本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 3,013 件)





石崎浩一郎

没年月日:2017/11/14

読み:いしざきこういちろう、 Ishizaki, Koichiro*  評論家、名古屋造形大学名誉教授の石崎浩一郎は11月14日、喉頭がんで死去した。享年82。 1935(昭和10)年10月7日、広島県生まれ。61年早稲田大学政治経済学部新聞学科卒業。64年日本初の個人映画祭「フィルム・アンデパンダン」を新宿紀伊國屋ホールで足立正生、金坂健二らと開催する。この頃、ギャラリー新宿や内科画廊のグループ展に参加する。67年アジア財団の招聘によりハーバード大学国際セミナー芸術部門修了。68年までニューヨーク大学芸術部門研究員。60年代後半の現代美術シーンをニューヨークからレポートし、後に上梓された『光・運動・空間 境界領域の美術』(商店建築社、1971年)は、ポップアートやキネティックアートなどの日常生活とテクノロジーの間で多様化する美術の動向を捉えている。石崎のこのスタンスは、アメリカを主とした現代美術の紹介者としてながく続き、以下のような出版物に業績が〓れる。 訳書として、『アメリカの実験映画』(アダムス・シドニー編、フィルム・アート社、1972年)、『ポップ・アート:オブジェとイメージ』(クリストファー・フィンチ著、PARCO出版局、1976年)、『ジャクスン・ポロック』(エリザベス・フランク著、谷川薫と共訳、美術出版社・モダン・マスターズ・シリーズ、1989年)、『20世紀の様式:1900―1980』(ヘヴィス・ヒリアー著、小林陽子と共訳、丸善、1986年)。共著として、『現代の美術』(エドワード・ルーシー=スミス、講談社、1984年)。著書として、『映像の魔術師たち』(三一書房、1972年)、バシュラールの著作から導きだされた貝殻や鏡、迷宮、渦巻きといった図像をめぐる『イメージの王国』(講談社、1978年)、『アメリカン・アート』(講談社現代新書580、1980年)、論考に「黒と白の画家」(『画集オーブリー・ビアズリー』、講談社、1978年)、「西欧美術にみる女性美」(『美人画』福富太郎との共著、世界文芸社、2001年)などがある。一方で、日本領域への眼差しも70年代初期からもち、「狂児・織田信長」(『季刊パイディア』、1972夏号)をはじめ、未完となった連載「転換期の美学」(『月刊陶』1981年6月から)などにみられるように、織部などの伝統美への論考も試みていた。 教育歴として、87年から2005(平成17)年まで名古屋造形大学教授、在職中は図書館長も務めた。06年から同大名誉教授。

安井収蔵

没年月日:2017/05/03

読み:やすいしゅうぞう、 Yasui, Shuzo*  美術評論家で、しもだて美術館長(茨城県筑西市)の安井収蔵は、肺がんのため西東京市の自宅にて死去した。享年90。 1926(大正15)年9月20日、愛知県名古屋市に生まれる。日本大学予科を修了、1946(昭和21)年、毎日新聞東京本社に入社。事業部を経て文化部に勤務した後、同新聞中部本社に報道部に異動。63年に同新聞東京本社学芸部に移り、美術に関する報道を担当。同紙の美術記事を76年12月まで執筆し、また各美術雑誌にも寄稿した。同年、同社を退社。笠間日動美術館顧問、日動画廊嘱託となる。85年、山形県の酒田市美術館長に就任。2003(平成15)年からしもだて美術館長となる。同館長職は没年まで勤めた。美術館の館長職の傍ら、晩年までジャーナリストの視点から、美術界の事情をとりあげ、『新美術新聞』をはじめ各誌に寄稿を続けた。なお各誌に寄稿した美術に関する記事は、下記の4書にまとめられている。『色いろ調:美術記者のコラム』(美術年鑑社、1985年)『当世美術界事情:コラム「色いろ調」1985-1990』(美術年鑑社、1990年)『当世美術界事情2』(美術年鑑社、2000年)『絵話 諸縁 近頃美術界の話題を掬う』(講談社エディトリアル、2015年)

大岡信

没年月日:2017/04/05

読み:おおおかまこと、 Ooka, Makoto*  現代日本を代表する詩人で、美術評論も多数手がけた大岡信は4月5日午前10時27分、誤嚥性肺炎による呼吸不全のため静岡県三島市内の病院で死去した。享年86。 1931(昭和6)年2月16日静岡県田方郡三島町(現、三島市)に歌人・大岡博の長男として生まれる。旧制中学在学中から短歌や詩を書き始め、東京大学文学部国文学科在学中の52年、雑誌『赤門文学』に発表した評論が注目を集める。53年に同大学を卒業、読売新聞外報部記者の傍ら旺盛な創作を進め、川崎洋、茨木のり子、谷川俊太郎らの詩誌『櫂』に参加。63年に新聞社を退社後は65年に明治大学助教授、70年に同大学教授、88年より東京藝術大学教授を務める。『記憶と現在』(ユリイカ、1956年)、『透視図法―夏のための』(書肆山田、1977年)、『春 少女に』(書肆山田、1978年)等清新な実験精神に富む詩集、『紀貫之』(筑摩書房、1971年、翌年読売文学賞受賞)、『うたげと孤心』(集英社、1978年)等日本の古典に根ざした斬新な評論を次々と発表。また連歌・連句という日本古来の集団制作の伝統を現代詩によみがえらせる「連詩」を創始、海外の詩人らと共同制作を重ね、また外国での朗読会、講演等を通じて日本文学の紹介に努めるなど国際的にも活動した。 大岡は詩人としての創作活動の傍ら、50年代から美術評論家としても活躍した。56年に東野芳明や飯島耕一ら東京大学時代の仲間とシュウルレアリスム研究会を立ち上げた後、『美術批評』に初めての美術評論「PAUL KLEE」を執筆。同誌の他『みづゑ』『美術手帖』等で活発な美術論を展開し、数々の美術書の解説も手がける。58年、書肆ユリイカが創立十周年を記念して企画した「ユリイカ詩画展」で、大岡の詩に対して駒井哲郎が銅版画を合作。59年に東京・日本橋の南画廊で開催された「フォートリエ展」カタログ作成に協力したのをきっかけに同画廊主の志水楠男と知り合い、同画廊を通じて国内外の現代芸術家と交流するようになる。加納光於、宇佐美圭司、嶋田しづ、サム・フランシス、ジャン・ティンゲリーといった美術家はもとより、武満徹や一柳慧といった音楽家とも親交を結んだ。なかでも加納光於とは60年の南画廊での個展で大岡が作品を買ったことがきっかけとなって親しくなり、互いの詩作、作品制作にも深く係わり合い、共同制作「アララットの船あるいは空の蜜」(1971―72年)を生み出した。また63年にパリ青年ビエンナーレ詩部門に参加するため渡仏した際に菅井汲と出会い、以後幾度か詩と画のパフォーマンス的共演を行うなど、美術家との共同制作を試みたほか、自ら版画や水彩画の制作にも取り組んだ。 79年から『朝日新聞』に連載したコラム「折々のうた」で80年に菊池寛賞を受賞。日本現代詩人会会長、日本ペンクラブ会長を歴任し、1995(平成7)年には恩賜賞・日本芸術院賞を受け日本芸術院会員となる。2002年に『大岡信全詩集』(思潮社)が刊行。03年文化勲章を受章。翌年には文化交流の功労に対しフランス政府からレジオン・ドヌール勲章(オフィシエ)を贈られる。06年から07年にかけて三鷹市美術ギャラリー他で、芸術家同士の交流を通じて収集された作品を紹介した「詩人の眼・大岡信コレクション」展が開催。長男の大岡玲(あきら)は作家。09年に脳出血で倒れた後は一線を退き、療養に努めていた。 大岡の美術に関する主要著書は下記の通りである。『芸術マイナス1』(弘文堂、1960年)『ポロック』(みすず書房、1963年)『芸術と伝統』(晶文社、1963年)『眼・ことば・ヨーロッパ』(美術出版社、1965年)『肉眼の思想』(中央公論社、1969年)『現代美術に生きる伝統』(新潮社、1972年)『装飾と非装飾』(晶文社、1973年)『ドガ』(新潮社、1974年)『岡倉天心』(朝日新聞社、1975年)『日本の色』(朝日新聞社、1976年)『加納光於論』(書肆風の薔薇、1982年)『ミクロコスモス 瀧口修造』(みすず書房、1984年)『抽象絵画への招待』(岩波書店、1985年)『美をひらく扉』(講談社、1992年)

村木明

没年月日:2017/01/17

読み:むらきあきら  美術評論家の村木明は、1月17日に没した。享年88。 1929(昭和4)年1月11日、岐阜県に生まれる。51年、名古屋外国語専門学校(現、南山大学)フランス語科を卒業。54年、早稲田大学政治経済学部を卒業。71年頃から74年まで、『読売新聞』に美術批評、美術に関する記事を寄稿。また、『みづゑ』に「海外短信」として海外の最新の美術動向を伝える記事を連載し、同時に各美術雑誌に展覧会評などを寄稿した。執筆活動の他、70年代から80年代には「ヴュイヤール展」(西武美術館、1977年)、「ヘンリー・ムーア 素描と彫刻展」(西武美術館、1978年)、「アンドリュー・ワイエス展」(三越、日本橋、1978年)、「ルノワール展」(伊勢丹美術館、1979年)などをはじめとして、東京都内のデパートなどを会場とした美術展の監修にもあたり、カタログへ寄稿した。また、読売新聞社主催の「日本秀作美術展」では、79年の第1回展から2003(平成15)年の第25回展まで、監修、審査にもあたった。 主な編著作、翻訳は下記の通りである。(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア2 マックスフィールド・パリッシュ』(PARCO出版局、1975年)(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア4 ハワード・パイル』(同前、1976年)(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア6 トーマス・ハート・ベントン』(同前、1976年)座右宝刊行会編『現代日本の美術8 国吉康雄・三岸好太郎』(国吉康雄を担当)(集英社、1976年)(翻訳)マドレーヌ・ウール著『名画の秘密 ルーヴル美術館 絵画の科学的探究』(求龍堂、1976年)『アメリカ近代美術の展開 コマーシャル・アートの黄金時代を築いた作家たち』(美術公論社(芸術叢書)、1978年)『現代日本画全集 第10巻 橋本明治』(集英社、1982年)(解説)『中山忠彦画集』(求龍堂、1983年)『展覧会への招待 絵の百科事典』(読売新聞社、1984年)(解説)『平山郁夫 私のスケッチ技法』(実業之日本社、2007年) なお、美術評論家としての活動の傍ら、『おわら囃子が風に乗る』(近代文芸社、1995年)をはじめ、『雪割草』(同前、2006年)、『季節風』(同前、2009年)など小説集も刊行している。

北村由雄

没年月日:2017/01/07

読み:きたむらよしお、 Kitamura, Yoshio*  評論家で茅ヶ崎市美術館館長を務めた北村由雄は1月7日、死去した。享年81。奥英了のペンネームもあり。 1935(昭和10)年5月27日東京都生まれ。59年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業。在学中の56年『美術批評』の読者欄に「現代日本美術展寸感」(55号)、「美術界と戦争責任の問題」(56号)が掲載される。59年「次代美術会」に参加、『次代美術』1号に「フォートリエ論」、2号に「ピーター・ブリューゲル覚書」を執筆。同会は鶴岡弘康、藤枝晃雄ら7人の同人で、60年には「20代作家集団」に発展、25名の会員からなり、高松次郎、若林奮、村田哲朗らも参加している。北村は同会評論誌『CRIT』1号に「ものと感覚と信念について」を寄稿、アンデパンダン展の在り方から河原温、池田龍雄、利根山光人にふれている。卒業後、59年共同通信社文化部記者となり、美術界の出来事を含め展覧会評を執筆。さらに美術雑誌にも原稿を寄せる機会が多くなる。64年『美術手帖』に「アトリエでの対話」を12回連載、桂川寛や平山郁夫らを扱い領域を広げていく。一方、『日本美術』87号(1972年)の「私の時代を劃した作家たち」では、戦後美術を自分なりに考えて行く契機となった作家として河原温、池田満寿夫、磯辺行久、工藤哲巳、流政之、小畠広志、多田美波、柳原睦夫をあげ、記者としての体験型志向が示されている。81年に上梓された『現代画壇・美術記者の眼1960〓1980』(現代企画室、1983年に増補改訂版)は、60年代初期の前衛的傾向から70年の大阪万博をへて、幅広く画壇の動向などにふれ、一ジャーナリストの視点として記録性が高い。81年にはぺりかん社の「なるにはシリーズ」の内『美術家になるには』を執筆する。1997(平成9)年に茅ヶ崎市美術館初代館長に就任、退任後も茅ヶ崎美術家協会展での講演や2016年の第1回茅ヶ崎市美術品審査委員会委員長を務めるなど、市の美術界に尽力した。教育歴としては96年から多摩美術大学の客員教授を務めた。

朝日晃

没年月日:2016/08/31

読み:あさひあきら、 Asahi, Akira*  佐伯祐三、松本竣介研究で知られた美術評論家で、広島市現代美術館副館長だった朝日晃は、8月31日に肺炎のため、東京都内の病院で死去した。享年88。 1928(昭和3)年2月11日に広島市に生まれる。広島市の旧制修道中学校を卒業後、広島県立師範学校に進学して49年3月に卒業。翌年、早稲田大学文学部芸術専修美術科に学び、52年3月に同大学を卒業。54年に神奈川県立近代美術館嘱託に採用される。61年に同美術館学芸員となり、69年に主任学芸員となる。75年より新築された東京都美術館の事業課長に転ずる。同美術館では、「戦前の前衛 二科賞、樗牛賞の作家とその周辺」(1976年)、「靉光・松本竣介そして戦後美術の出発展」(77年)、「写真と絵画 その相似と相異」(1978年)など、日本の近現代美術に関して問題提起するような意欲的な自主企画展を指導する一方、「描かれたニューヨーク展 20世紀のアメリカ美術」(1981年)、「今日のイギリス美術展」(1982年)などの国際展も率先して開催した。85年、広島市現代美術館開設準備事務局長となり、88年より同美術館開設準備室長となる。1989(平成元)年5月開館の同美術館の副館長に就任、翌年3月に退職した。以後、美術評論家として活動した。 監修にあたった佐伯祐三、松本竣介に関する画集等が多くあるが、他に主要な編著作は下記の通りである。『松本竣介』(日動出版部、1977年)『永遠の画家 佐伯祐三』(講談社、1978年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料1』(東出版、1979年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料2』(東出版、1980年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料3』(東出版、1980年)『佐伯祐三-パリに燃えた青春』(NHKブックス、1980年)編集解説松本竣介文集『人間風景』(中央公論美術出版、1982年)『絵を読む 人間風景の画家たち』(大日本絵画、1989年)『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画、1994年)野見山暁治共著『佐伯祐三のパリ』(新潮社、1998年)『そして、佐伯祐三のパリ』(大日本絵画、2001年)

林紀一郎

没年月日:2016/08/25

読み:はやしきいちろう  美術評論家で、新潟市美術館長、池田20世紀美術館長を歴任した林紀一郎は、心不全のため8月25日死去した。享年86。 1930(昭和5)年4月23日、鹿児島県出水群三笠村(現、阿久根市)に生まれる(本名林喜一郎)。幼少年期を中国北東部(当時の満州国)に過すごし、44年、牡丹江中学校2年時に帰国。53年、上智大学文学部英文科を卒業。57年から60年まで、なびす画廊(中央区銀座1丁目)にて個展を開催、また58年から60年までモダンアート展に出品。60年代から美術評論などの執筆活動をはじめ、雑誌等に幅広く寄稿をつづけた。84年4月、新潟市美術館準備室長に就任。翌年4月、同美術館開館に伴い館長に就任。1995(平成7)年3月まで在任し、同年4月から2009年3月まで同美術館顧問、また95年4月から05年3月まで、同美術館資料選定委員を務めた。同美術館在任中は、初代館長として国内外の近現代美術、郷土出身美術家の作品収集につとめ、コレクションの形成に尽力し、また後進の育成につとめた。92年から05年まで、公益財団法人池田20世紀美術館(静岡県伊東市)の館長を務め、在任中52回にのぼる企画展を開催した。幅広い美術家との日常的な交友をもとに、各作家の人柄や個性を視野に入れ、さらに創作をめぐる作品論を展開するなど、平易に論評する軽妙なスタイルで、晩年まで評論活動をつづけた。監修、解説等にあたった主要な著作は下記の通りである。分担執筆『加山又造 装飾の世界』(京都書院、1979年)共著『世界版画美術全集 第8巻 エルンスト/ミロ』(講談社、1981年)共著『現代美術入門』(美術出版社、1986年)瀧口修造共訳『アラカワ/マドリン・H・ギンズ 「意味のメカニズム」』(1979年に国立国際美術館で開催された「荒川修作の世界・意味のメカニズム」展カタログに掲載)『もの書き・恥かき・半世紀 -美の領分・交友録-』(自家出版、2014年)『続 もの書き・恥かき・半世紀 -海外作家編-』(林幸子発行出版、2017年)

南嶌宏

没年月日:2016/01/10

読み:みなみしまひろし、 Minamishima, Hiroshi*  美術評論家の南嶌宏は、1月10日、脳梗塞のため松本市内の病院で死去した。享年58。 1957(昭和32)年10月4日、長野県に生まれる。本名は南島宏。兄は彫刻家の南島隆。長野県立飯田高等学校、筑波大学芸術専門学群芸術学専攻卒業。インド放浪を経て、いわき市立美術館に赴任。85年、自身最初の展覧会として「もうひとつの美術館―解体を巡って」を企画。87年、広島市現代美術館に赴任。30代の始めからは青山・スパイラル、佐賀町エキジビット・スペースなど、所属する美術館の外での展覧会もいくつか手掛ける。1990(平成2)年に広島市現代美術館を退職、東京に拠点を移す。のちに熊本市現代美術館設立準備室に籍を置くまでインディペンデントとして活動し、この間にライフワークともいえるテーマ、「東欧の美術」「女性アーティスト」「いけばな」など現代美術が扱うことのなかった分野をじっくりと育む。93年、カルティエ現代美術財団奨学生としてパリへ留学。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のなか、戦場に近い東欧全域を訪問。またこの留学中に中国人キュレーター、ホー・ハンルーと知遇を得る。留学の成果のひとつとして97年「分析と解釈 中央ヨーロッパの現代美術」(資生堂ギャラリー)を企画。2000年から熊本市現代美術館の運営に参画し学芸課長兼副館長、館長を歴任。同館では「ATTITUDE 2002 心の中の、たったひとつの真実のために」(2002年)、「生人形と松本喜三郎 反近代の逆襲」展(2004年)、「ATTITUDE 2007 人間の家:真に歓喜に値するもの」(2007年)などを企画、美術を通したハンセン病への社会的偏見に対する活動や、生人形や見世物文化の価値を再発見する取り組みを行った。08年に熊本市現代美術館館長を退任、女子美術大学芸術学部芸術学科教授に就任。同年、第1回プラハ国際芸術トリエンナーレ国際キュレーター。09年第53回ベネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナー。全国美術館会議理事、国際美術評論家連盟など歴任。第3回西洋美術振興財団学術賞受賞(2008年)。単著に『ベアト・アンジェロ 天使のはこぶもの』(トレヴィル、1992年)、『サンタ・マリア』(トレヴィル、1993年)、『豚と福音』(七賢出版、1997年)、共著に『現代美術入門』(美術出版社、1986年)、『日本藝術の軌跡』(夏目書房、2003年)、『美術批評と戦後美術』(ブリュッケ、2007年)など。歿後、2月28日に杉並区の女子美術大学杉並キャンパス110周年記念ホールでお別れ会が催された。

ヨシダ・ヨシエ

没年月日:2016/01/04

読み:よしだよしえ  美術評論家のヨシダ・ヨシエは1月4日、埼玉県鶴ケ島市の病院で脳梗塞のため死去した。享年86。 1929(昭和14)年5月9日、東京都千代田区麹町に生まれる。本名吉田早苗、父は逓信省の官吏だった。2歳のとき母と死別。番町小学校、鎌倉臨海学園に学ぶ。父の転勤にともない新潟中学へ転校、その後、現在の神奈川県立湘南高校に在籍中に敗戦。しばらくは家出をし、上野の浮浪者と生活を送る。その後、小林秀雄や林達夫ら鎌倉文化人を知り、地域雑誌『緑地帯』の発行に関わり、3号まで刊行。50年頃、片瀬目白山に在住の丸木位里・俊夫妻を尋ね、藤沢の旅館で「原爆の図」を展示する。以後3年間、丸木夫妻らと「原爆の図」5部作の全国巡回展示を行う。52年劇団前進座に参加。56年詩集『風と夜と』(私家版250部、吉留要画)をヨシダ・ヨシエ名で刊行。同年「小山田二郎の芸術」(『美術批評』、8月号)で美術評論デビュー。58年詩画集『ぶるる』(岡本信二郎画、亜紀社)。61年「瀧口修造覚え書き」(『現代芸術』、5.6~9月号)では、瀧口の戦中期の活動について論述。62年「靉光伝」(『AVECART』、58号から9回連載)は、ヨシダのこの頃の中心的なテーマ「戦争と美術」が展開される。靉光については、77年から82年まで『デフォルマシオン』で「わたしの内部の靉光」を長期連載する。 65年目白駅近くにモダンアートセンター・ジャパンを設立、展示や出版を手掛ける活動を開始するも、半年あまりで解散した。68年ギャラリー新宿の機関誌『反頭脳』を編集。71年尾崎正教や小本章と人間と大地の祭り展(代々木公園)を企画。72年『戦後前衛所縁荒事十八番』(ニトリア書房、同書は82年『解体劇の幕降りて』として増補版が造形社より刊)刊。74年コスモス展(サンパウロ大学現代美術館)を組織。75年アーティスト・ユニオンに参加。77年より日本・アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議に参加。同年『琉氓の解放区』(現代創美社)刊。83年松沢宥『プサイの函』(造形社)の監修。86年より原爆の図丸木美術館評議委員(1994年まで、95年から97年まで常務理事)を務める。同年『エロスと創造のあいだ』(展転社)刊。1989(平成元)年『手探る・宇宙・美術家たち』(樹芸書房)刊。91年より池田20世紀美術館評議委員(1994年まで、以後2007年まで理事、10年まで評議委員)を務める。93年『修辞と飛翔』(北宋社)刊。96年ライフワーク的な『丸木位里・俊の時空・絵画としての「原爆の図」』(青木書店)刊。2005年『ヨシダ・ヨシエ全仕事』(芸術書院、全著述が収録されてはいない)刊。08年細江英公による写真集『原罪の行方 最後の無頼派ヨシダ・ヨシエ』が刊行される。ヨシダの評論活動はファインアートだけでなく舞踏や人形、人類学、サブカルチャーへ幅広い領域にわたる。没後、舞踏関連を中心に蔵書の一部が、アメリカ、ロサンゼルスのUCLAに寄贈され、「ヨシダ・ヨシエ文庫」として開設されている。

川添登

没年月日:2015/07/09

読み:かわぞえのぼる、 Kawazoe, Noboru*  建築評論から民俗学に至る分野で活躍した建築評論家の川添登は7月9日肺炎のため死去した。享年89。 1926(大正15)年2月23日東京駒込染井に生まれる。早稲田大学専門部工科(建築)、文学部哲学科を経て、1953(昭和28)年、理工学部建築学科卒業。同年より新建築社勤務。53年より『新建築』の編集長を務めていたが、1957年に独立して建築評論家となる。60年世界デザイン会議日本実行委員。69年大阪万博博覧会テーマ館サブプロデューサー。70年京都に加藤秀俊などとともにシンクタンクの株式会社CDI(コミュニケーションデザイン研究所)を設立し、所長を務めた。72年日本生活学会を設立し、理事長・会長を歴任した。81年つくば国際科学技術博覧会政府出展総括プロデューサー、87年から1999(平成11)年まで郡山女子大学教授、93年より96年まで早稲田大学客員教授、99年より2002年まで田原市立田原福祉専門学校校長。日本生活学会・日本展示学会・道具学会名誉会員。 川添が残した日本建築界への多大な功績のうち、特筆すべきは1950年代から60年代にかけて建築界の言説を牽引し、建築批評と建築評論の両面から建築ジャーナリズムを確立していったことが挙げられる。川添が編集長を務めていた『新建築』の中で建築家に論考を促し、建築の背景にある思想を記述させた。また、50年代半ばには紙面にて集中的に伝統論をテーマにするよう仕掛け、言説を煽った。これは「日本建築のルーツはなにか」、さらには「日本建築をどう表現すべきか」を問うものであった。さらには、編集のみに留まらず川添は「岩田知夫」のペンネームで、新建築および他の建築雑誌『国際建築』と『建築文化』にも寄稿して議論を盛り上げ、建築ジャーナリズムを通して、現代に通じる日本建築とは何かを日本の建築家に問い続けた。 また、特筆すべきは中心メンバーとしてメタボリズム運動を生み出し、牽引したことである。60年に開催された世界デザイン会議においては実行委員の中心メンバーとして参画し、他国から著名な建築家を招聘するだけではなく、それを迎え撃つように、菊竹清訓、大高正人、槇文彦、黒川紀章らとメタボリズムの概念を練りあげ、『METABOLISM 1960 都市への提案』(美術出版社、1960年)を出版し、日本発の世界的な建築理念を発表するに至った。50年代当時において、海外ではオリエンタリズムの観点から形態について述べられるに過ぎなかった日本の現代建築を、現代建築思想の観点を含めて世界的な建築批評の壇上に持ち上げることに成功した。 このように川添は建築の実作をつくらずして、日本の建築思想を牽引し、日本の建築家の作品や考え方に影響を与え続けた。 川添は生涯に渡り、数多くの著作を執筆した。受賞歴として、60年『民と神の住まい』により毎日出版文化賞、82年『生活学の提唱』により今和次郎賞、民間学である生活学を体系したことで97年南方熊楠賞を受賞している。主要著書:『現代建築を創るもの』(彰国社、1958年)、『伊勢 日本建築の原形』(丹下健三、渡辺義雄と共著、朝日新聞社、1962年)、『メタボリズム』(美術出版社、1960年)、『民と神の住まい大いなる古代日本』(光文社、1960年)、『建築の滅亡』(現代思潮社、1960年)、『日本文化と建築』(彰国社、1965年)、『建築と伝統』(彰国社、1971年)、『生活学の提唱』(ドメス出版、1982年)、『象徴としての建築』(筑摩書房、1982年)、『「木の文明」の成立』(上下 NHKブックス、1990年)、『木と水の建築 伊勢神宮』(筑摩書房、2010年)など多数

村田慶之輔

没年月日:2015/03/19

読み:むらたけいのすけ  川崎市岡本太郎美術館名誉館長で、美術評論家の村田慶之輔は、3月19日に死去した。享年84。 1930(昭和5)年10月11日に生まれる。56年3月、早稲田大学第一文化学部を卒業。59年11月に神奈川県教育委員会職員となる。64年、神奈川県立博物館準備室の学芸員となる。69年4月に文化庁文化部芸術課専門職員に転ずる。74年7月に文化庁文化部文化普及課の国立国際美術館設立準備室主幹となる。77年5月、国立国際美術館開館にともない学芸課長となる。1991(平成3)年3月に定年退官。同美術館在職中には、福井県立美術館運営委員会、西宮市大谷記念美術館運営委員会、愛知県美術館協議会、和歌山県立近代美術館協議会の委員を務め、また高知国際版画トリエンナーレ、安井賞、現代日本美術展、吉原治良賞の審査員も務めた。教育面では、愛知県立芸術大学、静岡大学等で非常勤講師として教鞭をとった。92年4月、高岡市美術館準備室長となるが、翌年3月に退職。99年4月に川崎市岡本太郎美術館館長となる。在職中は、岡本太郎をはじめとする各種の企画展の企画、監修などにあたった。2012年4月に同美術館名誉館長となる。また同時期に、軽井沢ニューアートミュージアムの名誉館長にも就任した。幅広い視野から、縦横に美術を語り、批評しつづけた美術館人であった。

加藤貞雄

没年月日:2014/03/17

読み:かとうさだお  評論家で目黒区美術館館長、茨城県近代美術館長を務めた加藤貞雄は、3月17日肺がんのため死去した。享年81。 1932(昭和7)年5月14日生まれ(本籍は千葉県船橋市)。55年早稲田大学第一法学部卒業。同年9月毎日新聞社大阪本社に入社する。65年から毎日新聞社東京本社学芸部に異動。主に70年代、80年代の公募・団体系の展覧会評を担当した。78年から学芸部編集委員、80年から学芸部長、82年から学芸部編集委員兼論説委員を務め、87年同社を退職する。87年10月より、日本人作家が海外で制作した作品を収集することを方針の柱とする目黒区美術館長に就任。1995(平成7)年から2007年まで茨城県近代美術館長を務め、同館の展覧会図録で、福王寺法林、下保昭、川崎春彦、加山又造らについて論述している。また『荻太郎』(日動出版部、2004年)収載の作家論「人間愛の“精神造型”」では、画家の70年にわたる画業を精密に記述している。94年、96年、98年には文化功労者選考審査委員、93年、94年、97年、98年には芸術選奨選考審査委員、91年、93年には安井賞選考委員を務めた。ほかに現代日本彫刻展、昭和会展、中村彝賞などの選考委員を務めた。

近藤幸夫

没年月日:2014/02/14

読み:こんどうゆきお  美術評論家で、慶應義塾大学理工学部准教授の近藤幸夫は、2月14日死去した。享年63。 1951(昭和26)年2月9日、愛知県岡崎市に生まれる。71年3月、慶應義塾高等学校を卒業後、慶應義塾大学商学部に進学。75年4月に同大学文学部哲学科美学美術史専攻に学士入学。77年4月、株式会社小田急百貨店に入社。80年1月に同社を退職し、同年4月、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程に入学、83年3月に修了。80年10月、東京国立近代美術館の研究員に採用。1991(平成3)年に同美術館主任研究員となる。同美術館在職中は、「現代美術における写真」展(1983年)、「モディリアーニ展」(1985年)、「近代の見なおし:ポストモダンの建築1960-1986」展(1986年)、「手塚治虫展」(1990年)等を担当した。なかでも、「モディリアーニ展」は、国内で紹介されることが少なかった彫刻作品を含めて作品の質、出品点数において比類のない大規模な展覧会であった。また調査研究においては、大学、大学院時代からのテーマであったコンスタンティン・ブランクーシの研究をすすめ、その成果を論文等にまとめるとともに、現代美術における立体表現、写真へと研究領域を広げていった。こうした研究を基盤にした評論活動においては、『美術手帖』の展覧会評「ART84」の連載(1984年2月-12月)や「かわさきIBM市民ギャラリー」での企画展をはじめ、各種の雑誌への寄稿やギャラリーでの企画、作家展に積極的に参加協力した。 96年4月、慶應義塾大学理工学部助教授となり、日吉校舎の美術研究室に勤務、総合教育等を担当した。在職中は、教育指導の傍ら、とりわけ2004年6月に同大学日吉キャンパス内の施設「来往舎」のギャラリーにて「来往舎現代藝術展」を学生有志と共に企画運営した。同展は、その後も様々なアーティストを招き、また時宜にかなうテーマに基づき開催、近藤は13年10月の第10回展まで中心となって携わった。美術評論家としては、その評論をふりかえると、単に完成した作品を前にして批評するというよりも、作家、作品から創作の過程、創作をめぐる思考までを丹念にたどりながら、親しく寄り添うように批評する態度が一貫していたことが理解される。そうした批評の基点には、現代美術のめまぐるしい変転を視野に入れつつ、アーティストへの敬意と深い共感があったからであろう。没後の14年3月24日、原美術館(東京都品川区)のザ・ホールにて「近藤幸夫さんにお別れをする会」が開かれ、多数の関係者が参集した。なお同会のために作成された冊子「KONDO YUKIO 09.02.1951-14.02.2014」には、詳細な研究業績及び活動履歴が掲載され、30年以上にわたる活動が記録されている。 主要な翻訳、編著書『ブランクーシ作品集』(ラドゥ・ヴァリア著、小倉正史との共訳、リブロポート、1994年)『カラー版20世紀の美術』(分担執筆、美術出版社、2000年)『Fuji Xerox Print Collection』(監修、全解説執筆、富士ゼロックス株式会社、2002年)

村瀬雅夫

没年月日:2013/06/20

読み:むらせまさお  美術評論家、日本画家の村瀬雅夫は6月20日死去した。享年74。 1939(昭和14)年1月16日、東京市世田谷区(現、東京都世田谷区)経堂に生まれる。間もなく、千葉県に移住し、幼年期、少年期を千葉市で過ごす。千葉県立第一高等学校を卒業後、59年、東京大学文学部入学。在学中に横山操、石崎昭三に師事して日本画を学ぶ。61年、62年に青龍社展に出品したという。63年東京大学文学部東洋史学科卒業、読売新聞社に入社。福島支局勤務を経て、長く本社文化部で美術担当記者として務める。85年から読売新聞夕刊で連載「美の工房」(全50回)を担当。在職中から無所属の日本画家として、銀座・飯田画廊、ニューヨーク・日本クラブギャラリー、東京セントラル画廊などで生涯18回の個展を開催した。1989(平成元)年、50歳の年に、読売新聞社の文化次長で定年退職を迎える。明治大学講師、福井県立美術館館長、渋谷区立松濤美術館館長を歴任。著書に『野のアトリエ』(桃源家、1989年)、『美の工房―絵画制作現場からの報告』(日貿出版社、1988年)、『横山操』(芸術新聞社、1992年)、『「芭蕉翁月一夜十五句」のミステリー 『おくのほそ道』最終路の謎』(日貿出版社、2011年)、『庶民の画家南風』(南風記念館、1977年)、編著書に『川端龍子 現代日本の美術13』(集英社、1976年)、『川端龍子 現代日本の美術4』解説(集英社、1977年)、『現代日本画全集 第14巻 奥田元宋』(集英社、1983年)、『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン 5 平山郁夫/前田青邨』(瀧悌三と責任編集、集英社、1986年)がある。

多木浩二

没年月日:2011/04/13

読み:たきこうじ、 Taki, Koji*  評論家の多木浩二は4月13日、神奈川県平塚市の病院で肺炎のため死去した。享年82。 1928(昭和3)年12月27日、兵庫県神戸市に生まれる。57年東京大学文学部美学美術史学科卒業。名取洋之助のスタッフとして『岩波写真文庫』の制作、編集に携わる。59年博報堂に入社。61年編集デザイン事務所ARBO(アルボ)を設立、旭硝子の広報誌『ガラス』の企画、編集、執筆、撮影を行なう。同誌関連での60年代におけるヨーロッパの建築体験が後に建築を考察する基盤となる。 美術評論では、55年第2回美術出版社芸術評論で「井上長三郎論」で佳作入選(『みづゑ』1955年8月号掲載)。その後、『美術手帖』、『デザイン』などに執筆をするようになる。60年代末の活動としては、日本写真家協会が主催した「写真100年展」(『日本写真史1840-1945』平凡社1971年に結実)の仕事を経て、中平卓馬、高梨豊らと68年に刊行した同人誌『PROVOKE―思想のための挑発的資料』(季刊、プロヴォーク社、3号まで)がある。彼らのブレボケ写真は既成のリアリズム写真を批判した。しかし90年代後半からの同誌への過大評価に対して、晩年多木は嫌悪に近い感慨をもっていた。 多木が扱う領域は建築、写真、美術、デザイン、都市と幅がひろい。主に関わった作家たちには、篠原一男、坂本一成、磯崎新、倉俣史朗、桑山忠明、楠本正明、大橋晃朗らの名があがってくるが、ミニマル系の系譜がみえてくる。彼の方向はジャンルを重層的に捉えているが、物と空間、そして社会との関係を深層の域から意識化していくことであった。初期の重要な著作『生きられた家』(田畑書店、1976年)は、初出は篠山紀信の写真集『家』に掲載されたテキストだが、単行本化、改訂を4度行ない、記号論的な思考を深化させていった。さらに『天皇の肖像』(岩波新書、1988年)、『写真の誘惑』(岩波書店、1990年)は、写真の芸術性よりも社会のなかに写真メディアが位置づけられる過程を問い、ベンヤミンを援用して論じていく。80年代に到り、モチーフは広がり、『絵で見るフランス革命』(岩波新書、1989年)で歴史論へと向かい、「やっとここまできた」と述懐していた。40数冊の書籍の多くが、青土社と岩波書店から上梓されており、身体論やキャプテン・クックなどへの広がりは、編集者三浦雅士との信頼関係によるところがある。1994(平成6)年からは八束はじめと季刊誌『10+1』(INAX出版)の編集を始める。美術論では、『神話なき世界の芸術家―バーネット・ニューマンの探究』(岩波書店、1994年)でアメリカ抽象表現主義の絵画を、『シジフォスの笑い―アンセルム・キーファーの芸術』(同、1997年、芸術選奨文部大臣賞)で歴史と絵画について考察した。さらに、60年代からモチーフとしていたデ・ステイルのなかから身体論(例えばリートフェルトの椅子)を含め、20世紀の特異な表象「抽象」について、モンドリアンの絵画をとおして考察していくことが晩年の課題であったが、形にはならなかった。日本近代絵画についての論考としては、靉光論「絵画というものの探求」(『靉光』展図録、練馬区立美術館他、1998年)などがある。教育者としては、67年和光大学助教授就任をはじめ、東京造形大学教授、千葉大学教授などを歴任した。著作目録については『建築と日常・別冊(多木浩二と建築)』(2013年)が参考となる。

鷹見明彦

没年月日:2011/03/23

読み:たかみあきひこ  美術評論家の鷹見明彦は3月23日、群馬県前橋市の病院で肝臓がんのため死去した。享年55。 1955(昭和30)年7月19日、北海道富良野市に生まれる。幼少時は広島で過ごし、10歳頃に東京都立川市に転居。絵を描くのが好きな少年だった。74年桐朋学園高校卒業。80年中央大学文学部哲学科卒業。20代後半から、音楽雑誌『中南米音楽』(後に『ラティーナ』と改称)に音楽、本、美術などの評論を執筆するようになる。84年同人誌『砂洲』を刊行。題字は中央大学在学中に交流をもった小川国夫が書いた。87年、作家の蔡國強と知り合い、『砂洲』に彼のテキスト「硝煙の彼方より」(山口守訳)を掲載する。90年代から、ギャラリー美遊、ガレリアラセンなどの企画に参加し、王新平、渡辺好明らの評論を執筆。90年頃から『美術手帖』に展覧会評を始め、評論活動が活発化する。1997(平成9)年から2000年まで、岩手芸術祭の現代美術部門の審査員を務める。98年、第3回アート公募’99企画作家選出展(天野一夫、西村智弘とともに)の審査に関わり、第6回まで務める。99年から東京藝術大学美術学部の油画科、以後同大先端芸術表現学科、彫刻科などで、また2000年からは茨城大学教育学部の非常勤講師を務める。03年から、表参道画廊の企画に関わり、水野圭介、坂田峰夫らの展覧会を企画する。同年、アートプログラム青梅の企画に参加。04年から07まで、武蔵野美術大学日本画学科の非常勤講師を務める。05年から『ホルベイン アーティスト ナビ』に毎月書評と映画評の連載を始める。鷹見は、環境、自然、神秘といったモチーフをもとに文明論を構想していた。書籍のかたちには至らなかったが、美術評論の数々は、彼と並走していた若い作家たちへのエールであり、その活動は病によって突然切断されてしまった。残された資料の一部は、東京文化財研究所に所蔵された。

瀬木慎一

没年月日:2011/03/15

読み:せぎしんいち、 Segi, Shin’ichi*  美術評論家の瀬木慎一は3月15日、肺炎のため死去した。享年80。 1931(昭和6)年1月6日、東京市京橋区(現、中央区)銀座に生まれ、豊島区目白台で育つ。生家は銀座で飲食店を営み、父が骨董収集を趣味としたため、近所の骨董屋によく同行した。幼少のころより教会に通い、初歩的な英語を習得する。10歳の時に父が戦死。44年から王子区(現、北区)十条の東京第一陸軍造兵廠で働く。このころ文学書、教養書を多読、特に万葉集や古今和歌集、世界名詩選のようなものに惹かれる。詩作もし、戦後は同人誌などに発表する。47年中央工業専門学校に入学、学制改革に伴い翌々年中央大学法学部に入学する。東宝の契約社員としてアニー・パイル劇場(現、東京宝塚劇場)に派遣され、脚本の翻訳、音楽の訳詩などの仕事に携わる。劇場の横にあったCIE(民間情報局)図書館で数年間アメリカの映画雑誌や美術書を読み、特にニューヨーク近代美術館の叢書などで西洋美術の勉強をする。一方自作の詩を見てもらったことを契機に小説家野間宏の知遇を得、野間の紹介で花田清輝、安部公房らを知る。岡本太郎、花田清輝らの前衛芸術運動「夜の会」に参加。49年「世紀」管理人となり、桂川寛とともにガリ版刷りパンフレット『世紀群』の制作責任者を担う。50年『世紀群』第3号でピート・モンドリアンの著述を翻訳した「アメリカの抽象芸術―新しいリアリズム」を発表。51年「世紀」が解散したのちに結核を患い、2年間秦野で療養生活を送る。大学を中退し、53年から『読売新聞』の展覧会評を執筆、のちに他紙でも執筆する。同年『美術批評』に初めての美術批評論文「絵画における人間の問題」を発表。54年「現代芸術の会」に参加。このころから養清堂画廊、東京画廊などの展覧会企画に携わる。57年渡仏、ミシェル・ラゴン、ハンス・アルプ、ジャン・デュビュッフェらと交友、同年イタリアで開催された国際美術評論家連盟会議に日本代表として参加。75年「現代美術のパイオニア」を『古沢岩美美術館月報』に連載開始、この連載を軸に翌々年東京セントラル美術館で「現代美術のパイオニア展」が開催される。77年東京美術研究所を西新橋・東京美術倶楽部内に創設し(1980年に総美社と社名変更)、『東京美術市場史』(東京美術倶楽部、1979年)の編纂にあたる。1990(平成2)年から『新美術新聞』で「美術市場レーダー」連載を開始(2011年まで)。この他に「今日の新人1955年」展(神奈川県立近代美術館、1955年、作家選出)、「世界・今日の美術」展(日本橋高島屋、1956年、展覧会委員)、シャガール展(国立西洋美術館ほか、1963年、実行委員)、ピカソ展(国立近代美術館、1964年、展覧会委員)、現代日本美術展(1964年から1971年まで、選考委員)、日本国際美術展(1959年から1965年まで、選考委員)、選抜秀作美術展(1966年まで、作品選定委員)、東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1964年まで、展覧会委員)、東京野外彫刻展(1986年から1995年まで、選考委員)などの展覧会に携わる。また和光大学、女子美術大学、多摩美術大学、東京藝術大学で教鞭をとった。国際美術評論家連盟会長、ジャポニスム学会常任理事、国際浮世絵学会理事などを歴任。おもな著書に『現代美術の三十年』(美術公論社、1978年)、『戦後空白期の美術』(思潮社、1996年)、『国際/日本 美術市場総観』(藤原書店、2010年)など、総合美術研究所での編書に『全国美術界便利帳』(総美社、1983年10月)、『日本アンデパンダン展全記録1945-1963』(総美社、1993年6月)などがある。現代美術やデザインを論じる一方、社会的・経済的な視点から美術品取引の実態や、美術商・オークションの動向など美術市場を実証的に研究した。2009年日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによりインタビューが行われ、同団体のウェブサイトに公開された。

中原佑介

没年月日:2011/03/03

読み:なかはらゆうすけ、 Nakahara, Yusuke*  美術評論家の中原佑介は3月3日、死去した。享年79。 1931(昭和6)年8月22日、兵庫県神戸市に生まれる。本名江戸頌昌(えどのぶよし)。神戸市立成徳国民学校、兵庫県立神戸第一中学校を卒業。中学校時代に相対性理論の解説書を読み理論物理学に惹かれる。48年旧制第三高等学校理科に入学、学制改革に伴い翌年京都大学理学部に入学。このころ理論物理学研究のためにロシア語を学び、エイゼンシュタインの映画論やマヤコフスキーの詩に傾倒。また当時「まやこうすけ」というペンネームで詩作もした。53年同物理学科を卒業、同大学院理学研究科に進学、湯川秀樹研究室で理論物理学を専攻。55年修士論文と並行して書いた「創造のための批評」が美術出版社主催第2回美術評論募集第一席に入選、雑誌『美術批評』に掲載される。湯川の紹介で平凡社に就職、『世界大百科事典』嘱託編集部員となるが、一年ほどで退職。上京してまもなく、安部公房に誘われ「現在の会」に参加、のちに「記録芸術の会」に参加。56年から『読売新聞』の展覧会週評を担当。63年「不在の部屋」展(内科画廊)を企画。このころから内科画廊、東京画廊、サトウ画廊、おぎくぼ画廊などの展覧会企画に携わる。66年「空間から環境へ」展(銀座松屋)に参加。68年「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(東京画廊・村松画廊)を石子順造と、「現代の空間’68光と環境」展(神戸そごう)を赤根和生と共同企画。70年に第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)「人間と物質」のコミッショナーを務める。75年から草月流機関誌『草月』に「現代美術入門」を執筆。82年から伊奈ギャラリー企画委員会に参加、その中心となり作家選定、会場構成、リーフレット『INA-ART NEWS』(1985年社名変更に伴い『INAX ART NEWS』と改題)への作家解説の執筆を行う。その他東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1979年まで、展覧会委員、実行委員、組織委員)、長岡現代美術館賞(1964年から1968年まで、出品者選考審査員、受賞者選考審査員)、現代日本美術展(1966年から2000年まで、選考委員、ただし12回は除く)、パリ青年ビエンナーレ(1967年、コミッショナー)、サンパウロ・ビエンナーレ(1973年と1975年、日本館コミッショナー)、ヴェネツィア・ビエンナーレ(1976年と1978年、日本館コミッショナー)、現代日本彫刻展(1977年から2011年まで、選考委員、運営委員長、選考委員長)、富山国際現代美術展(1993年と1996年、日本セクションコミッショナー)、越後妻有アートトリエンナーレ(2000年から2009年まで、アートアドバイザー)など現代美術の展覧会にさまざまなかたちで携わる。京都精華大学学長、水戸芸術館美術部門芸術総監督、兵庫県立美術館館長、国際美術評論家連盟会長などを歴任。おもな著書に『ナンセンスの美学』(現代思潮社、1962年)、『現代彫刻』(角川書店、1965年)、『見ることの神話』(フィルムアート社、1972年)、『人間と物質のあいだ』(田畑書店、1972年)、『大発明物語』(美術出版社、1975年)、『80年代美術100のかたち』(INAX、1991年)などがある。2011(平成23)年大地の芸術祭における企画「中原佑介のコスモロジー」として、旧蔵書約3万冊が川俣正によってインスタレーションとして展示された。また同年から現代企画室とBankARTにより『中原佑介美術批評選集』が全13巻の予定で刊行されている。前出の「創造のための批評」では、批評は作家の創作の秘密を説明するにとどまらず、それを変革するためのものであると説き、戦後の美術批評の地平をひらいた。針生一郎、東野芳明と並んで美術批評の「御三家」と称され、若い世代の作家たちを大いに刺激し、晩年まで日本の現代美術界を牽引した。

針生一郎

没年月日:2010/05/26

読み:はりういちろう、 Haryu, Ichiro*  評論家の針生一郎は5月26日、川崎市市内の病院で急性心不全のため死去した。享年84。1925(大正14)年12月1日、宮城県仙台市に生まれる。生家は味噌醤油屋を営んでいた。「学生時代は軍国青年であった」と本人は語り、保田与重郎などの著作に傾倒し、1948(昭和23)年東北大学文学部卒業(卒論は島崎藤村)。49年東京大学美学科特別研究生(旧制の大学院制度、54年修了)。48年頃から、花田清輝、野間宏らの「夜の会」、安部公房らの「世紀の会」、雑誌『世代』の同人に、50年からは岡本太郎らの「アヴァンギャルド芸術研究会」などに参加することで、読書会や現場を主体とした在野の視点を築き、学者でなく批評家の道を歩む方向を見出す。だが、一方では52年美学会の創立に参加、学会誌『美学』の編集に携わる。53年には日本共産党に入党し(61年除名)、日本文学学校に職を得る。また、ルカーチの著作にふれ文学・哲学関連の執筆活動をはじめており、53年に新日本文学会へ入会する。同会は針生が一番長く所属した会であり、『新日本文学』の編集委員や議長を歴任した。さらに同年『美術批評』誌への執筆が、現代美術評論家の出発となった。針生の評論活動の時代は、戦後民主主義の始動、60年・70年安保といった政治的な激動期であった。自身、50年代の基地闘争をはじめ三井三池炭抗闘争へ参加、「政治と芸術」をテーマに、現代芸術と大衆(または生活者)をめぐるダイナミクスを論じることを常としていた。69年から刊行された全6巻の評論集は、戦後の芸術運動を捉え、「大衆のなかから形なき前衛」を望む姿勢を発するものである。対外的には、67年のヴェネチア・ビエンナーレ、77年と79年のサンパウロ・ビエンナーレのコミッショナーをはじめ、アジア・アフリカ作家会議の委員を務めるなど、パレスチナをはじめとする第三世界、国交樹立前の中国や南北朝鮮との文化交流に積極的に参加した。67年からのヨーゼフ・ボイスとの交流は「運動としての芸術」への思いを強くしたという。70年代半ばからは「の理念の崩壊とともに、個々の作家の仕事を同時代人に正確にうけとらせる作家論に力をそそぎ」(引用「自筆年譜」『機關』17号針生一郎特集より)、今井俊満、岡本太郎、香月泰男、桂ゆきなど多くの美術家の展覧会図録や作品集へ寄稿した。80年代から、「退役批評家」と自嘲的に語り、「原稿執筆は喫茶店の梯子」もしなくなったと語っていた。1999(平成11)年に肺がんを発症、入院し抗がん剤で治療をするも、愛用のタバコ「わかば」は離さなかった。2000年の光州ビエンナーレでは「芸術と人権」の特別展示のキュレーター、02年にはアートスポット「芸術キャバレー」の設立に加わった。評論、講演活動を死の直前まで体に鞭打ち行なった「生涯現役の行動する評論家」といえよう。ドキュメンタリー映画に『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』(大浦信行監督、2001年)、出演映画に『17歳の風景―少年は何を見たのか』(若松孝二監督、2005年)がある。1968年から73年まで多摩美術大学教授、74年から96年まで和光大学教授、98年から2000年まで岡山県立大学大学院教授を歴任。また金津創作の森館長、原爆の図丸木美術館館長、美術評論家連盟会長を務めた。 主な著書 『ゴーガン』 『レジェ』(みすず書房・美術ライブラリー、1958年、1959年) 『芸術の前衛』(弘文堂現代芸術論叢書、1961年) 『われらのなかのコンミューン 現代芸術と大衆』(晶文社、1963年) 『現代美術のカルテ』(現代書房、1965年) 『針生一郎評論』(全6巻、田畑書店、1969-70年) 『文化革命の方へ 芸術論集』(朝日新聞社、1973年) 『現代の絵画 別巻今日の日本の絵画』(平凡社、1975年) 『戦後美術盛衰史』(東書選書 1979年) 『言葉と言葉ならざるもの』(三一書房、1982年) 『わが愛憎の画家たち』(平凡社選書、1988年) 『修羅の画家 評伝安部合成』(岩波同時代ライブラリー41、1990年)  主な訳書 『リアリズム芸術の基礎』(ルカーチ著、未來社、1954年) 『バルザックとフランス・リアリズム』(ルカーチ著、男沢淳と共訳、岩波書店現代叢書、1955年) 『ダダ 芸術と反芸術』(H・リヒター著、美術出版社、1966年) 『シュルレアリスム』(ベンヤミン著作集8、野村修と共訳、晶文社、1981年) 『ジョン・ハートフィールド フォトモンタージュとその時代』(H・ヘルツフェルド著、水声社、2005年)  主な編著 『現代絵画への招待』(南北社、1960年) 『現代美術と伝統』(合同出版社、1966年) 『われわれにとって万博とはなにか』(田畑書店、1969年) 『現代の美術Art Now 第10巻記号とイメージ』(講談社、1971年) 

平木収

没年月日:2009/02/24

読み:ひらきおさむ、 Hiraki, Osamu*  写真評論家、九州産業大学教授の平木収は2月24日、食道がんのため福岡市内の病院で死去した。享年59。1949(昭和24)年8月7日京都府与謝郡宮津町(現、宮津市)に生まれる。京都市伏見区で幼少期を過ごし68年京都府立桃山高等学校卒業。72年早稲田大学第二文学部に入学、77年卒業(美術史専修)。少年時代より写真に関心を持ち、大学在学中の76年3月に東京綜合写真専門学校研究科の学生であった谷口雅らと新宿百人町に自主ギャラリー「フォトギャラリー・プリズム」を開設、77年10月の活動終了までに二度の個展(「レオナルドにならいて」、1976年、「写真機は文房具かなあ」、1977年)を開催する。大学では写真の芸術性について研究し、二つの個展が写真論的な視点にもとづくものであったことにも表われているように、写真をめぐる理論や歴史研究にも早くから幅広い関心をもち、75年『カメラ毎日』誌(6月号)に初めての評論「フォルカー・カーメン著『芸術としての写真』エネルギッシュな収集、対比の妙」を寄稿、80年『日本カメラ』誌において写真展評の連載を始め、実作から評論・研究へと軸足を移す。以後、同誌や『アサヒカメラ』誌などに多くの写真展評、書評などを寄稿、写真評論家として活動する。その評論活動は写真展や写真集などを丹念に実見するフィールドワークに基づくものであり、78年の初の渡欧以降、晩年に至るまでパリ写真月間、アルル写真フェスティバルをはじめとする写真関連の催しの取材や写真研究のため、欧米やアジア諸国にたびたび渡航するなど、そのフィールドは広く海外にも及んだ。85年にツァイト・フォト・サロンにより期間限定で開館した「つくば写真美術館’85」で開かれた「パリ・ニューヨーク・東京」展(つくば写真美術館’85の会期終了後、宮城県美術館に巡回)では、キュレーター・グループの一員として展覧会の企画・運営に携わり、主として19世紀の写真を担当。87年には川崎市教育委員会市民ミュージアム準備室嘱託となり、川崎市市民ミュージアムの設立準備に従事、88年同ミュージアム開館に際し学芸第二室写真部門担当学芸員に就任、1994(平成6)年同学芸主任を辞するまで同ミュージアム写真部門で「写真家・濱谷浩展」(1989年)、「ルイス・ボルツ 法則」(1992年)など多くの写真展を担当する。退任後も、「ピュリツァー賞写真展二〇世紀の証言」(Bunkamuraザ・ミュージアム他、1998年)など多くの写真展を企画・監修した。81年には東京綜合写真専門学校の非常勤講師となり、以後、日本写真芸術専門学校、武蔵野美術大学、京都造形芸術大学、早稲田大学、同芸術学校、玉川大学、東京藝術大学、東北芸術工科大学などで非常勤講師を務め写真史などを講じる。02年早稲田大学芸術学校客員教授に就任(06年3月まで)。05年には九州産業大学芸術学部教授に就任し、死去の直前まで学生の指導にあたった。原点としての実作者としての活動に始まり、評論家、キュレーター、教育者など、平木の写真に関わる広範な活動は、彼自身の造語「フィログラフィー(画像学)」に見られるように、狭義の写真史・写真研究にとどまらない、より広範な文明史的文脈のなかに写真を位置づけ、また畏敬し、享受しようとする柔軟な態度に貫かれていた。写真への尽きせぬ関心をさまざまな方法で伝え続けたその多面的な仕事を通じて、指導を受けた学生だけでなく、写真家や写真研究者にも平木の薫陶を受けたものは多い。そうした功績に対し、99年に日本写真文化協会功労賞、死去の翌年第60回日本写真協会賞功労賞が授与された。単著に『映像文化論』(武蔵野美術大学出版局、2002年)、遺稿集『写真のこころ』(『写真のこころ』編集委員会〔佐藤洋一、竹内万里子、徳山喜雄〕編、平凡社、2010年)がある。また09年5月に東京・市谷で開かれた「お別れの会」に際して刊行された『平木収 1949―2009』に詳細な年譜、執筆文献リストが収載されている。

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