30年から32年まで西ドイツに留学、ザールブリュッケン大学でシュモル教授につき、近代美術を研究する。帰国後、いちはやく美術評論活動に入り、ドイツ表現派やウィーン幻想派などを紹介、とくに幻想芸術の紹介や評論に最も意を注いだ。同34年にはリオン・フォイヒトヴォンガー著『ゴヤ』を翻訳、翌年には著書『夜の画家たち』を刊行、同43年ブリヨン著『幻想芸術』を翻訳刊行、さらにその評論領域は近代日本作家へと拡がり、池田淑人ら異色画家の作家論も手がけた。美術評論家連盟会員でもあった。著書は多く、主なものに『ヨーロッパ美術紀行』(同40年)、『幻想芸術の世界』(同44年)、『イメージの狩人-絵画の眼と想像力』(同47年)、『イメージの変革-絵画の眼と想像力』(同年)、『終末と幻想-絵画の想像力』(同49年)、『絵を読む』(同50年)、『現代画家論』(同年)、『象徴の森』(同年)、『幻想の建築』(同51年)、『視るとは何か』(同55年)、『エゴン・シーレ』(同59年)などがある。

森口多里

没年月日:1984/05/05

読み:モリグチ, タリ*、 Moriguchi, Tari*  日本近代美術史研究で先駆的役割を果し、戦前には西洋美術の紹介にも功績のあった美術評論家森口多里は、5月5日老衰のため盛岡市の自宅で死去した。享年91。本名多利。明治25(1892)年7月8日岩手県膽澤郡に生まれ、大正3年早稲田大学文学部英文学科を卒業。卒業と同時に美術評論の筆をとり、同11年早稲田大学建築学科講師となる。翌12年から昭和3年まで早大留学生として滞仏し、この間パリ大学で聴講、とくにフランス中世美術における建築、彫刻、工芸を主に研究した。帰国後は早大建築学科で工芸史を講じるとともに、新聞、雑誌等に著述活動を精力的に展開、戦前の著作に『ゴチック彫刻』(昭和14年)、『近代美術』(同15年)、『明治大正の洋画』(同16年)、『美術文化』(同)、『中村彝』(同)、『続ゴチック彫刻』(同)、『民俗と芸術』(同17年)、『美術五十年史』(同18年)などがある。同20年5月戦災に遇い岩手県黒沢尻町に疎開し、以後民俗学の研究を本格的に開始した。同23年岩手県立美術工芸学校初代校長に就任、同26年には新設の盛岡短期大学教授を兼任し美術工芸科長をつとめ、同短大では西洋美術史と芸術概論を講じる。同28年からは岩手大学学芸学部非常勤講師をつとめ、同33年には岩手大学教授となる。戦後の著作に『美術八十年史』(同29年)、『西洋美術史』(同31年)、『民俗の四季』(同38年)などがあり、没後の同61年第一法規出版から『森口多里論集』が刊行された。この間、岩手県文化財専門委員、日本ユネスコ国内委員をつとめ、岩手日報文化賞、河北文化賞を受賞する。

今泉篤男

没年月日:1984/01/19

読み:イマイズミ, アツオ*、 Imaizumi, Atsuo*  前京都国立近代美術館長で美術評論家の今泉篤男は、1月19日急性心不全のため東京都目黒区の国立東京第二病院で死去した。享年81。戦前から美術評論に従事し、戦後の美術評論界を先駆的に導き美術評論を独自の領域をもつ世界へ高め、また、国立近代美術館の創設に携わり美術行政でも多大の功績のあった今泉は、明治35(1902)年7月7日山形県米沢市に生まれた。山形県立米沢中学校、山形高等学校理科甲類を経て大正12年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、主に大塚保治の指導を受けた。昭和2年卒業後同大学大学院に在籍し、同7年に渡欧、はじめパリ大学、ついでベルリン大学へ転じデッソアー、ニコライ・ハルトマン、オイデベルヒトらの講義を受ける。滞欧中、佐藤敬、田中忠雄、内田巌、小堀四郎、森芳雄、野口弥太郎、佐分利真等の作家と知り会い同9年に帰国。帰国の年から美術評論の執筆を開始し、新時代洋画展感想」(同9年)、「梅原龍三郎と安井曽太郎」(同13年)、『ルノアル』(同)等、展覧会批評、日本現代作家論、西洋美術紹介などに精力的に従事した。また、同10年には「美術批評に就ての疑問」を発表、同13年には土方定一、瀧口修造、植村鷹千代、柳亮らと「美術批評の諸問題を語る座談会」を持つなど、はやくから美術批評の近代的な在り様に対して積極的な発言を行い、この間、同11年には美術批評家協会の創立に参加し会員となった。同10年から17年まで財団法人国際文化振興会に勤務、同15年には文化学院美術部長となる。戦後は、同25年跡見短期大学教授生活芸術科科長となり、翌年国立近代美術館設置準備委員に任命され、翌27年跡見短大を退職し同年創設の国立近代美術館次長に就任した。同26年美術調査研究のため欧米を歴訪。同年毎日新聞社主催のサロン・ド・メ日本展が大きな反響を呼び、翌年日本作家がパリの同展に招待出品されたのを見て、創刊間もない「美術批評」誌上に日本作品に対する率直で鋭い批判を行い論議を呼んだ。同29年美術評論家連盟創立に際し常任委員となり、翌30年には仮称「フランス美術館」設置準備協議会委員(33年まで)となる。国立近代美術館次長としては、「現代美術の実験」展(同36年)を開催し、荒川修作・中西夏之ら若手の作家をとりあげるなど意欲的な企画を主導した。また、日本国際美術展をはじめ各種展覧会に関与しその批評を行ったのをはじめ、浅井忠、梅原、安井、坂本繁二郎、熊谷守一から森芳雄、山口薫にいたる近代日本作家論の幅を広げていった。同38年国立近代美術館京都分館長となり、同42年同分館が独立し京都国立近代美術館となり初代館長に就任、これを機に工芸の世界へも強い関心を寄せ、以後、富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司、岩田藤七、芹沢銈介、志村ふくみらをとりあげ、工芸批評に新機軸をもたらした。同44年京都国立近代美術館長を辞任し、同46年からは跡見学園女子大学美学美術史学科教授として西洋美術史を講じ、同49年に退職。この間、同34年に国立西洋美術館評議員となったほか、国公私立の美術館の運営委員、評議員等を数多く歴任した。評論の中心は日本近代作家論にあり、絵画、版画、彫刻、工芸の各領域に及んだが、当初から従来の美術批評における感覚的な印象評を脱し、かつ美術評論を創造的な独自の領域として自立させるため、評論の言語も芸術作品同様の平明さと鋭さを備えなければならないとの信念をもっており、論理的でありながら、その体験に基づく平明な美文調の文章には定評があった。尨大な著述の主要なものは、『今泉篤男著作集』(全6巻 昭和54年、求龍堂)に収められている。

菊地芳一郎

没年月日:1983/11/30

読み:キクチ, ヨシイチロウ*、 Kikuchi, Yoshiichiro*  雑誌「美術グラフ」創刊・主宰者菊地芳一郎は11月30日、脳こうそくのため死去した。享年74。明治42(1909)年4月14日、栃木県鹿沼市に生まれる。大正12年3月高等小学校を卒業し、同14年小学校教員となるが、昭和6年退職する。同9年9月、美術誌「美術林」を創刊、同10年同誌を「時の美術」に改題し、同16年出版統制により廃刊するまで続刊する。同27年9月「美術グラフ」を創刊し、没するまで同誌を発行した。また、その主宰する時の美術社から美術関係の著作を世に送り続け、自らも『戦後15年の日本美術史』『戦後美術史の名作』『昭和史の日本画家』などの著書を出版。美術評論やジャーナリズムの方面で活躍した。

勝見勝

没年月日:1983/11/10

読み:カツミ, マサル*、 Katsumi, Masaru*  我国のデザイン評論の草分けでありグラフィックデザイン社編集長をつとめていた勝見勝は、11月10日午後3時ころ、東京都渋谷区の仕事場で死去しているのを発見された。享年74。死因は脳イッ血とみられる。明治42(1909)年7月18日、東京都港区に生まれる。昭和7年東京帝国大学文学部美学科を卒業し、同9年同大学院を修了する。同年横浜専門学校教授となり、同14年商工省産業工芸試験所所員を経、戦後は美術評論、著作を業としてアトリエ社顧問をつとめる。同25年ころからデザイン評論の分野で多彩な活動を展開し、「工芸ニュース」「商業デザイン全集」などの編集顧問、世界商業デザイン展顧問、日本デザイン学会設立委員をつとめ、同29年には桑沢デザイン研究所、同30年には造形教育センターの創立に参加する。同34年、季刊誌「グラフィックデザイン」を創刊。翌35年には日本で初めての世界デザイン会議の実現に尽力し、同39年の東京オリンピックではデザイン専門委員長としてその業績を国際的に認められ、以後日本万国博覧会、沖縄海洋博覧会、札幌・モントリオール冬期オリンピックなどのデザイン計画、絵文字による標識を手がけて、実践面でも活躍した。54年東京教育大学講師となり、以後東京大学、東京芸術大学などでも教鞭をとる。また著作も多く、『現代のデザイン』『子供の絵』『現代デザイン入門』などの編著書、『ポール・クレー』『インダストリアル・デザイン』(H・リード著)などの訳書がある。同42年毎日デザイン賞、同52年東京アートディレクターズクラブ功労賞、同53年日本インダストリアルデザイナー協会功労賞、同57年毎日デザイン賞特別賞、同58年国井喜多郎産業工芸賞特別賞を受賞している。

大島辰雄

没年月日:1983/10/19

読み:オオシマ, タツオ*、 Ooshima, Tatsuo*  美術評論家でフランス文学の紹介と翻訳でも知られる大島辰雄は、10月19日心筋こうそくのため東京都目黒区の自宅で死去した。享年73。明治42(1909)年12月20日東京都港区に生まれ、東京外国語学校を中退。戦中は仏領インドネシアでアリアンス・フランセーズに勤務し、戦後はフランス図書に勤めた。フランス文学の紹介のほか、昭和30年代前後から主に西洋近・現代美術に関する執筆、翻訳活動を展開し、また、映画にも深い関心を示した。「芸術新潮」への執筆に「ピカソのデッサン帖」(125号)、「囚われの画家・シケイロス」(147号)、「ビュッフェの博物誌」(170号)、「タントラ・アートと現代美術」(267号)、「ビュッフェの地獄篇-私的覚書」(328号)などがあるほか、「陶工ミロ発生と始源の詩」(小原流挿花14-2)、「映画とシュールレアリスム」(同15-5)などがある。単行図書に『ダリ』(美術出版社)『ピカソ』(みすず書房)他。

小林秀雄

没年月日:1983/03/01

読み:コバヤシ, ヒデオ*、 Kobayashi, Hideo*  日本芸術院会員、文化勲章受章者の小林秀雄は、3月1日じん不全による尿毒症と呼吸循環不全のため東京・信濃町の慶応病院で死去した。享年80。わが国における近代批評の確立者とされ、美術論でも多大の影響を与えた小林は、明治35(1902)年4月11日東京市神田区に生まれ、昭和3年東京帝国大学文学部仏蘭西文学科を卒業。翌4年、「改造」の懸賞評論に「様々なる意匠」を応募し二席に入選、すでに成熟した確固たる自己の文体と批評の方法を示した。同8年、川端康成らと「文学界」を創刊し文学批評とともに時事的発言も行ったが、やがて戦況が深まるにつれ日本の古典に沈潜し、また陶器と向いあう沈黙の世界に閉じ込もり、「無常といふ事」(同17年)、「西行」(同年)、「実朝」(同18年)、などの作品を生んだ。戦後の仕事は、「モオツァルト」(同21年)、『近代絵画』(同33年刊)など、音楽、美術論を著した時期、『考えるヒント』(同39年刊)に代表される歴史、思想的エッセーを執筆した時期、そして、同40年から「新潮」に連載し同52年に刊行された『本居宣長』の時代に三分して捉えられている。美術論に関しては、その本格的な出発となった『ゴッホの手紙』(同27年刊、第4回読売文学賞)で示されているように、「意匠」をつき抜けた「天才の内面」を掘りあてることに関心を集中させ、孤独で強靭な作家の姿を浮彫りにした。『近代絵画』(同33年刊、第11回野間文芸賞)においても、画家列伝形式でモネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノワール、ドガからピカソをとりあげ、これを近代芸術精神史というべき域へ昂めている。その他、戦前の陶磁器に関するエッセーをはじめ、美術を論じた執筆は数多い。また、晩年はルオーの作品を愛していたという。同34年日本芸術院会員となり、同44年文化勲章を受章。美術関係文献目録(『新訂 小林秀雄全集』新潮社刊-昭和53・54年-所収)第3巻故古賀春江氏の水彩画展「文学界」昭和8年11月第9巻骨董 初出紙未詳。昭和23年9月の執筆か。眞贋 「中央公論」 昭和26年1月号。埴輪 『日本の彫刻1上古時代』、美術出版社刊、昭和27年6月。古鐸 「朝日新聞」 昭和36年1月4日号。徳利と盃 「藝術新潮」 昭和37年2月号。と題する連載の第1回。壷 「藝術新潮」 昭和37年3月号。の第2回。鐸 「藝術新潮」 昭和37年4月号。の第3回。高麗劍 「藝術新潮」 昭和38年2月号。の第4回。染付皿 「藝術新潮」 昭和38年3月号。の第5回。信樂大壷 『信樂大壷』、東京中日新聞社刊、昭和40年3月。原題「壷」。として執筆された。第10巻ゴッホの手紙 「藝術新潮」 昭和26年1月~27年2月ゴッホの墓 「朝日新聞」 昭和30年3月26日号。ゴッホの病氣 「藝術新潮」 昭和33年11月号。ゴッホの繪 『オランダ・フランドル美術』(世界美術大系19)、講談社刊、昭和37年4月。ゴッホの手紙 『ファン・ゴッホ書簡全集』内容見本 みすず書房 昭和38年10月光悦と宗達 『國華百粹』第四輯。毎日新聞社刊、昭和22年10月。原題「和歌卷(團伊能氏蔵)」。梅原龍三郎 「文體」復刊号、昭和22年12月。文末「附記」はこのエッセイが『梅原龍三郎北京作品集』(石原求龍堂刊、昭和19年11月)の解説のために執筆されたものであることを伝えている。鐵齋1 「時事新報」 昭和23年4月30日-同5月2日号。原題「鐵齋」。鐵齋2 「文學界」 昭和24年3月号。原題「鐵齋の富士」。雪舟 「藝術新潮」 昭和25年3月号。高野山にて 「夕刊新大阪」 昭和25年9月26日号。偶像崇拜 「新潮」 昭和25年11月号。原題「繪」。鐵齋3 『現代日本美術全集』第一巻、座右宝刊行会編、角川書店刊、昭和30年1月。原題「富岡鐵齋」。鐵齋の扇面 「文藝」増刊号(美術讀本)、昭和30年11月。鐵齋4 『鐵齋』、筑摩書房刊、昭和32年2月。原題「鐵齋」。梅原龍三郎展をみて 「讀賣新聞」 昭和35年5月7日号夕刊。第11巻近代絵画 「新潮」 昭和29年3月-30年12月号 「藝術新潮」 昭和31年1月-33年2月号。単行本は昭和33年人文書院より刊行。同年普及版を新潮社より刊行。ピカソの陶器 「朝日新聞」 昭和26年3月13日号。マチス展を見る 「讀賣新聞」 昭和26年4月23日号。セザンヌの自畫像 「中央公論」 昭和27年1月号。ほんもの・にせもの展 「讀賣新聞」 昭和31年3月28日号。私の空想美術館 「文藝春秋」 昭和33年6月号-同八月号。マルロオの「美術館」 「藝術新潮」 昭和33年8月号。「近代藝術の先駆者」序 『近代藝術の先駆者』、講談社刊、昭和39年1月。同書は『20世紀を動かした人々』全16巻の第7巻。別巻1中川さんの絵と文 『中川一政文集』内容見本、筑摩書房、昭和50年5月。土牛素描 「奥村土牛素描展目録」 昭和52年5月ルオーの版画 『ルオー全版画』内容見本、岩波書店、昭和54年3月ルオーの事 「ルオー展目録」 昭和54年5月、「芸術新潮」 昭和54年6月号に再録

難波専太郎

没年月日:1982/03/16

 美術評論家連盟会員、元美術雑誌「美術探求」主宰者の美術評論家難波専太郎は、3月16日心不全のため東京都大田区の都立荏原病院で死去した。享年87。明治27(1894)年4月18日岡山県吉備郡に生まれ、大正10年東洋大学文学部支那哲学科卒業後、朝鮮総督府京城中学校教諭となり、同13年鉄道従業員養成所に転じ、側ら朝鮮鉄道読本編纂刊行常任幹事となる。昭和6年帰京し、評論家千葉亀雄に師事、また平凡社に3年間勤務したのち旧制東京中学校等で教鞭をとり、この間、雑誌「文学探求」を主宰する。戦後の同22年7月雑誌「美術探求」を創刊、同49年5月まで27年間発行し美術評論活動に専念する。近代日本画家に関する著書も多く、『横山大観』(昭和29年)『川合玉堂』(同30年)『松林桂月』(同33年)『前田青邨』(同35年)『堅山南風』(同41年)『下村観山/川合玉堂』(共著、同51年)などがある。

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